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5-4

 ある一人の男がいた。

 男はアルファだった。

 彼は一人のオメガに魅入られた。

 小学五年生だった水無瀬廻に。


「廻ちゃんも、私達みんな知らない人だった」


 男とは誰も面識がなかった。勤務先の広告代理店が隣慈学園の近くであったのが唯一の接点で、当然、水無瀬がクイーン・オメガであることも彼は知らなかった。


 学園近辺で一目見かけて魂を奪われた。心の底から愛した。事件後に彼の自宅で見つかった日記には水無瀬への愛情がびっしりと綴られていた。


 ――自分のものにしたい……攫いたい……でも、そんなことをしたら罰せられる……いっそ一緒に死にたい――


 七年前、働き盛りで有能だった彼は、小学生にして類稀な美貌を持っていた水無瀬を愛する余り、常軌を逸した。


「あの日は廻ちゃんと刀志朗の家でかくれんぼをしていた」


 週末の昼過ぎ。水無瀬の両親は不在だった。


「ジャンケンに勝った刀志朗は真っ先にお風呂場に隠れた。私はリビングのカーテンに包まって、庭を見ていた」


 すると庭に彼が現れた。スーツ姿で清潔感のある身だしなみで、辺りを警戒する様子もなく堂々としていた。凛に会釈までしてきた。


「おじちゃんの知り合いの人だと思って、庭からリビングに上がって、家の中へ入ってくるのを、私は止めなかった」


 凜は声をかけた。水無瀬の両親はいないと。男は浅く頷いただけで二階へ上がっていった。二階には鬼の水無瀬がいた。自室に誰か隠れていないか確認していた少年は、招かれざる客に見つかってしまった。


「そこにお兄ちゃんが来た」


 二階に隠れていた桐矢は素早く異変を察知した。希少なクイーン・オメガが負わされるリスクを学んでいた少年は、幼馴染みのために持ち歩いていた防犯ブザーを鳴らした。男を押し退けて部屋の中へ入り、水無瀬を連れて一階へ逃げようとした。


「そのとき、お兄ちゃんはナイフで背中を切りつけられた」


 皐樹の心臓は痛い程に跳ねた。


「家中にブザーが鳴り響いて、お風呂場に隠れてた刀志朗を連れて、私は二階に上った。お兄ちゃんが廻ちゃんに覆い被さって、廊下に倒れて……」


 朝から絶え間なく続く雨音、騒がしい生徒の話し声が皐樹の耳元を擦り抜けていく。


「背中が血で赤くなってた」


 凛は虚空を見据えていた。今でも鮮明に覚えているだろう兄の傷ついた姿に瞳を震わせながら。


「桐矢は大丈夫だったんですか?」


 現在、体調は万全そうな彼を日頃から見ているというのに、皐樹は聞かずにはいられなかった。


「出血の割に傷口は浅かった、幸いにも。だけど痕は残ってる」

「そうなんだ……」

「私達が二階へ行ったときには、もう、彼は亡くなっていた。自分が持ってきたナイフで命を絶ったの」


 言葉にならない。彼等が共有する痛ましい過去に皐樹は打ちのめされた。降り続く雨。目の前を横切っていく生徒達。日常にふと現れた深い落とし穴にはまって、視界に映る何もかもがどこか遠い出来事のように感じた。





 水無瀬が襲われた事件は発生直後にネットニュースに取り上げられた程度で、新聞やテレビで報道されることはなかった。隣慈学園役員という有力者の祖父が表沙汰にならないよう手を回し、自殺した加害者の遺族に対しても過剰に責め立てず、早期解決に至った。その一方で、桐矢には有り余る感謝の代わりに医療費を全額支払い、今後の学費についても特別対応となる大幅減額を約束していた。


(水無瀬さんは二回も襲われて、二回とも桐矢に守られた)


 子どもながらに身を挺して幼馴染みの水無瀬を助けた桐矢。


 きっと強い絆で結ばれているはず。それこそ運命の番のように……。


「どうした、浮かない顔をして。そんなに難題なのか?」 


 雨が満遍なく街を濡らす放課後、前日と同じ場所で勉強する皐樹の隣には水無瀬がいた。


「数Aか。刀志朗も苦手な科目だ」


 今日は一人で図書館を訪れた。窓際のテーブルに座って自習の準備をしていると、いきなり隣に水無瀬が着席して皐樹はヒヤリとした。反射的に腕を庇ってしまった。


「そういえば弟はお前を気に入っているようだな」


 六月も終わろうとしている中、ブレザーを着込んだ水無瀬を隣にして勉強どころではなかった皐樹は、返答に窮した。


「二見さんも皐樹のことを気に入っていた」


 水無瀬が現れて歪な波紋を描いていた皐樹の胸は、その名前を聞いて激しく渦巻く。


「お前はどうだった? あの人に興味を抱かなかったか?」


 彼は微笑した。綻びのない笑み。作り物じみてすらいる完璧な美しさ。ただ、明けの明星さながらに瞬く瞳は底無しの深淵を覗かせていた。


「それとも心に決めた相手がもういるのか?」


 凄艶なまでに匂い立つクイーン・オメガの威圧感に心臓を縛り上げられ、身動きできないでいる皐樹の顎を水無瀬は持ち上げた。


「皐樹。どうした。俺が怖いのか」


 どこまでも見透かされている気がした。受け答えするのもままならず、皐樹は真っ暗な深淵に引き摺り込まれそうになった。


「――図書館でいちゃつくのはやめてくれ」


 睫毛の先まで凍てつきかけていた切れ長な双眸は、息を吹き返す。振り返れば桐矢がいた。肩に手を置かれ、肌身にまで熱が染み込んで、皐樹の心臓は金縛りから解放された。


「秩序正しい静謐な空間でいちゃつくのは禁止されている」

「お前が言うのか、それを」


 今日は雑務当番の日である桐矢に水無瀬はクスクスと笑う。自習スペースに居合わせた生徒達は、それまでの集中力を途切れさせ、絵になる二人にこぞって見惚れていた。


「そういえば例の司書は。進捗は?」

「どうもこうも。誰かさんのせいで警戒されて、それきりだ」

「お前の興が削がれただけの話だろう」


 皐樹は俯く。金縛りから解放されたのも束の間、守った者と守られた者、運命の番じみた二人のテリトリーに中てられた。居た堪れずに逃げ出したくなった。


 だが、桐矢の片手がずっと肩に置かれていて、急に力がこもったりするものだから、一人ひっそりと逡巡するしかなかった。


 桐矢はいつまで狩人ごっこを続ける気でいるのか。この気紛れな暇潰しはいつ終わるのか。皐樹にはわからなかった。


「また雷鳴が聞こえる。ここまで来るかもな」


 制服のシャツ越しに滲む掌の熱に、ずっと心臓が疼いている。わかっているのは、すでに自分の半身が桐矢に捕まっていることくらいだった。



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