5-2
火曜日の昼休み。週末は雨だったが、昨日今日と晴天が続き、低木・高木の植栽に彩られた庭園で皐樹はランチをとった。
「昼寝したくなる」
隣には桐矢がいた。一年生の教室へフラリとやってきてはカフェテリアへ皐樹を連れていったり、屋外ランチに誘ったりと、二人は不定期で昼休みを一緒に過ごすようになっていた。
「五限は体育か。かったるい」
蒸し暑くなってきた六月下旬、長袖を腕捲りした桐矢はベンチの背もたれに踏ん反り返る。いつも早く食べ終える彼の隣で、半袖の皐樹はペットボトルのお茶を飲んだ。
「ッ……何してるんだ、桐矢」
途中で噎せかけた。踏ん反り返っていたはずの桐矢がベンチの上でゴロリと横になり、膝に頭が落ちてくる。許可もなしに膝枕を強行されて、ぶわりと汗をかいた。
「重たい、退いてくれ、人に見られる」
斜向かいのベンチに座る中学部の女子生徒二人がこちらに釘づけになっていて、皐樹は赤面した。
「またいづみに切ってもらうか、髪」
整髪料をつけていない髪を手櫛で梳かれる。目線を下ろせば鋭く笑う眼にぶつかった。
「お母さんを呼び捨てにするのはよくない」
「前髪を伸ばしてるのには、何かこだわりでもあるのか」
ぐっと、前髪を掻き上げられた。額から髪の中へ滑り込んできた五指に皐樹はゾクリとする。
「せっかく、色っぽい目してるのに。もったいない」
「変なこと言わないでくれ。それに自分だって長いだろ。片目が隠れてるときがある」
「こういう目、切れ長っていうんだろうな」
「指が近い。俺の眼球を抉りたいのか?」
「よく観察したいと思って」
桐矢はわざとらしく声を潜め、くすぐったくて困り果てている皐樹に囁いた。
「キスするときにぎゅうぎゅう閉じるもんだから、お前の目、近くでちゃんと見たことがないんだよ」
些細な愛撫に限界を来たした皐樹は、ぎゅっと目を閉じる。
「桐矢はッ……二見さんを知ってるか?」
塞き止めていた「知りたい欲求」を思い余って解放した。聞くか、聞くまいか。昨日から何回も言いかけて呑み込んだ問いだった。
「二見か。知ってる。隣慈のOBだ」
俊敏に起き上がった桐矢はすんなり答える。
「その名前、お前はどこで聞いた?」
「……土曜日に、ホテルで会って」
「ホテル? それはどういう状況だ、お前、誰かと行ったのか、俺の知ってる奴か」
無駄に顔を近づけてきた桐矢に皐樹はたじろいだ。
「従姉妹の結婚式にお父さんと行ったんだ、二見さんは水無瀬さんと一緒だった!」
ベンチから落ちそうになる寸前まで退いた皐樹の必死の言葉に、桐矢は、眉を顰める。
「水無瀬さんの方から俺に声をかけてきた。二見さんからは名刺をもらった、ほら」
皐樹はズボンのポケットに入れていた名刺を差し出した。受け取った桐矢が、ろくに見もせずに自分のズボンのポケットに仕舞うと、目を丸くした。
「お前にはまだ早い」
再び横になった桐矢は当たり前のように皐樹の膝に後頭部を預けてきた。
「廻が二見と会ってた、か」
「二見さんは、かなり年上に見えた」
「俺や廻より八つ上だ。幼稚園から大学まで生粋のストレート組だった」
「二十六歳でお店のオーナーをしてるのか。有能な人なんだろうな」
「父親が所有してる土地とビルの物件だ、コネだろ」
ベンチのそばに立つ常緑樹の枝葉が風に遊ばれる。揺らめく木洩れ日に眩しそうにするでもなく、桐矢は深く息をついた。
「護身用に廻にナイフをプレゼントするような奴だ、二見は」
「ナイフ? さすがに物騒じゃ……いや、護身用ってことは、二見さんは知ってるのか?」
水無瀬が稀有なクイーン・オメガだと把握した上での仰々しい贈り物なのか。問いかけた皐樹に桐矢は告げた。
「五年前、二見は学校で初経が来た廻を襲った」
皐樹は耳を疑った。
顔馴染みといった様子で二人が一緒にいるところを見ていた分、信じられない話だった。
「大学生だったアイツは偶々ここに遊びにきていた。放課後、校内で倒れていた廻を最初に発見して、クイーンのフェロモンにやられた。その場で十三歳に手を出そうとした」
他人事さながらに淡々と話す桐矢に困惑し、皐樹が押し黙っていたら、彼は大きく身じろぎして自白した。
「見つけた俺が階段から二見を突き落とした」
青々とした空の下で成された罪の告白に皐樹は凍りつく。
「嘘だよ」
次に、平然と嘘だと打ち明けられて……かつてないくらいに憤慨した。
「全力で頬を抓るな、皐樹」
憤怒の形相で睨んで髪までぐしゃぐしゃにしていたら、桐矢に手首を掴まれた。
「二見が廻を襲いかけたのは本当の話だ。寸でのところで俺が食い止めた。暴走していた奴を廊下で蹴り飛ばしてな。階段から突き落としてはいない」
「ほ、本当に? でも蹴っ飛ばしたのか?」
「暴走したアルファは生半可な力じゃあ止められない。お前もよく知ってるだろ」
「……」
「当時は色々デマが流れたけどな。噂につく尾ひれってやつは好き勝手に学園を泳ぎ回る」
(安藤達が話していたのは、この件だったんだ)
刀志朗や凛も関わっているのか。五年前に自分を襲おうとした相手と、どうして水無瀬は会っていたのか……。
「つまり俺とお前は似た者同士ってわけだ」
(深入りしないようにしていたのに)
いつしか知りたくなっていった。
桐矢のことを。
「俺の暴走を止めてくれたのはカオルだった」
もっと詳しく聞きたかった皐樹は、予想外の名前が出てきてフリーズした。皐樹の手首を掴んだままの桐矢は、目を閉じ、脳裏に深々と根付く二つ目の記憶を手繰り寄せる。
「廻を組み伏せてる二見を見て、頭に血が上った。蹴り飛ばすだけじゃ足りなかった」
そこへ、近くを通りかかった、当時の担任だったカオルが血相を変えてやってきた。我が子と同じくクイーンのフェロモンの影響を免れた教師は、無抵抗の卒業生に跨って拳を振るおうとしていた教え子を死に物狂いで制止した。一切、手は上げずに。
「……じゃあ、お父さんも知ってるんだ、水無瀬さんのこと」
父親は、水無瀬がクイーン・オメガだと知らされていない教師側だろう。勝手にそう思い込んでいた皐樹は、ぽつりと呟いた。
「あんなにも頼もしい教師、他に知らない」
「……うん」
「カオルがきっかけになった」
「きっかけ……?」
「俺が教師を目指すきっかけだ」
痺れ出していた膝から頭を起こした桐矢を皐樹はまじまじと見つめる。
「これまで会っていたのか、それとも、土曜のその日限りか。どちらにせよ、まさか廻が二見と接触するなんて思いもしなかった」
予鈴が鳴り出した。庭園で昼休みを過ごしていた生徒が校内へ戻っていく。
立ち上がった桐矢はポケットの中に仕舞った名刺を握り潰した。
「皐樹、絶対に奴の店には行くなよ」
「ピュアリティ、だったか?」
「名前も忘れろ。ドラッグの売人が出入りしてる。オーナーの二見が客寄せのため招き入れてるんだ」
皐樹は小さく息を呑んだ。
「自分が乱暴しようとした相手にナイフを贈るなんて理解不能でしかない」
桐矢に手を差し出され、躊躇いがちに握れば頼もしい腕力で引っ張り起こされた。
「当時、二見は廻の家だけじゃなく俺のところまでわざわざ謝罪に来た。自分を止めてくれて感謝してる、礼がしたい、こっちが断っても妙にしつこくて、ご丁寧に手書きの反省文まで立て続けに送ってきた」
二見への嫌悪感を露にして桐矢は言う。
「仕舞いには廻にあのナイフだ。俺もその場にいたから、突っ返して、謝罪も反省文も十分受け取ったから二度と俺達に関わらないでくれと拒絶したつもりだった」
それなのに水無瀬はナイフを手にしていた。二見が懲りずに後日届けにきたという。以来、彼との接触は途絶えた。桐矢は今の今までそう認識していた。
「廻を襲ったのがクイーンのフェロモン効果とはいえ、奴の人格自体、虫が好かない。皐樹。二見とは距離をおけ」
「俺は名刺をもらっただけだ。もう会うことはないと思う」
「それでも肝に銘じて警戒を怠るな。いいな?」
真剣な眼差しの桐矢に念を押される。その上、両手で顔を挟み込まれ、彼の前髪が触れる程顔を近づけてきたものだから、皐樹は何回も頷く他なかった。