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桐矢は一方的に自分を敵視していたグループ全員を罰するような真似には至らなかった。
「今まで甘やかして放置していた俺にも責任がある」
ただしリーダー格である安藤にのみ、俯せに打ち倒すと頸部と背中を膝で押さえつけ、窒息紛いの苦しみをしばし与えた。
「吾孫子と俺が仲よくして我慢の限界、それで新入生の皐樹に憂さ晴らしか。どうしようもないな、お前」
どうにも吾孫子というのはピクニック広場へやってきたアルファ性の女子生徒のようだった。
中学から隣慈に在籍しており、才色兼備で家柄もいい彼女と長い間お近づきになりたがっていた安藤は、高三で同じクラスになってスムーズに親しくなった桐矢をより一層妬んだ。学園内のアルファの中で格上としてランク付けされている当人には物申せず、近頃一緒にいるのをよく見かける皐樹にストレス発散しようとしたらしい。
「皐樹の頬を引っ叩いただろ」
一目見て赤くなった頬に桐矢は気づいていた。咳き込んでいた安藤を無造作に引っ張り起こすや否や、その頬を平手打ちにした。
「ほら、聖書の授業で習った通りに、もう片方の頬も差し出せ」
自分のときよりも大きな音が鳴り渡って皐樹は息を呑む。もう一度、すっかり戦意喪失している安藤の頬目掛け、桐矢は手を振り翳そうとした。
「もういい!」
桐矢は重たげに瞬きする。
片腕に精一杯しがみつく皐樹を見下ろすと、意外にもすんなりと安藤を解放した。
「次に同じことをしたら、廻にチクって隣慈から追放してもらうか、それとも」
すでに三人逃げ出していて、置き去りにされた安藤ともう一人を桐矢は見据える。
「骨の一部か複数、折らせてもらうか」
安藤は青ざめた。もう一人の生徒と共に縺れる足で到底敵わない天敵の前から逃げていった。
「桐矢、どうしてここへ……?」
二人きりになり、桐矢にしがみついていた皐樹は気まずそうに離れた。遠ざかっていく足音を耳で追っているのか、階下に視線を縫いつけたまま彼は答える。
「安藤が吾孫子に気があったことを思い出した。狡猾なハイエナ殿のことだから、もしやと思ってテリトリーに来てみたら案の定だった」
つい先程まで殺気立っていた彼は落ち着いているように見えた。
己の直感に従い、安藤を速やかに打ち倒して息の根を止める真似事に及び、他の同級生を牽制した一連の動きには無駄がなかった。慈悲を忘れかけていた目つきに皐樹は凄味すら覚えた。
学校関係者を階段から突き落としたという、嘘か真か不明であった話が現実味を帯びて、のしかかってきたような気がした。
「俺にはないのか」
助けてくれたお礼を言おうとした皐樹は、何を聞かれているのかわからず、きょとんとする。
「サンドイッチ」
桐矢は投げ捨てられたリュックに向かって顎をしゃくってみせた。
「……もう、みんなで食べたから、ない」
「どうして残してないんだ。あんなに大量にあったのに一つも残さないで食べ切るなんて、なかなか薄情だな。思いやりがない」
急に昼食のサンドイッチについて触れ、残っていないと聞かされて不機嫌になった桐矢に皐樹は唖然とする。
「アンタは、その吾孫子さんって人といなくなったじゃないか」
本当は一つ残していた。でも、彼女と行ってしまったから、無理やり食べた。
「それに寝てた。正確には狸寝入りだったけど。口にぎゅうぎゅう詰め込んだらよかったのか」
モッズコートのポケットに両手を突っ込み、階段の方を向いていた桐矢は、体ごと皐樹に向き直った。
「どうしてそんなに俺にイラついてる、お前」
「それはこっちの台詞だ!」
「ほらな、もうヒートアップしてる。刀志朗にはよく笑いかけてるのに」
「どうして刀志朗の名前が今出てくるんだ!?」
「助けてやった俺には頭ごなしに怒鳴りつけてくる」
「助けてほしいなんて頼んでない!」
ジャージのジッパーを喉元まできっちり上げた、両手で拳を握る、さらに顔を赤くした皐樹に桐矢は真顔で続ける。
「なぁ。もしもあのデマの通りになったら。お前がヒートになったら。俺が世話してやる。一匹狼ちゃん専用のハウスと豪華な餌を用意してな」
皐樹の切れ長な目が見る間に怒りに張り詰めた。他の誰でもない桐矢に最も腹が立ち、オメガの感情は爆発した。
「桐矢がラットになったら首輪と手枷と足枷をつけて犬小屋に繋いでやる」
正に売り言葉に買い言葉か。先程は引っ叩かれても出てこなかった涙まで目尻に滲ませ、怒りでワナワナと震える皐樹に、桐矢は平然と言い返す。
「繋げるもんなら繋いでみろ」
怒りが沸点に達した、その瞬間。
皐樹は桐矢に口づけられた。
頭を屈め、自分より細い腰を抱き寄せ、不敵なアルファはまだまだ罵倒し足りなかったオメガの唇を完全に塞いだ。
当然、皐樹は嫌がった。腕の中でがむしゃらに暴れた。すると桐矢に容赦なく力で押され、冷たい壁に両手を縫い止められた。
三秒間で締め括られた前回のキスとはまるで違っていた。
「――アイツ等に他に何かされなかったか」
捕らえていた唇は自由にしたものの、壁に両手首を縫い止めたまま桐矢は問いかけてきた。
「どうして、こんなことするんだ」
皐樹は、すぐそこにある鋭い目を睨んだ。上下とも濡れて生温くなった唇で非難する。
「俺のこと避けてたじゃないか。狸寝入りしたり、擦れ違っても顔を背けたり……無視したくせに」
「寂しかったのか?」
鼻先が触れ合いそうな距離で桐矢は再び問いかけてくる。月と同じ色をしたプラチナブロンドと、危うげに冴える双眸に視界が埋め尽くされて、皐樹は無意識に息を止めた。
「あのときは人目につかない場所まで行って、吾孫子からの交際の申し込みを丁重にお断りしていたんだ」
「え……」
「お前を避けていたのはな、過ちに溺れないよう自重していたからだよ」
「は?」
「第二裏での無防備な様を思い出して、所構わず抱き潰したくなるのを我慢していた。こんなにも紳士的な理性が俺に残っていたんだと驚かされた。貴重な体験だ」
身長差が十八センチある桐矢の影に呑まれた皐樹は、穴の開く程に彼を見つめた後、怒鳴った。
「こんなことしておいて何が理性だ!!」
耳朶まで紅潮させて怒っていたら、また、彼にキスされた。
引っ叩かれた顔だけじゃない、桐矢に触れている場所がジンジンと疼き出す。
得体の知れない切なさに身も心も蝕まれていった。
(……熱い……)
壁の上で頻りに悶えていた皐樹の指に桐矢の指が絡まる。
息継ぎさえままならない下級生は上級生の大きな手を握り返した。
互いの唇の狭間で零れたのは断末魔代わりの吐息だった。
(今、狩られているんだろうか)
きっと、これまで狩られてきた犠牲者と同じように棄てられる、結末はわかりきっているのに。
このアルファには抗えない。
甘い戦慄に犯された皐樹は、おもむろに顔を離した桐矢を恐る恐る見つめた。
「これって……ヒートなのか……?」
鼓動が加速する。
胸が軋む。
火照る全身に眩暈がする。
「違う」
桐矢は満遍なく潤んで艶めく切れ長な目を覗き込み、満足げに囁いた。
「俺に感じてるだけだ」
「……もう、いい、もう嫌だ、こんなこと」
「俺から逃げるなよ、皐樹」
「離してくれ」
「逃がすつもりもないけどな」
離してと言いながら、まだ手を握っている皐樹に愉悦して、桐矢は捕食紛いのキスを再開した。
人気のない校舎に衣擦れの音色と微かな悲鳴が溶けていく。
――階下の踊り場に佇む水無瀬の耳にまで届いたかどうかは、わからない。遠足に来ていなかったはずの彼は黒いミリタリージャケットを着て、頭上を仰ぎ、扇情的な頤を際立たせていた。
その白い指は、ポケットの中の、かつて護身用に贈られた折り畳み式の小型ナイフを愛撫していた。