4-1-このアルファには抗えない
水無瀬の欠席はしばらく続いた。
クイーン・オメガの月経は不順で、周期も期間も定まっていない。痛みにも波があり、体調は安定せず、ベッドで安静に過ごすことが最善策とされていた。
「痛みは大分落ち着いたみたい。ちゃんと食事もとってるよ」
休み時間に用もなく教室へやってくる刀志朗に、徐々に回復していると教えてもらい、水無瀬の容体が気にかかっていた皐樹は一安心した。
「皐樹の方は大丈夫?」
「俺は別に……」
自分自身は大丈夫じゃなかった。
校内で桐矢と出くわしたら、どんな顔をしたらいいのか、まるでわからなかった。相変わらず陰口は叩かれていたが、ボキャブラリーに欠けた中傷など気にしていられなかった。
だが、皐樹の悩みは杞憂に終わった。教室のフロアが違う三年生の彼とは接触せずに、日々は穏やかに流れていった。
一度、渡り廊下で擦れ違った際には、あからさまに顔を背けられた。登下校や移動教室で身構えていたのが馬鹿馬鹿しくなるくらいの素っ気なさに、皐樹はカチンときたものだった。
(もういい、これ以上、振り回されたくない)
序盤で躓いた学校生活を立て直すため、学びの姿勢を新たにして、皐樹は授業に集中しようとした。
そうして新学期の三週目は過ぎた。
「水無瀬さん、もう大丈夫なんですか?」
四週目。先週は連日欠席していた水無瀬が学校へやってきた。
「先日は迷惑をかけてすまなかった」
朝一番、彼は刀志朗と一緒に一年生の教室に出向いた。綻び一つない制服姿で、品のある美しい佇まいで、予習を中断した皐樹と向かい合った。
「刀志朗とも打ち解けたそうだし、今日の昼休み、カフェテリアで一緒に食事しよう」
「僕が皐樹を迎えにいくね」
一方的にランチの約束をとりつけて水無瀬兄弟は教室を去っていった。崇高さまで滲み出るクイーン・オメガのオーラに呑まれていた皐樹は、クラスメートの視線が四方から突き刺さる中、席に着いた。
(もう桐矢と関わらないで済むと思ったのに)
でも、渡り廊下で自分を煙たがったのだから、同席を嫌がって不在かもしれない……。
「皐樹を連れてきたよ!」
昼休みのカフェテリア、前回と同じソファ席に桐矢はいた。刀志朗にエスコートされた皐樹は回れ右したくなった。
しかも窓際に妹の凛、その隣に桐矢、向かい側には水無瀬が着席しており、水無瀬の隣に座るのは気が引けて桐矢の隣に渋々腰を下ろした。
「フィッシュサンドあるし、ここはベーグルサンドも種類が色々あっておいしいんだよ」
「ベーグル、一つもらう」
水無瀬の隣に座った刀志朗が、ベーカリーで購入してきた個装パンを並べる。油淋鶏定食を早々と平らげていた桐矢はベーグルサンドを一つ掴み取った。
「刀志朗、パン屋さんみたい」
「凛ちゃんにはアップルパイ選んだよ」
「舜は一つでいいのか?」
「午後のオヤツにもう一つもらう」
四人の遣り取りを傍観していた皐樹の前にフィッシュサンドが置かれた。
「魚食性一匹狼ちゃんの好物だろ」
素知らぬ顔の桐矢に寄越されて、むっとしつつも「刀志朗、ありがとう、いただきます」と、礼を述べて口をつける。
(きっと風紀が乱れるに乱れた第二体育館裏の常連なんだ、桐矢は)
――ヒートになったオメガ。ラットを誘発されたアルファ。噂が広まっていただけに、前回よりもカフェテリアにいる生徒達の視線はそのソファ席に集まっていた。
寛容な水無瀬が皐樹を許したに違いない。
和やかなランチの光景を目の当たりにし、多くの者が勝手にそう解釈した。水無瀬の器の大きさを称え、賛同し、必要以上に皐樹を罵る必要もないかと思い至る者もいた……。
(――これで完全に証明された)
一週間前のアレは桐矢にとって暇潰しの悪戯だった。誰にでもしている行為で、日常茶飯事の範疇で、深い意味などなかった。
(所詮、図書館で女性の太腿を触るような人間だ)
自分の中でそう結論付けた皐樹は、刀志朗に勧められたベーグルサンドを勢い任せに頬張った。
青い空と白い雲のコントラストが清々しい晴天。鬱蒼と生い茂る木々。頬を吹き抜けていく爽やかな山風。
四月末、絶好の行楽日和に隣慈中学校・高等学校の歓迎遠足は実施された。
中学部はテーマパーク、高等部は自然公園と行き先が分かれている。学園内に停められた貸切バスに乗って異なる目的地へ。高速道路を利用して郊外まで各自移動した。
バンガローが並ぶキャンプ場、フィールドアスレチックや多目的エリアなど、様々な体験ができる自然公園の中心には人工湖があった。吊り橋がかけられ、辺り一帯を囲む青々とした森林と凪いだ湖の景観が一望できる。園内でも人気のスポットだった。
芝生広場で滞りなくレクリエーションが催され、予定通り、正午に自由時間に入った。
「桐矢君、私達と回らない?」
「吊り橋で一緒に写真撮りたいの」
一際目立つ華やかな集団がいた。今日は私服可であり、センスのいいスポーツファッションに身を包んだ上級生の女子グループだ。
アルファであるのが一目瞭然であるキラキラした輪の中心には桐矢がいた。
いつものモッズコートにシンプルなトレーナー、ジョガーパンツ、レザースニーカーを履いた彼は今日も手ぶらで彼女達と移動を始めた。
学校指定のジャージにリュックを背負った皐樹は、興味があった吊り橋からの眺望を断念した。
(水無瀬さんは来ていないみたいだ)
大事を取って欠席したのか。気になって、学年が入り乱れている芝生広場をぐるりと見渡してみた。
「誰か吊り橋に行って桐矢のこと突き落としてきてくれる?」
ある男子グループが皐樹の目に留まった。ハイブランドのスポーツウェアに、それなりに整った容姿、特に素行が悪そうには見えないアルファの集まりだ。しかし物騒な冗談を言い合い、笑っている姿は、見ていてあまり気分のいいものではなかった。
(ひょっとして桐矢を敵視している人達か?)
グループの一人と目が合った。両隣にいた上級生も皐樹に視線を投げつけ、何かを言い合い、皆で近づいてこようとする。
「皐樹、一緒に回ろう?」
彼等が到着するよりも先に刀志朗が皐樹の元へ駆けつけた。
「ッ……刀志朗、びっくりするだろ」
いきなり背後から抱きつかれて皐樹は驚いた。キャップを被り、サイズが大きめのパーカー、カラフルなランニングシューズで足元を彩った刀志朗は破顔する。
「今日はジャージで来たんだね。皐樹の私服、見てみたかったんだけどな。今度、休みの日にどこか遊びにいこう?」
「重たい、刀志朗……あ」
顔を上げれば件のグループは他の生徒に紛れて消えていた。
「駄目だよ、皐樹、喧嘩なんか売ったら」
皐樹は面食らう。背中から離れた刀志朗と向かい合った。
「さっきの人達が例の上級生か?」
「うん。安藤君達、兄さんのことは苦手なんだ。だから僕と仲がいいってアピールすれば、さ。兄さんのことが頭を過ぎって、ちょっかい出してこないんじゃないかなって」
皐樹の胸はじんわり温かくなった。風に遊ばれて視界にちらつく髪を耳元で押さえ、自然な笑みを零した。
「刀志朗には気にかけてもらってばかりだ。いつもありがとう」
刀志朗はキャップを目深に被り直す。いつになく小さい声で「遊びにいこうって誘ったのは本音だよ」と、告げた。