3-2
「な、何やって、いつの間に、こんな近くに」
「春の陽気に酔っ払ったみたいにフラフラ歩いてるのを見かけて、面白いから、こっそりついてきた」
桐矢は屈んで皐樹を覗き込んでいた。モッズコートのポケットに突っ込んでいた缶コーヒーを取り出すと、上気した頬に押しつけてくる。
「やる」
「冷たい。いらない。どこかに行ってくれ」
「ここは言わずと知れた隣慈のデートスポットだぞ。入学早々、昼休みに誰かと逢瀬なんて不真面目な新入生だな」
(また馬鹿にされてる)
身長百八十七センチの桐矢が窮屈そうに隣に腰を下ろし、不貞腐れた皐樹は反対側にこれみよがしに寄った。
「何だ。俺を警戒してるのか?」
「アンタが無駄にでかくて狭いんだ」
渋々受け取ったブラックコーヒーを飲んでいたら「今回は居合せた生徒が多かった」と、桐矢は前置きもなしに噂について触れた。
「これまで幸いなことに廻がクイーンだとバレずに済んでる。その代償に、お前が廻を誘惑した、か」
片目にかかった前髪もそのままに、桐矢は自分の利き手に目線を落とし込んだ。
「いつだって噂に尾ひれは付き物だな。好き勝手に泳ぎ回って厄介だ」
春の陽気のおかげか。皐樹は苦手なはずのブラックコーヒーを飲み干した。今日は気温も高めで喉が渇いていたのかもしれない。
「保健室へ行くとき、お前についてきてもらうべきじゃなかった」
「え?」
「噂が立つことを見越して、せめて別ルートで移動させるべきだった」
「でも、それだと水無瀬さんがオメガだってことがみんなに……」
「俺が甘かった」
「ッ……いきなり、そんな低姿勢になられても困る。それに前にも似たようなことがあったから……」
春の陽気のせいか。つい、皐樹は口を滑らせた。
「だからいいんだ」
鉄錆の匂いが漂う体育館裏で皐樹は膝を抱く。扉に背中を預け、短い階段に長い足を投げ出している上級生の隣で、中学三年生のときに起こった出来事をぽつりぽつりと話し始めた。胸の底に沈殿していた感情を少しずつ吐き出していくように。
「友達とはもうそれきりだ」
起こったこと全てを話した皐樹はチラリと桐矢を見た。
「何だ」
「珍しく静かにしてるから、昼寝してるのかと思った」
「失礼な奴だな。ちゃんと拝聴してたっていうのに」
春の陽気にそそのかされたか。今の状況に存外応えているのか。話してしまって、急に居た堪れなくなって、皐樹は桐矢の隣から離れようとした。
「お前を守りたかったのかもな」
立ち上がる前にそんなことを言われてポカンとした。
「それ以上、自分自身の問題に皐樹を巻き込まないよう、友達はお前との関係を止む無く断ち切ったのかもしれない」
考えも及ばなかった桐矢の言葉に皐樹の胸は波打った。かつての教室での光景が脳裏に流れ込んできて何回も瞬きした。
「そんな風に考えたこと、なかった……余計なことをしたんじゃないかって、ずっと……」
記憶の波から友達との思い出を掬い上げ、あんなことが起こる前の楽しかった日々をなぞり、皐樹は呟く。
「空しくて、寂しかった」
(あのときはショックでマイナスなことしか考えられなかった)
襲いかかってこようとしたアルファに頭を下げて、自分を無視するようになった友達を、信じられなくなった。それ以降、互いに距離をおくようにしたから友達の真意はわからずじまいだ。
(もしも桐矢の言う通りだったとしたら……救われる……かな)
「友達を守るためなら俺も皐樹と同じことをする」
優等生だったアルファ性のクラスメートを教室で殴って、かつて散々責められた皐樹は、桐矢の言葉に不覚にもほっとした。長引く中傷に弱っていた心を慰められたような気さえした。
「ところで友達とか言っていたが、好きだったんじゃないのか、そのオメガのこと」
せっかくの安堵感を台無しにした、デリカシーに欠ける桐矢の問いに、皐樹は瞬く間に仏頂面と化す。
「ただの友人にしては、いやに思い入れがあるようだからな」
「友達は友達だ。友達に思い入れがあったら、おかしいのか?」
「ムキになるところを見ると怪しいな」
桐矢に明かしたのは間違いだった。彼にちょっとでも心を許した自分が馬鹿だった。皐樹は猛省し、体育館裏から立ち去ろうとした。
足音が聞こえた。
誰か来る、そう思った瞬間――。
「ん!?」
いきなり桐矢に片手で口を塞がれて、びっくりした。非難する暇もなく、羽交い締めにまでされて耳元で「しー」と囁かれる。
傍若無人な振舞に皐樹が唖然としている間にも、足音はこちらへ近づいてきた……。