47.公爵夫人の初仕事と元夫との再会
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ディレイガ帝国からオルテガ王国を経由して、アイリスはナシオ王国に辿り着いた。
友人である皇后陛下から直接聞いてはいたが、長い間馬車に揺られているのは、なかなかに大変だった。
しかし、護衛の騎士たちが旅慣れないアイリスに合わせ、通常よりも多くの休憩を取ってくれたのだろう事が察せられた。
何も文句はなかった。こんなに遠くまで来れたことが何よりも嬉しい。
物語や風土記をいくら読んでも得られない物がここにはあった。
ある日草原のような場所で、休憩のため馬車が止まって扉が開いた時、空気の乾き具合が帝都とはまったく違うのに気づいた時には感動すら覚えた。
アイリスは幼い頃は父親の領地で、その後は帝都でしか暮らしたことがなかった。なんと狭い世界にいたのだろうか。
オルテガ王国とナシオ王国の国境には、物々しい砦などは存在しなかった。少なくともアイリスが通った街道はそうだった。
しかし、以前カリーナから見せてもらった、ナシオ王国の第三騎士団の紋章の入った旗がいくつも風に揺らめくのが見えた時に、そこが国境である事を知った。
アイリスは顔を引き締めた。彼女は、皇帝の義姉である、アイリス・オーリエ公爵夫人として、そしてディレイガ帝国から正式な使者としてナシオ王国ヘやって来たのだ。
彼女は、チルト率いるディレイガ帝国近衛騎士団から、ナシオ王国第三騎士団副団長のエドアルド・シュルツにその身を引き渡された。
ディレイガ帝国からの要請で第三騎士団が彼女の警護任務に着く事になっている。
シュルツ副団長は、うやうやしく名乗ってから、「エドとお呼びください」と人の良さそうな笑顔を向けくる。帝国公用語を使ってくれるのはありがたい。
カリーナからこの任務の話を聞いてから、ナシオ王国の言葉を学習していたが、そう簡単に習得できるものではない。
アイリスは本が好きで、いくつもの言語に通じていたため、他言語の習得に抵抗は感じなかったのだが、会話となるとまだ難しかった。
そこで馬車を乗り換える事になるのは分かっていた。おかしな物を持ち込むのを防ぐための慣習だろうと思う。
気慣れた侍女を一人連れて来ていたため、二人で用意されていたフォイラー伯爵家の紋章の入った馬車に乗り込む。
体格はともかく、とても剣を振るう人とは思えない穏やかな笑顔を向けてくるエドが手を貸してくれた。その手は手袋越しでも分かるほど指の節が太く、手の平は固い。
カリーナと同じ手だった。
この後は、一旦カリーナの領地であるフォイラー伯爵領で休息を取り、王都へ向かう予定であった。
伯爵領に入り、途中の街で一晩の宿を取ると、フォイラー伯爵家の本邸へ到着した。
アイリスは家令らから丁重にもてなされた。
カリーナが事前に知られてくれたのだろう。夕餉にはアイリスの好物まで供された。
本来ならば、そこで長旅の疲れを癒したい所であった。しかし、ここには王都へ向かう途中の休息地であるという他に、アイリスが立ち寄る理由があった。元夫が匿われているからだった。
「ご決心は……?」
エドが心なしかアイリスを気遣うように声を掛けてきたのは、食後にサロンへ移動してお茶を飲み終わった時だった。
「……案内を頼みます」
アイリスは本当はまだ迷っていた。
カリーナには、会うか会わないかはその時に決めればいいと送り出された。
しかし、その時になっても決心はついておらず、自分の口から漏れ出た言葉に驚いたくらいだった。
だが会わないとも決められない以上、そこへ行くべきだと思った。
もう未練も何もありはしないけれど、これが元夫と会う最後の機会になるはずだから。別れの言葉の一つも交わせれば少しは心が軽くなるかもしれない。
大切な仕事の前に済ませてしまうべきだと思った。
本邸からほど近い、街中のけして小さくはない屋敷に彼女は案内された。
使用人も何人かはいるようだったが、総じて人の気配はほとんどなかった。
ここへ来る前に、彼女に衝撃を与えないためか、これは元夫自身が望んだ結末であり、そう仕向けはしなかった事をエドが騎士として誓った。
カリーナもアイリスを想いやるように「彼にはいくつもの選択肢を用意していたのだが……」と悲しそうな顔をしていたものだった。
愛人であった、彼が愛していた女はディレイガ帝国から先には一緒に行かなかったという。その人は、彼を愛してはいなかったから。その女性が消えた時、彼には何が残っていたのだろうか。
屋敷の中を進むにつれ、すえた臭いが強くなる。彼は常に身だしなみに気を使う人だった。皇子として育てられた人間特有の気高さが、かつては確かにあった。
その彼がこんな場所にいるとしたら、以前から使用していた怪しげな薬に原因の一端があるのだろうか。もうこのような環境が気にならないほど、正気を失っているということだろうか。
一つの扉の前で、案内にたっていたエドが立ち止まって、本当にいいのかと問いかけるような目を向けてきた。
アイリスは頷き返した。
半開きになっていた部屋のドアが、音もなく開かれた。
そこには、片づけられていない皿やグラスが散乱していた。食べ物の残骸も見える。
そして、その中央の寝椅子に彼はいた。見る影もそのない姿にアイリスはなぜか泣きたくなった。
艶の消えた髪、落ち窪んだ目元、開いたままの口。別人のようだが、彼は紛れもなくアイリスのかつての夫だった。
虚な目がこちらを見た。しかし反応はなかった。
「セラン……」
アイリスは彼の名を、何年振りか思い出せないほど久しぶりに口にした。反応は求めていなかった。
だがその瞬間、彼は驚きに目を見開いて口を動かした。音にはならなかったが、「アイリス」と呼ばれたような気がした。
しかし、その目はすぐに虚空を見つめ、もう二度とこちらに向けられる事は無かった。
アイリスは冷静にその場を後にした。
伯爵邸は帰り着き、与えられた客間に引き取ると、まだ少しだけ好意らしきものがあった頃の事を思い出した。
結婚したばかりの若かりし頃のぎこちなかった二人は、しかし歩み寄ろうとはしていた。
花をもらい、刺繍を施したハンカチを贈った。
息子が生まれてからも、赤子に興味を持ったらしい彼はよく息子を見に来ていた。
いつからだったろうか。夫の目が自分を映さなくなったのは。夫婦としての義務だけをこなすだけの関係になったのは。
ほんの一筋だけ涙が流れた。しかし彼女はそれを手で拭うと、彼のことは胸の奥に痛みと共に仕舞い込んだのだった。
その翌日、フォイラー伯爵家の本邸には、アイリスを王都までの護衛するための人員を強化するという名目で、第三騎士団長のエヴァン・ヘクターや第三軍歩兵部隊長のクラバーが兵を引き連れてやってきた。
類い稀な美丈夫の騎士団長はアイリスに丁重に騎士の礼をとった。
彼の名前は何度もカリーナから聞いていたので知っていたし、相当な男振りであるのは皇帝陛下の不機嫌な声から察していた。皇帝は彼を「いやに顔のいい男」と呼んでいた。
あれほど寵愛する妃の元愛人となれば、そういう態度になっても仕方がないのかもしれない。
ちなみにその事実はカリーナが特に悪びれるでもなく口にしていたので知っている。とはいえ、カリーナは「ロイの前ではもう言わない」と言っていた。嫉妬されて大変だったようだ。
そんな事はおくびにも出さずアイリスは机を囲んだ彼らの前に、帝国から持ってきたエヴァン・ヘクター名義でクリスナー侯爵夫人へ送られて来てきていた手紙の原本を差し出した。
それに目を通した騎士団長がわずかに眉を顰める。
「……まあいいでしょう。これが私が書いたものでないことはすぐに証明できます」
次に目を通したクラバー隊長は苦笑し、エドは笑いを堪えるように下を向いていた。
「お役に立つだろうとの事でした。カリーナ様は、好きに使うようにと」
「ありがとうございます。オーリエ公爵夫人」
騎士団長は頭を下げると、その手紙をエドの手から回収した。
「それにしても、あの方ならばご自身でおいでになるとばかり思っておりましたなぁ」
「恨みつらみもありますしね」
「あ、いえ、カリーナ様もそのおつもりだったようですが、ご懐妊されて、身動きが取れなくなってしまわれたのです」
実際にはカリーナは腹が多少目立つようになってからも、男装でアイリスの元を訪れるなど、活発に動いていたけれど。
そうでなかったとしたとしても、皇帝陛下が許可を出すとも思えない事ではあった。皇后が直接、故国とはいえ他国へ出向くのには多くの制約が伴う。
カリーナが出産を控えていると知り、目の前の男たちはそれぞれの表情で驚いていた。
騎士団長の表情はほとんど変わらなかったが、一瞬目を見開いたのをアイリスは見逃さなかった。
結婚当初の第五皇子妃であった頃から、あれだけ皇帝陛下からの寵愛を一身に受けているのだから、なんの不思議もないと彼女は思ったが、カリーナの元部下たちの目から見る彼女は一人の男性を愛し続けるような人間ではなかったという。
「まさかあの団長がなあ」
「いやぁ、思い切りましたね。しかし、結婚もしないし子もいらないと言っていたのに結婚したわけですし」
クラバーとエドが気を緩めたように言うのに対して、「公爵夫人の前ですよ」とエヴァンが冷たい表情で言う。
「それに、もうあの方はディレイガ帝国の皇后陛下でおられますよ、クラバー隊長」
「そうだな、もう団長はあんただから」
「それはもちろんそうですが。……そう言う問題でしょうか」
アイリスは彼らの関係性をよく知らなかったから、ナシオ王国の騎士団では上官と部下の距離が随分と近いのだな、と間違った認識を持った。
だが、そんな事は瑣末な事だ。アイリスは静かに、しかしはっきりとした声で彼らの気が散ったのを本題に戻させ、今後の動きについて確認した。
彼女がする事はさほど多くはない。彼女はディレイガ帝国の権威の象徴として、ただそこに存在していればいい。
それから数日後には、アイリスは彼らに警護されながら王都へ到着した。
嫌に煌びやかな内装の王宮で、国王と王妃に出迎えられる。
当然のことであった。彼女は大帝国の皇帝の使者であり、その義姉であり、帝国の公爵夫人としてここにいるのだ。
アイリスはこれから繰り広げられる騒動に対して一抹の不安を抱きながらも、その立場に相応しい高貴で優雅な微笑みを浮かべたのだった。
つづく……
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