【閑話10】とある皇子の日常だったもの
おはようございます!
こんにちは!
こんばんは!
「ロイトラート」
優しい母親が、何故彼の名前を強い調子で呼んだのかは分かっていた。
さて、どう言い訳をしようかと考える。とはいえ、事実はバレている。どう足掻いても苦しい言い訳にしかならないのは明白だ。
であれば、言い訳などしなければいいと彼は思った。
「わざわざ足を運んでくださっていた博士は、もうお帰りになりました。また来週来てくださると」
「……必要でしょうか」
母親は息子の言葉に首を傾げた。
「座学など、本を読めば事足ります。それよりも、私の置かれた立場からして、軍人にでもなった方がいい。そのために訓練をしていたのです」
第三皇子なんてものは、ただの穀潰しになりかねないとロイトラートは思っていた。
兄が二人、一人は病弱ではあるが、いるのだから彼が帝位につく可能性はそれほど高くない。
それ以前に、そんなものになりたくはない。
あの父親のようにはなりたくない。
「……あなたは軍人になろうとしているの?」
「それが最善かと」
「まあ、そうだったの……」
母親は考える時の癖で、顎に手を当ててしばらく黙っていた。そして、言った。
「であれば、尚更地理のお勉強は必要なのではないかしら」
「……え……?」
「訓練は他にする時間を作らせましょう。どうしたのかしら? 変なお顔をされていてよ?
軍人になるのでしょう? それならばどこへでも行く可能性があるのだから、いろいろな場所について知っておかなければね。
後は、数学を教えていただく時間も増やしましょう」
「え!?」
「だってそうでしょう? 兵士たちには食事も衣服も武器も十分に与えなければ、きちんと戦えないのではないかしら? それを必要な分用意するのには、よくよく計算が出来なくては。あなたはどうしたって兵を率いる立場になりますもの。
ああ、そうなると、あなたが食べている一食にどれほどの食材が使われているのかを知らなければね。ついていらっしゃい。今ちょうど夕食の支度をしているでしょうから、その様子からご覧になればいいわ。食糧庫の様子はまた別の日に皆が忙しくない時間に見せてもらいましょう」
「……え……」
「さあ、何をしているの? ついていらっしゃい。未来の軍人さん?」
母親は楽しそうに笑った。
ロイトラートは彼の従者であるクリストフと目を合わせる。クリストフは仕方ない、と言うように肩をすくめた。
そうだ。母上には敵わない。いつもこの調子で丸め込まれるのだ。
何故つまらない授業はサボってしまえなどと幼稚なことを考えたのだろうか。
ロイトラートは小さな後悔を覚えつつも、母親が楽しそうに彼を厨房に案内し、使用人達と会話する様子を見ながら、いつの間にか自分もそれを楽しんでいたのだった。
それからしばらくして、ロイトラートは久しぶりに母親に連れられて館を出た。
様々な授業と、近衛騎士による正式な剣術の訓練がそれまでの学習に追加され、彼は毎日クタクタになって倒れ込むように眠るのが常となっていた。
この日は母親に随分と大きくなったという弟に会ってやるようにと言われ、こうして出かけてきたのだ。
そのため午後の授業は別日に回された。どうせならば中止して欲しい授業もあったが、そう言ってその通りにしてくれる母ではない。
館の敷地内から出るのは滅多にない事だった。成人すれば変わってくるはずだが、それまでにはまだ数年ある。後宮内を移動するだけとはいえ、外の様子を知るいい機会である。
とはいえ、たいした移動距離ではないから、歩みの遅い馬車であってもすぐに目的地に到着した。
「第三皇妃殿下! わざわざお越しいただいて。第三皇子殿下まで」
「まあ、そのように堅苦しい呼び方はしなくてよろしいのよ、トリーシャ様。ユスタフ殿下はご機嫌いかが?」
ロイトラートは、第六皇妃のトリーシャ様の後ろにいる乳母らしき女性のスカートの陰に隠れる小さな弟を見た。
恥ずかしそうにモジモジとしている。面白い生物だと思う。
「さあ、ユスタフ、ロイトラート殿下と皇妃様にご挨拶をなさい」
その小さい子どもは母親にそう促されると、もぞもぞとスカートにめり込んで余計に隠れてしまった。
「申し訳ございません。人見知りはだいぶ落ち着いてきたかと思ったら、この調子で。恥ずかしがっているようですの」
「まあ。可愛らしいわ。ロイトラートはこんなに大きくなってしまったから。もう私と背の高さも変わりませんのよ。こんなに小さい時があったのが嘘のよう」
覚えていないが、自分もこんなふうに母親や乳母のスカートの陰に隠れていたのだろうかと、ロイトラートは少し恥ずかしくなった。
「本当にロイトラート殿下は、大きくおなりになりましたわね。初めてお会いした頃はまだ男の子といった風情でいらしたけれど。
最近は剣術も習われているのですって? 姿勢が騎士の皆様のようですし、手にはタコがおありね。真面目に取り組んでいらっしゃる証拠ですわね。きっと素晴らしい剣士におなりだわ」
ロイトラートは小さく頭を下げた。そのように言われるのは気恥ずかしくもあるが、この人に褒められるのは嫌いではなかった。ロイトラートを褒める時に皇帝の名を出さないからだ。
貴族たちは彼に取り入ろうとする時は必ず「お父上に似て」だとか「陛下のお若い頃にそっくりだ」と言う。
それでこちらが喜ぶとでも思っているらしい。
だが、ロイトラートの母親も、この第六皇妃もけしてそのような事は言わない。この二人には共通点があるからだろう。
ロイトラートの母は婚約者と引き離されてここへ来た。第六皇妃は結婚したばかりの夫と別れさせられたのだという。
だからおそらく、この二人は自分たちの子どもを褒める時にその父親に似ているだなどとは言わないのだろうと彼は思っていた。
ロイトラートがそんなことを考えている間も、二人のお喋りは続いていた。
「トリーシャ様。本当にすぐに大きくなってしまいますのよ? ユスタフ殿下もじきにそうおなりだわ」
「まあ……そうなのですね。あっという間なのでしょうねぇ……」
母親同士の会話から逃げ出す口実をロイトラートは探していた。
そこで、弟がこっそりと彼を覗き見ているのに気がつく。
そうだ。こいつを使おう。
ロイトラートは、何度も練習させられた、皇子らしい微笑みを浮かべて言った。
「第六皇妃殿下、ユスタフを遊ばせてやっても良いでしょうか。近衛も付けてくださって結構。外に行って参ります」
「まあ。よろしいのかしら」
「もちろんです。お二人はどうぞ、ごゆっくりとお茶の時間をお楽しみください」
自分はそんなものには参加したくない。本当に二人だけで楽しんで欲しい。
「さあ、ユスタフ、行くぞ」
ロイトラートは、十歳近く年下の弟に手を差し出した。その手を取らなければ抱えて連れて行こうと思っていた。
だがその小さい生物は、なぜか目を輝かせてトテトテ歩いてきたかと思うとロイトラートの手を握った。
「あにうえ、おそとにいきましょう」
「ああ……歩いて行けるか?」
「はい!」
ロイトラートは後からついて来る近衛に弟の面倒を押しつける気でいた。
しかし、なんだかんだ言いながら一緒に駆け回り、疲れてぐずった弟を自ら抱えて連れ帰ることになった。弟が他の者に抱えられるのを嫌がったからだ。
「あにうえ、またかけっこをしましょう」
「そうだな、お前がもう少し早く走れるようになったらな」
部屋に戻る途中で腕の中の弟はスヤスヤと寝息をたてだした。
彼を彼の乳母に引き渡すと、トリーシャ妃が恐縮して謝ってくる。
「また遊ぶ約束をしましたよ。お気になさらずに」
ロイトラートと母は、その館を後にした。そう遠くもない距離だが、当然帰りも馬車に乗り込む。
歩いて帰りたいと思うが、そんな無作法はしない方がいいと彼は知っていた。
なんでも攻撃の材料にする人々がいる場所だ。
そして、その館を訪れたのはそれが最後になってしまった。
弟との約束は守れず、そしてそれどころでは無くなった彼は、その約束自体を忘れてしまう。
それから、ひと月もしないうちに彼の母親が後宮から姿を消したからだった。
おしまい。
お読みくださり、ありがとうございました。




