4.元恋人の待ち伏せ
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こんにちは!
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客を部屋の前まで案内しておいて、扉も開けないという、使用人の不審な行動に、カリーナとエヴァンは即座に身構えた。
使用人を呼び止めても意味はないだろうから、その後ろ姿を見送った。その使用人は、視線を感じたのか、すぐに脇道に消えていった。
「開けるのだろう?」
「もちろん。なんの罠か、気になるじゃないか」
エヴァンがカリーナを守るように彼女の前に出て、ゆっくりと扉を開けるのを、カリーナはじっと見守った。残念ながら王宮内に、仕事中でもないのに武器は持ち込めない。二人とも丸腰だ。
カリーナは、せめて、と扇を握りしめた。
扉は開いた。だが、エヴァンはそのままの格好で動きを止め、困ったようにカリーナを振り返った。
「何事だ」
カリーナは自分より背の高いエヴァンの肩越しに室内を見渡して、思わず舌打ちしたくなった。
そこにはかつての恋人であるサイラスがいた。
彼はいつものように、けして派手ではないが、いかにも手の込んだ、大貴族の一員らしい美しい衣装に身を包んでいた。
憂いを帯びた表情は、端正に整っており、まだ少し少年ぽさを残している。まだ若い彼の、まっすぐな視線には曇りがない。
カリーナは彼から視線を逸らした。
夜会の会場では、玉座の側に席を用意されていたであろう身分の彼を視界に入れないよう、褒賞を受ける際もそちらは見ないようにしていた。
会場のどこかで偶然出会ってしまうかもしれないとは思っていたが、その時にはエヴァンを盾にしてさっさと逃げるつもりだった。
「カリーナ! 会いたかったです。ご無事にお帰りになってよかった。いえ、あなたのことですから心配はしていませんでしたが。さあ、どうぞお入りください」
サイラスはエヴァンに外で待つように声をかけたが、カリーナは「お前も来い」とエヴァンに言った。
本当ならば、部屋に入るべきではないのだが、今日この場で決着をつけるのが手っ取り早いと判断した。この場で、万が一騒がれても面倒だ。
エヴァンは眉を寄せ、反対の意を表していたが、カリーナが部屋の中に入ると諦めてついてきた。
エヴァンが扉を閉め、後ろで手を組んで、その前に立ち塞がったのを確認すると、カリーナはサイラスに向き直った。
「あなたとニ人で話がしたいのです」
カリーナはだだをこねるように言うサイラスに小さく首を振った。
「使用人を買収なさったのですか。待ち伏せとは……」
もう終わった恋の相手ほど鬱陶しいものはない。
特にそれが、本人の意思とは関係なく、自分や部下達を死地に追いやる存在である場合は、出来る限り距離を取るべきだ。
「……あなたはそれを卑怯だと思われるでしょう。でも、あなたは手紙を受け取ってすらくださらない。どこかですれ違っても、きっと気づかないふりをなさる。私に他にどうしろとおっしゃるのですか」
「私を忘れればいい」
カリーナはあえてはっきりと言った。不快げに顔を歪めて。
「お父上と……宰相閣下ともお約束した通り、私はあなたを忘れましたよ、サイラス殿」
サイラスは泣きそうに顔を歪めた。
童顔な彼にそんな顔をされると、子どもを虐めているかのように胸が痛んだ。いくらカリーナよりも五歳も若いとはいえ、立派な大人だというのに。そんな子どもっぽい危うさに惹かれたのだったかもしれない。
「初めから分かっていたことでしょう? 私たちが結ばれることはない。あなたは婚姻を免れることはできない立場におられる」
「私は、もしかしたら、あなたと結婚を……」
カリーナは彼の言葉を鼻で笑った。
「私が? 私は結婚などしないと公言しています。伯爵家の当主としても、騎士としても、配偶者を必要としていない」
カリーナは、立ちすくんで顔を歪めるサイラスの前に足を進めた。そして、腕を伸ばして届くかどうかという所で立ち止まった。
つい数ヶ月前までは、そんな距離は存在しなかった。
「私たちの関係は秘密のものでした。もちろん、家人に知られることは避けられないとしても、公に知る者はいません。そうした関係にあなたも満足していたはずだ。いつか別れが来ると分かっていたから」
カリーナは、自分よりも少しだけ下にある、彼の目を正面から見据えた。
「この距離が、今の私たちに相応しい。どこかでお会いしたら、ご挨拶することもあるでしょう。ですが、こうしてお会いするのはこれが最後です。あなたは近いうちに婚約なさるはずだ。その婚約者を大事になさいませ」
「カリーナ……」
「呼び捨てはお控えいただきたい。今後は伯爵夫人とお呼びください」
カリーナは、「それでは」と踵を返し、エヴァンが開ける準備をしている扉へ向かった。
と、そこで手袋に包まれた手首を掴まれる。
流石にこれは礼儀に反している。貴族としても、男としても。カリーナは怒りさえ込めて、わずかに振り向いて彼を睨んだ。
「手を離していただきたい」
「そんな、他人行儀な話し方はやめてください! 私はあなたを愛しているのです。あなただけを!」
「……それで? 私に日陰者にでもなれと?」
サイラスは驚いたように目を見開くと、勢いよく首を横に振った。
「そう、あなたがそんなつもりで言ってはいないことは分かっています。しかし、あなたがそういう我儘をおっしゃると、傷つく者もいる。そのお立場を自覚なさいませ。今、すぐに」
カリーナはそう言うと彼の手を振り解いた。それは簡単なことだった。
特別な訓練も受けていない、ただの文官の、滑らかでタコ一つない手の力などたかが知れていた。
サイラスは頭はいい。しかし、彼の表情には、恋人を、自分が原因で戦に駆り出してしまった自責の念とか、相手を思い身を引こうとする苦悩とか、そういう思いに駆り立てられている様子が微塵も感じられない。
サイラスは苦痛に顔を歪め、憎しみにも悲しみにも見える色をたたえた瞳でカリーナを見ていた。
彼はそういう人間なのだ。自分の快不快で物事を判断する。
それによって影響を受けた相手の気持ちなど忖度しない。ある意味、とても大貴族らしい。
彼と恋に落ちたのはカリーナのミスだった。だが、自分を責めるつもりはない。そういった人間性は、少し関わったくらいで分かるものではないのだから。
カリーナのサイラスに対する恋愛感情はすでにほとんど失われていたが、わずかに残っていたそれすらも霧散してしまった。
「ごきげんよう。よい夜を」
カリーナは彼の目も見ずにそれだけ言うと、エヴァンに合図をし、一緒に部屋を出て歩き出す。
休憩のつもりが余計に疲れてしまった。
しばらく歩いて充分に部屋から遠ざかると、カリーナは申し訳なさそうにエヴァンに言った。
「悪かったな。だが、いてくれて助かった」
エヴァンは呆れとも同情とも取れる顔でカリーナを見た。
「面倒な相手に手を出したものだ」
「そうとわかっていたら、手など出すものか。もっとあざとくて賢い若者だと思ったんだ」
会場に戻って、必要最低限の挨拶をしたらとっとと帰ろうとカリーナは決めた。遠征の疲れが出たとでも言えば誰も引き留めはしないだろう。
「さて、何人残っていたのだったか……」
カリーナが上を向きながら、一人、二人、と挨拶をしなければならない相手を数えていると、唐突にエヴァンが口を開いた。
「あの、めそめそとした男にも同情の余地はあるな」
どういう意味だ、と首を傾げれば、エヴァンは「なんでもない」と小さく首を振って歩き出した。カリーナを置き去りにして。
「おい……エヴァン……」
「早く来い。軍関係者への挨拶ならば、私が順番も人数も把握している。とっとと済ませるぞ」
カリーナは、靴音高く、彼を追いかけた。
エヴァンはたいてい無表情だが、これまでの付き合いで、彼の機嫌が良くないことは分かる。だが、今までの会話のどこに彼の機嫌を左右するところがあっただろうか。
「おい、エヴァン、エスコートだろう! 少し歩幅を調整しろ。私はいつもより歩きにくい格好をしているんだ」
エヴァンは立ち止まると、彼女の目の前に腕を差し出した。
始めからそうしろ。
カリーナはその腕に手を掛けながら、彼の表情を窺った。なんで上司が部下の顔色を窺わなければならないんだ、と思いながら。
「何か言いたいことがあるなら言え」
「……相変わらず、冷めたものだと思っただけだ」
「は?」
「いや、いい。ほら、もう着くぞ」
カリーナは良くはなかった。何が何やら分からない。
だが、瞬時に腕を解いて、自分の後ろに控えたエヴァンが、扉を守る兵に扉を開けるように指示を出したので、カリーナも息を整えて顔を作るしかなかった。
小さな違和感を残しながら、カリーナは前を向き、扉の中へと足を踏み入れた。
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エヴァンは、軍関係者に、階級順に挨拶をし、または目下の者からの挨拶を受けるカリーナの斜め後ろに陣取っていた。彼女の部下として、彼女を護衛するために。
周囲に気を配り、危険がないか常に神経を張り詰める。
それに加えて、ごく稀に、尋ねるような視線をよこすカリーナに、目の前の人物の名前や階級を小声で伝えるのも今の彼の役割だ。
本来は秘書官がいて、そちらの管轄になるはずなのだが、カリーナはなぜか秘書官を置いていない。
彼女自身が、軍に加えて文官らの人事でさえ、ほとんど把握しているため、こういった場での必要性がほとんどないのは確かだが。
もちろん、秘書官がいないおかげで、他の誰かが秘書業務を担うことにはなる。今エヴァンがしているように。こちらの業務には誰だれが、あちらの業務には誰だれが、と業務の分担が行われている。
「出来ることなら秘書官を置いて欲しい」と声が上がることもあるのだが、なぜかカリーナはそれには全く取り合わない。大抵の要望なら、応えられるか否かに関わらず、話を聞くくらいはするというのに。
それにしても、とエヴァンは思った。カリーナは無謀過ぎるし、楽観的過ぎる。
常識に囚われないのは彼女の美点だろう。だが、それは彼女に人の気持ちに疎いところがあるから出来る事だ。もしくは自分なりの生き方をするためにそれを捨てたのか。
思いやりがないとかいうことではない。それは十分にある。十分過ぎるほどで、お節介ではないかと思うほどである。
だが、憎しみや妬みという感情に関してはどうだろうか。
本人に薄汚い感情がないので、それを向けられても気づかないのではないか。
カリーナはもっと他人の執着心や嫉妬心に関心を向けるべきだろう。
愛しさが憎しみに変わる瞬間を、おそらくカリーナは知らない。
あの、宰相の息子の目の奥にあったもの、それは大きくなれば彼女自身に禍として襲いかかるかもしれないものだ。
彼女は別れを告げれば、いつか相手のその感情がきれいに消えてゆくと思っているのだ。
カリーナが自分に、そういう意味で別れを告げた時もそうだった、とエヴァンは苦い味を噛み締めた。
二人の間には体の関係以上の何かがあったと思っていたのはエヴァンだけだったのだ。
彼はカリーナの元で働きたかった。それまで所属していた第一騎士団に彼の居場所は無かったし、彼女に魅了されてしまっていたから。
恋愛感情だけの話ではなく、弱者や目下の者に対する姿勢や、戦いに巻き込まれざるを得ない住民たちに対する配慮や、むやみやたらに情に厚いところにも。
彼が第三騎士団への転属が許可された、その挨拶に伯爵邸を訪れた時、彼女に触れようとした彼に、彼女は当然のように「今後は部下としてだけ扱う」と言った。
もちろん、彼はすんなりと「そうすべきだな」と受け入れた。
その可能性を考えていなかった自分を呪いながら。
上官であるカリーナが部下と関係を持つというのは不適切だし、軍の規律が守られない。
それをエヴァンも理解したし、その後そのような雰囲気を作ろうともしなかった。
だが、その行動がカリーナへの思いを失ったためだと思われるのは心外だった。より近くにいるために、彼女を抱くことを諦めた。ただそれだけだ。
時折り胸えぐられるほどの嫉妬に襲われることもある。
彼女は他の男との関係をほとんど口にはしないが、雰囲気で分かってしまうこともある。以前、あの甘い表情が自分に向けられていた事があるから。
そう、これは自分の我儘だ。全ては手に入らない。ならばせめて、今の自分の立場で、カリーナの側に居続けるしかない。
そんな事を考えながらも、周囲に目を光らせていたエヴァンの耳に、音高く扉が開かれる音が聞こえ、外国風の衣装に身を包んだ一団が広間に入ってきた。
咄嗟に、彼らの進む導線上にいるカリーナの腰を引き、腕の中に守るように抱え込む。
彼女も彼らの存在に気づいていたのだろう、なんの抵抗もなく腕の中に収まった。
エヴァンは一団に注意を向けながら、今は自分の腕の中にいるカリーナの存在を、彼の腕に手を置いたカリーナのその温もりを、ほんの少しでも長く心に留めたいと思った。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!