32.クリスナー侯爵の憂鬱
おはようございます!
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クリスナー侯爵が近くで難儀しているため、雨宿りをさせて欲しいと離宮へやってきた。
カリーナが青々とした空を見ながら、なぜ雨宿りなのか尋ねると、ロイが旗色を変えたい時の古い比喩表現だと教えてくれた。
カリーナの言語能力は高いが、全て理解が及んでいるというわけでもないらしい。自分でも不思議なのだが。
そして侯爵は、第五皇子だけでなく、カリーナにも会いたいと言っているという。
入浴を終えたばかりだったカリーナは、結い上げてもらっていたおかげで濡れていない髪の毛を垂らした。
侍女たちに止められながらも、帯剣した男装姿で、彼女を待つ夫の元に向かう。
通常、ロイと連絡が取りたい者は、帝都にいるリンデルク侯爵経由で使いを寄越すものだ。
それを、本人が自ら、帝都から半日も離れた場所にある離宮へと現れたのだから、警戒するのは当然だ。
だから、侯爵がおかしな真似をした時にはロイを守るために戦えるよう、カリーナはこの格好を選んだのだ。
「随分と勇ましい姿だな」と言って、カリーナに笑いかけたロイは、それを理解しているのだろう。
ロイはカリーナを、夫人としてよりも、同士として伴うように、腕を差し出したりもせず、一つ頷いただけで歩き出した。
本当にロイはこういう時には、物分かりが良くて助かる。
なにせ、護衛のチルトまでも、「妃殿下、そのお姿は……」などと言ってくるくらいだ。
どうせ人払いがされ、ロイのそばに残るのはカリーナだけになるのだから、皆にはしばらく黙っていてもらおう。
カリーナはロイと共に侯爵の待つ客間に足を踏み入れた。
彼女を見たクリスナー侯爵は驚いたようだったが、わざわざ言及するような無作法な真似はしなかった。
クリスナー侯爵は白いものの混じった濃い茶色い髪と、思慮深そうな薄い茶色の瞳を持つ、壮年の大貴族らしい男だった。
若い頃はさぞや令嬢らをときめかせたであろう、整った顔立ちと佇まいをしている。
侯爵は二人に対して深く礼の姿勢を取り、決まりきった口上を述べる。
それに対してロイが返答したら、面倒なやり取りは終わった。ロイが、楽にしてくれ、と侯爵に席を勧めたからだ。
侍女らによってお茶が運ばれてきて、そして、人払いがされた。
この部屋の中には、三人だけが残った。
侯爵は姿勢を正し二人の前に腰掛けると、淡々とした口調で言った。
「第五皇子殿下とは、きちんとお話しする機会をいただければと思っておりましたが、このような突然の訪問となりました事、深くお詫びいたします」
「よい。そなたにも事情があったのだろう。それよりも、本題を伺おう。やや取り込んでいるところだからな」
侯爵は頭を下げると、また話し出した。
「我が家は先代よりグランブル公爵家と近しい間柄にあったため、その義理の御息女であられる第八皇妃リルダローザ様と、その御子である第四皇子殿下を、これまで支持して参りました。
しかし、公爵閣下は近頃とみに周りを顧みないご発言が目立ちます。お諌めする者は冷遇され、公爵閣下に媚びへつらう者には将来の出世を約束する有様……。
私は皇太子殿下が姿を消される以前より、自分自身の、そして何よりも家門の今後を考えて参りました」
侯爵は目の前のお茶で喉を潤わせ、続けた。
「現状を鑑みるに、第五皇子のなさりようが、帝国の未来にとって最も懸命な選択であるように思われます。その陣営の一端に席をいただきたく、本日参った次第です」
「侯爵のお気持ちは分かったが、それを証明する手立てが無ければ、信用することは叶わぬ」
侯爵は、侯爵家の領地の一部を第五皇子夫妻に献上する用意があると言って書面を取り出した。
財産の一部を差し出すというのは、こういう場合よく取られる方法らしい。特に、領地の一部となると、人身御供を差し出したも同然だ。
ロイが独身であったなら、年の釣り合う娘などを差し出す事もありえたのだろう。
それを受け取ったからと言って、その相手を信用するかは別問題である。
受け取る側の器量が問われる事になる。相手の事前情報をどれだけ持っているか、その後相手の動向をどこまで追えるのか、それは非常に重要で、だが面倒な事だ。
それを怠り、獅子身中の虫を飼う事になれば、それは自身の破滅を招く。
ロイはそれを受け取ると、内容を確かめる。
「なるほど……。侯爵、これは全て妻の名義に。カリーナ。悪くない土地だ。王都にも比較的近い。いただいておくといい」
カリーナはロイに渡された書面を受け取った。場所ははっきりとは分からないが、その領地から得られる収益はなかなかのものだった。
「これが議会に受理されだと同時に、そなたを我が傘下へ迎え入れよう」
「ありがたき幸せ」
侯爵は議席ごと陣営を変えることになる。議会は通過させられるだろう。領地の譲渡などは、それほど多くの賛成を必要としない。
「用件は済んだな……。協力に対する見返りに関しては、他の協力者らとの協議が必要だ。またいずれ席を設けよう……」
ロイが席を立とうとすると、侯爵は慌てて彼を止めた。
「それとは別件でございますが、妃殿下にお力をお借りしたく……」
侯爵が封筒に入っている手紙を取り出す。
ここに持ち込めたと言うことは、クリストフらの点検を受けているはずである。
カリーナはロイが頷くのを確認すると、それを受け取った。
夫人が故国とやり取りをしていた手紙だそうだ。
夫人は随分と用意周到に、いくつもの名前を経由して手紙の受け渡しを行っていたが、ある時、一度だけヘマをしてしまったらしい。
引き出しに鍵をかけ忘れたのだ。
家人の手により、この手紙は侯爵の元へ届けられた。そして、侯爵はその内容に愕然とする事になる。
ナシオ王国からの迎えた妻のため、彼もナシオ王国の言語をある程度修得していた。
それは、熱烈な恋文だった。
それとそっくりの物を急遽作らせ、夫人の引き出しに入れさせると、これを持ってこの離宮へ飛んできたのだと言う。
「妃殿下におかれましては、この者の名をご存知でしょうか」
カリーナは手紙の最後にある署名を見て眉を上げた。
なんと、差出人はエヴァン・ヘクター。
彼女のかつての部下であり、現在は第三騎士団の団長である。
彼女はそれを侯爵に告げたが、同時に首を振る。
カリーナはその手紙を最初から全て読んで、そして笑ってしまった。
侯爵夫人に対する美辞麗句とあからさまな愛欲に溢れた、しかし内容のない手紙だったからだ。
「筆跡は確かによく似ているが、別人の痕跡が見られます。
もちろん、私は、わざわざ己の本名を晒して人妻とやり取りをするような能無しに騎士団長の座を任せたりもしない」
そして、ついついまた笑ってしまう。
「そして何よりも、彼は愛人関係にある相手に対して、このような恋文を送るような情緒は待ち合わせていない」
「恐れながら、部下の私生活のことまで把握しきっておられる訳ではございますまい」
「ああ。ただの部下ならば。しかし、彼とはまだ部下になる前ではあるが、愛人関係にあった。私はこのような文を受け取ったこともなければ、甘い言葉を吐かれた事もない。あれはそんな男ではない」
ガチッ!
隣でカップを鳴らしたロイが、カリーナの頬に手を伸ばし、彼女の顔を自分の方へ向かせた。
「あの、やたらと顔のいい男だな」
もちろん、部下になることが決まった時に関係は清算している、と説明するがロイは不満気だ。
もしかしたら、以前の愛人の話は夫には言ってはならない事だったのかも知れない……。ロイの表情が……とても、怖い。
クリスナー侯爵も気まずそうな面持ちで、二人から視線を逸らしている。
だが、彼女にとっては、そんな事は瑣末な事だった。
カリーナは侯爵に向き直ると本題に入った。
「これは、暗号文です。第三騎士団で使われている物と酷似している。やや、簡略化されていて読み取りやすいが……。
エヴァンは、何らかの理由で隠れ蓑に使われただけでしょう。事態はかなり深刻そうですよ、侯爵?」
「……どういうことでしょうか」
「夫人は、誰だかは分からないが、貴人の暗殺のための毒物を手に入れる手筈を整えておいでだ」
「まさか……」
「私の事を信じる必要はない。
暗号の専門家に依頼すれば解読は可能でしょう。先ほども言ったように、簡略化されていますから」
簡略化してしまっては暗号文の意味がない。
これは確実に、いつか人に読ませる事を前提として作られたものだ。
「あの、第四皇子の母、あの方とは縁を切らせ、しばらくはご夫人を自邸から出さないことをお勧めする。夫人がそのような大それた事に加担するとしたら、あの方に関係があるのでしょう。
このまま巻き込まれ、家門を潰したく無ければ、早急に手を打たれよ」
「なんと……!」
「あなたの夫人は大変な向上心をお持ちだ。それがおかしな方向に向かった可能性がある。
ナシオ王国の王妃との繋がりも深かった」
カリーナは侯爵に、念の為これが本物ではない事を確認すると約束した。
エヴァンではない、第三軍内の信用のおける人物に助けを借りるつもりだった。手段が限られるが、なんとかなるだろう。
侯爵は、改めて急な訪れを詫びた後、離宮を去った。
「カリーナ。話があるのだが……」
「……何事でございましょう、殿下」
ロイはカリーナの腰を抱き寄せると、強引に歩き出す。
さて、いくら鈍いと言われるカリーナであっても、彼が話そうとしている内容に見当はつく。
先ほどのあの表情を見れば……。
「殿下、ここでお話し致しましょう」
「いや、寝室で、二人きりの方がいいだろう。先ほど邪魔をされる前の続きもしなければ。違うか、カリーナ?」
……違うと言いたいが、どうやらそれは出来そうになかった。
「どうぞ、お手柔らかに……」
そう言ったカリーナに、ロイはとても魅力的で、しかし危険な笑みを浮かべた。
つづく……
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