31.待ちに待った温泉
おはようございます!
こんにちは!
こんばんは!
「妃殿下。用意が出来たそうにございますよ」
侍女長がやってきてカリーナに告げた。
「待ちかねたぞ」
カリーナはロイに握られていた手を解くと、立ち上がった。
「夫よりも風呂が良いのか」などという声が聞こえるが、「そんなはずないでしょう?」と微笑み返し、そそくさと入浴の準備を始める。
忙しい日々を過ごす間、棚上げになっていた温泉に、遂に入ることが出来るのだ。
厳密には、温泉の湯自体には離宮にいる日には毎日のように浸かっていたのだが、大浴場に湯を張り、それに入るということが出来ないでいたのだった。
帝都との往復も多かったし、来客時には使用人らに余計な負担をかける事は出来なかった。
また、領地の視察などでロイが離宮を離れる日には、大浴場の使用はしないようにと、彼はカリーナに厳命していた。
万が一カリーナが湯あたりした場合、侍女らには彼女を寝室まで運べない。そして、護衛に残して行った者が湯上がりのカリーナに触れる事は許せないからだと言う。
普段からそんな事にはなっていないと抗議したが、頑固な男は意見を変えなかった。
過保護なのかなんなのか、ロイはいろいろ面倒だ。
これはロイに限った事なのか、夫というのはそういう物なのか、カリーナにはよく分からない。
そして、皇太子が駆け落ちをした。ロイ単独で、または夫婦二人での帝都への移動も増え、さらに大浴場を使う機会はなくなってしまっていた。
だが議会で皇太子の廃嫡が決まったことにより、離宮にようやく束の間の平穏な日々が訪れたのだ。
カリーナが初めて離宮に足を踏み入れてから、四ヶ月以上が経過していた。
「嬉しそうだな」
不機嫌そうなロイが言う。彼はカリーナと一緒に大浴場の湯に入るつもりだったらしい。
やはり、とカリーナは思った。だから難癖をつけて、自分のいない時には浴場の使用を許可しなかったのだろう。
順番に入りましょう、と言うと、彼はあからさまにがっかりしていた。
カリーナに触れないのならば一緒に入ることも考えないではないと言うと引き下がったので、やはり不埒な事を考えていたに違いない。
大浴場は、温泉というより小さなプールのようだと思い、はて、プールとはなんだっただろうかと思う。久しぶりに見た、前世のものと思われる残像が消え去る。
気にしても何かわかるわけでもないので、気にしないことにしてガウンを脱ぎ、それを侍女に渡すと、先に軽く身を清めてからそこに足をつけ、温度を確認しながらそこに身を沈めた。
髪は結いあげてもらってある。
それはそれは格別な湯だった。
湯自体は、部屋の浴室で入るものと変わらないということは分かっているが、気分というものが違う。
少し冷んやりとしているが、晴れ渡る空から降り注ぐ陽の光が気持ちのいい日だった。
湯を堪能するのには最適だとカリーナは思う。
衝立の向こうでカリーナの入浴を見張っているロイの存在がなければ、もっとゆっくり楽しめただろう。
やがてロイが人払いをする。
不埒な事を考えているのならばすぐに出ようと思ったが、どうやら違うらしい。
「皇帝はそう遠くないうちに死ぬ」
やや唐突に彼は言った。彼と二人きりでこういう話をするのは久しぶりだった。
寝所で二人きりになっても、あえてそういった話題は出さなかった。彼が近頃何か思い悩む様子があったから。
「あれだけ不健康なご様子ならば長生きはなさらないかもしれないですが。しかし、病床に伏している訳でもございますまい。すぐにどうという事はないでしょう」
「次の皇帝を決めあぐねている。今のうちに、と考える者が出てもおかしくはない。実際にそういった動きがあるとの報告もある。
それを知らせてやる気はないが」
「では、戦闘は避けられませんか……。後継者を決める前に亡くなられるのは、避けていただきたいと私は思っておりますが」
「……無駄な戦いはしたくないか」
カリーナは湯を掬い取り、肩にかける。
「手っ取り早いとは思います。武力で勝負するとなれば、あなたが有利なのは自明の事ですから。ただ、無駄な人死にと、遺恨を残します。それは将来的には避けたい選択肢ではございませんか?」
ロイが息を吐く程度に笑ったのが分かった。
「そなたならばそう言うと思った。
だが、好戦的な者たちが多くてな。制御するのが大変だ」
そしてそこで、彼の声の調子が変わった。
「誰かの陰謀を阻止して回るつもりはない。だが私はまだあの男の死を許容するつもりはない。生かしておく必要がある。だから、必要最低限の手は打っている」
カリーナは頭の中を去来する今後訪れるであろう悲劇や喜劇や復讐劇や、それら諸々のものを忘れ、ゆったりとした時を過ごすために温泉に浸かっていたはずだった。
なぜこのような物騒な話をする羽目になるのだろうか。
大切な話だろうが、風呂の中でする必要はない。
本当にのぼせてしまう。
「この話は後ほど詳しく……。もう上がります」
湯から上がり体を拭き終わったカリーナが、侍女が置いて行ってくれたガウンに手を伸ばすと、それをロイが取り上げた。いつの間にか、衝立の向こうから移動していたらしい。
「……女性の裸を見るのは礼儀に反するのでは?」
「妻なのに?」
そういう問題ではないと思うのだが……。
とりあえず、それを着せ掛けてくれるロイには逆らわず、ガウンを羽織る。
そしてそのまま後ろから抱きしめられた。
やはり彼は、最近様子がおかしい。
「カリーナ。いざという時は、私を止めると言ったな」
「……ええ……。あなたが非道な道を行こうとしたら……」
彼はそれ以上何も言わずに、カリーナの首元に顔を埋めていた。
彼は親殺しをそそのかしてくる支持者たちをいさめることが辛くなってきているのだろうか。
彼自身の内心はカリーナには知る由もないけれど、己の道に迷っているのだとしたら……。
「ロイ」
カリーナは彼の腕の中で身じろぎし、彼と向かい合う。すぐに体を引き寄せられてしまう。
「私にとっては、結局のところ他人事です。帝国がどうなろうが、知った事ではない。あなたに関わる事を除いては」
「私に関わる事とはつまり……。帝国の全てに関わるのではないか……? そう生まれついたのだから……」
カリーナは首を振る。
「私はあなたの生きる道に賭けただけ。面白そうだったし、あなたがあまりにも眩しかったから。
しかし、近頃のあなたからはあまりそれが感じられない」
「……それは由々しき問題だな……」
そなたが離れて行くかもしれないと、さらに抱きしめられる。
カリーナは苦笑する。
「私が言いたかったのは、あなたがしたくない事を、せざるを得ないと自分を縛り付けているのであれば、そんな物は私が断ち切って差し上げるという事です。
帝国がこの世の全てではない。どのような立場に生まれようが、どのような道を歩んできたのだろうが、その先までも決めつける必要はない。
もう少し気楽にやってください。権力闘争など、真面目にやっていたら、おかしくなってしまう。
そうなったあなたを止めるのではなく、あなたがそうならないようにして差し上げる方が、私は楽です」
「……そなたの言う事を、私は完全には理解出来ていないかもしれないが……。私はどうやら支持者らに見放される事を恐れ始めているようなのだ。見放されないように立ち回らなければ、と。その必要はないという事か?」
「まあ、そのようなものでしょうか?」
カリーナは夫の顔を上げさせると、その逞しい首に手を回し、不敵に微笑んだ。
「いざとなれば二人きりで、全て剣で決着をつけてもいい。血塗られた道になってもいい。あなたが誰かに迎合し、現在の皇帝のようになるよりは、いくらかマシです」
今度はロイが苦笑した。
「それは、そなたが一番嫌がりそうなやり方だ」
「出来れば取りたくない道ですが、ロイがロイでいられるなら、私は構いませんよ? もちろん、無駄に殺して回ろうなどと言っているわけではありませんからね?」
「そなたは、私が私でいればそれで良いと言うのか?」
カリーナは答えの代わりに、彼に深く口付けた。彼もそれに応えてくれる。
「カリーナ……。寝室に行こうか」
ロイの囁きにカリーナが答えようとした時……。
「殿下。来客の知らせでございます」
クリストフの声が言った。
ロイは舌打ちしつつ、相手の名を問うた。
カリーナも舌打ちしたかった。
「クリスナー侯爵が、足止めにあって難儀されているとか……。雨宿りをさせて欲しいとのことです。その際、是非、お二人にご挨拶をなさりたいと」
カリーナは首をひねった。雲などほとんどない空を見上げる。
クリスナー侯爵は、あの、カリーナと同郷のお喋りな夫人の夫だ。領土拡大派の重鎮でもある。
「カリーナ。侯爵に会うぞ。着替えをしてきてくれ」
「ロイ。雨など降っておりませんが……」
「侯爵は随分と古い表現を使ったのだ……。旗色を変えたいと、そう言っている」
なるほど。それはすぐにでも会わなければならないだろう。
二人は互いに回していた腕を外し、頭を完全に切り替えて足早にそこを後にした。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!




