21.犬もくわない夫婦喧嘩
おはようございます!
こんにちは!
こんばんは!
二人がまだ帝都を発つ前に、それは起こった。
皇宮にて与えられた部屋で、カリーナがロイの膝に横座りし、夫の顔を睨みつけている。その手は夫の襟首を掴んでいた。
「何をそんなに怒っているんだ」
「だから、これですよ!」
帰途に着く日。馬車の支度が遅れたとの連絡を受け、第五皇子一行は一時の休息の時間を得た。
クリストフは馬車の安全を確認すべく席を外していたため、部屋の中には四人しかいなかった。
カリーナは先ほどまで、確かにロイの隣に普通に座っていた。
チルトの軽口に適当な返事をしながらソフィが入れてくれたお茶を飲んでいた。彼女が入れてくれるお茶は、とてもカリーナの口に合うので、それを褒めたりもしていた。
昨夜の夜会の騒々しさとは全く違う、実に和やかな時間だった。
ところがカリーナがカップを置いた瞬間、急にロイに引き寄せられ、あっという間にその膝の上に乗せられていたのだ。
またか、とカリーナは思った。
昨夜夜会から戻ってからも、控えの間での振る舞いについて苦言を呈していた。ずっと、いやらしく腰をさすっていた件についてだ。
首を傾げながらも一応彼女の主張を受け入れたかに見えたロイは、今後はその様な事はしないと約束した。
それなのに一晩明けたらこの有様だ。
カリーナは、ロイが所構わずに彼女に触れてくることに不満を募らせていたわけだが、それがこの場で爆発し彼の襟首を掴み上げていたのだ。
「何度言ったら分かるんですか! 昨日の約束をもう忘れるなんて!」
「昨日の約束? 控えの間でのことか? 忘れてなどいない」
「はあぁ? ではこれは何ですか! 人前ではベタベタしないで欲しいと言ったはずです!」
ロイは憮然として言った。
「人前? ここは私室だ。借り物ではあるが」
カリーナは、チルトとソフィを手で指し示した。
「……護衛と侍女だな」
「ええ! 私たち以外にも人がいます」
ロイはカリーナの手を襟首から外させると、その手をそのまま握り込んでしまった。力では敵わない。
「家人の前ですら触れられないと言うのは、納得がいかない。そんな約束はしていないな」
彼は、眉間に皺を寄せて抗議した。
彼はある時点までは、皇帝の座にも容易に手が届く立場におり、多くの侍従や侍女に囲まれて育った。
彼ら彼女らはどこにでもいるのが当然で、私生活を見られたとしても気にならない。
カリーナとて、皇宮ほどではないにしろ貴族の家で生まれ育ったのだから、それほど違いがあるとも思わない。
どちらかと言えば、カリーナが過剰に反応しすぎなのではないかと彼は思う。
カリーナとしては、そもそも前世の記憶が中途半端にあるせいで、幼い頃から他人に世話を焼かれるのを嫌がるおかしな子供だった。
確かにその自覚はあるのだが、人前で恋人なり夫なりとベタベタとする事にはどうしても大きな違和感が伴う。
前世云々はともかくとして、嫌だと言っているのだから、それに合わせてもらわなければ困る、と彼女は思っていた。
「そもそも、なんでそんなに触りたがるんですか」
「……触り心地が良さそうだから?」
「……心地良さそうならば、誰にでも触るんですか。もともとそうなさっていたのなら、そうなさればいい。しかし私にはしないでください」
「そなた以外に、そんなふうに思った者はいないが」
「ぇ……」
カリーナは顔に熱が集まるのを感じて手で顔を覆った。下半分しか隠れていなかったけれども。
おい、そこの二人。顔を背ける振りをして笑っているのは分かっているぞ。肩が震えてるからな!
「な、何はともあれ私は嫌なんです! 触らないで下さい!」
ロイはため息をついたきり黙り込んだ。
じきにクリストフが馬車の用意が出来たと呼びに来て、その会話は中途半端なまま終わった。
馬車の中でも沈黙は続いた。仕事をしているロイと、外を見ながら黙り込んでいるカリーナ。同乗していたソフィが一番の被害者だっただろう。
離宮に着いてからも二人は互いに対しては口を開くことはなかった。
ソフィから報告を受けたらしい侍女長が、荷解きが終わったと言う報告と共に、カリーナにロイの居所をさりげなく伝えてくる。
「練兵場? この離宮にもそんな場所があるのか?」
「はい。元は半地下の、芝居用の広間だったのですが、殿下が改装なさいまして。なんでも、殿下は大変気が立っておられ、多くの兵と手合わせなさっているとか……」
「……手合わせか……」
おそらく、二人が仲違いをしているせいで皆が迷惑を被っているから早く何とかしろ、と言う事だろう。
もっと時間が経ってからではなく、今この時に練兵場での出来事を伝えてくるとは短い付き合いなのに侍女長はカリーナの事をよく分かっている。
クリストフ辺りの入れ知恵かも知れないが。
「着替える。シャツとズボンを出してくれ」
カリーナは着替えを終えると、自分の剣を持って、練兵場へ向かっていた。前を歩く侍女長が、彼女の剣をさりげなく気にしている。
「なんだ? 言いたいことがあるならば言ってくれて構わない」
「剣を……お待ちになるのですか? 練習用の剣ならば、あちらにたくさん……」
「自分のものがいい」
カリーナがそう言うと、彼女は黙って案内役に徹した。
練兵場というには壁に彫られた彫刻が美しすぎる場所にカリーナは足を踏み入れた。
何人か床に伸びているし、座り込んでいる者がやけに多い。
だが彼らはカリーナの姿を認めるやいなや、あわてて起き上がって帝国風の騎士の礼をする。
進む先に、均整のとれた長身が見える。毛先に行くに従って金色をおびる髪を一つに括った、美しい男が背を向けている。
彼はこちらのざわめきに、眉を顰めながら振り返った。
ああ。彼女の夫はまさに軍神そのものだ。
「! カリーナ? なぜここへ?」
「あなたと手合わせをして、決着をつけるためですよ」
そう言うと、ロイは驚いたように瞬きし、そして、にやりと笑った。
もうその顔には、帝都で見せていたような穏やかさなどない。
カリーナはそれがとても嬉しい。
「決着か。それはいいな。勝った方が、相手の言い分に合わせるのだな?」
「完全に相手に合わせるのでは、後々不満が溜まるだけでしょう。勝った方の主張の方に重きを置く、くらいではいかがか」
「……そなた、後でうまく言いくるめればいい、などとは思っていまいな?」
「……まさか」
「おい、今の間はなんだ」
カリーナはそれを無視して声を張った。
「見届け人を!」
その声に、何事かと様子を伺っていた兵らが駆け寄ってくる。
ちなみに、彼女がやってくる前にロイにやり込められて床に倒れていた男は速やかに片づけられていた。
チルトが出て来て「では、私が」と言うのに頷き返す。
そう言えば、ロイはかなり暴れていたと言う。だが本人は平然としているし、それはカリーナとロイの腕力と体力の差を考えれば、それくらいが均衡を保つのにちょうど良いくらいだろうと、気にしないことにした。
「何本勝負にしますか?」
「一度でいい」
カリーナがそう言って、自分の剣を抜くと、ロイも手に握っていた模造刀を握り直す。
「ロイ。あなたがいつもお持ちの剣を使ってください。それでは、あまりにもあなたが不利だ」
「だが、私はそなたにかすり傷一つ負わせたくはない」
「当然でございます!!」
そこで、甲高い女性の声が響いた。侍女長だ。
彼女は新兵らが練習で使う木剣を用意させており、それを二人に渡すように指示を出している。
「……私はこんな物使わないぞ」
カリーナは一応それを受け取った。懐かしい握り心地だが、それはほんの子供の頃の事だ。ある程度力がつくと、刃を潰した模造刀を使うようになったから。
「いえ。殿下にも、妃殿下にも、お怪我を負っていただくわけには参りません!」
「……あまり意味がないと思うが……」
カリーナがロイを見ると彼はすでに木剣に持ち替えていて、小さく肩をすくめた。
仕方なく、カリーナはチルトに頷く。
チルトは頷くと腕を伸ばした。そして、二人を一度づつ見やると、その腕を振り下ろした。
その合図に、カリーナは瞬時に駆け出した。なんの構えも見せず泰然自若としているロイの喉元目掛けてそれを突き立てる。
もちろんそれは、彼を捉える寸前で弾き返され、脆い木剣はそれだけで悲鳴をあげた。
カリーナは打ち込まれるロイの剣を剣先で流しながら、体の向きを変え横から彼に再び襲いかかる。
そしてその剣を彼が受け止めたとき、悲鳴に似た音を立て、カリーナの剣が折れた。
カリーナが咄嗟に飛び退いてロイを見ると、彼の持つ木剣も剣先が無くなっていた。
チルトが二人の間に割り込んで、勝負の終わりを告げる。もちろん引き分けだ。
「ほら、意味がなかっただろう? こんな脆い物」
カリーナは侍女長に向かって壊れたそれを振る。
彼女は少し顔色が悪いようだ。自分でこれを使えと言い出したのに。
「これでは勝負も何もない。もう模造刀でいいから、持ってきてくれ」
カリーナはチルトに言った。ところが……。
「思ったんですが、平和的に話し合いで決着をつけるのがいいと思いますよ? いえ、ぜひ、そうして下さい!」
「……は?」
何を言っているんだ。それで決着がつきそうにないからこうしているのに。
よく分からないまま、カリーナはロイと共に練兵場から追い出された。
少し離れて侍女長やチルトがついてくる中、二人は自分たちの居室に向かって歩いていた。他にしようもない。
「なんなんだ、いったい……」
「そなたの剣があまりにも好戦的だったから、驚いてやめさせたんだろう」
「好戦的?」
「どんな顔をしていたのか、自分では分からないのだな」
首を傾げるカリーナに、ロイは苦笑する。
「そなたの経歴を知ってはいても、同時に例の噂も知られていたからな。多少侮っていたところに、あの鋭い剣捌きだ。本気で私にあれを叩き込もうとしていただろう」
「そうでもしなければ、絶対に敵わない」
ロイは立ち止まると、カリーナを手近な部屋に連れ込んで、すぐに扉を閉める。扉の外から、驚いたようなチルトの声が聞こえた。
それを無視したロイは、カリーナをきつく抱きしめる。
「ロイ……」
「触れられないのは辛い……。そなたはすぐにどこかに行ってしまいそうで、不安になる」
顔を上げたカリーナに、彼は小さく口づける。
大きな男が心細気に眉を寄せている。
そんな顔をされたら、カリーナだって困ってしまって眉を寄せてしまう。
「あなたと一緒に、ここまで来たのに?」
「ああ。ずっと寝室に閉じ込めておきたいくらいだ」
カリーナは苦笑する。
「それでは、あなたが外出している隙に逃げてしまうかも知れませんよ」
「何を言っている。私も一緒に閉じこもるんだ」
カリーナは瞬きをすると苦笑した。
「……あなたという人は……」
そんな事を言われたら、呆れと共に、愛おしさまでが込み上げてきてしまうじゃないか……。
「できるだけ我慢する。二人きりの時以外は触らないように。だから、もし触ってしまった時は我慢の限界だと思ってくれ。それくらいは許してくれてもいいだろう?」
「……分かりました、ロイ。別に、私も触れたくないわけではないんですから……んっ」
その言葉と共に、強引に口を塞がれる。
「カリーナ……今日はこのままここに閉じこもろう。我慢できない」
そう言われて、カリーナは部屋を見回した。ここは客間のようで、奥には寝室や浴室らしき扉も見える。
「だめか?」
「自分たちの部屋まで戻れば……」
「我慢できない」
カリーナは仕方なく、彼を引き寄せて自分からも口づける。
承諾の合図を受け取ったロイは、明日の昼まで、食事を運ぶ以外はこの部屋に近づくな、と扉の向こうに声を張った。
「かしこまりました」という侍女長の声が聞こえる。
「まずは風呂だろう? そなたは風呂が好きだから」
「ここにも、あの湯が?」
「当たり前だ。そうで無ければ別の部屋にした。そなたが喜ぶ方がいい」
ロイが嬉しそうにカリーナの手を引く。
カリーナも、ついつい微笑みながら、一緒に浴室に向かった。
「それで、まだ出てこられないのか」
クリストフがチルトに尋ねる。
「ええ。もう夜ですけどね。昼までって、あの人が言ったんですけどね」
「傍迷惑な方達だな」
「まったくですよ、ほんとに」
そう言い合うと、二人は同時に笑ったのだった。
つづく……
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ラブラブで何よりです。




