20.皇太子妃殿下は苦労人
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カリーナは、昨日文書館で可愛らしい笑みを浮かべていた皇太子妃の、打って変わって沈んだ様子が気になっていた。
ついつい皇太子妃を見つめてしまったカリーナの視線を目ざとく追ったご夫人方が、聞いてもいないのに、あの状況の説明をしてくださった。
他の妃すらいないものの、皇太子には大勢の愛人がいるのだと言う。視線で示された先を見ると、皇太子が他の女性の腰を抱いて、取り巻きらしき若い貴族たちと談笑している。
皇太子妃は、落ちぶれかけていた侯爵家の出身であると言う。
しかし、彼女の才気に心底惚れ込んだ今は亡き皇太后、現在の皇帝の母親に是非にと望まれ、十五歳の時に同じ歳の皇太子と結婚し、一人息子をもうけた。
だが、皇太子夫婦はあまりにも気質に違いがありすぎた。
遊興に身を投じる事しか考えていないような夫と、本の虫であり、語学に堪能で帝国内の各地域について熱心に学ぶ妻。
二人が仲睦まじい様子を見せた事は一度もないと言う。
皇太子妃の実家は、娘を皇室に嫁がせて得た金銭や人脈を生かし切れず、やはり今でも落ちぶれたままだという。一度は議会に議席を持ったが、十年前にそれすら失い、今では社交界にも出ては来ない。
実家がそんな状態だから、皇太子妃個人に大きな後ろ盾はない。
「皇太后様がご存命でいらしたら、状況は全く違うものとなっていたのでしょうけれど」
とは、あるご夫人の談である。
なるほど、それでは一通りの挨拶が済んだあと、彼女が一人になってしまったとしても仕方ないのかも知れない。
通常ならば、未来の皇后に近づこうとする貴族たちに囲まれているところだろうが、誰がどう見ても彼女はすでに皇太子からの寵愛を失っており、そんな人物よりももっと旨みのある相手のところに、皆行ってしまうのだ。
だが、カリーナには彼女に近づく動機があった。
カリーナは、周りの夫人に挨拶すると、皇太子妃のもとに向かった。
途中から彼女もカリーナが向かって行く先に、自分しかいないと気づいたようで、少しばかり体を固くしたのが分かった。
カリーナは、彼女の前で礼をした。すぐに返ってきた、戸惑ったような声に顔を上げる。
彼女は自分も立ち上がって、カリーナに返礼していた。本来、彼女にはカリーナにそうする義務はない。ただ礼をうけ、顔を上げるように言えばいいだけだ。だが、彼女はわざわざ立ち上がってくれた。
ただ驚きすぎただけかも知れないが。
「先ほどは、控えの間で驚かせてしまい、申し訳ありませんでした」
彼女は、小さく笑みを浮かべ、「いえ、お気になさらないで」と答える。やはりその声も固い。
隣に腰掛けても構わないかとカリーナが確認すると、彼女は驚いた顔をしたが、「もちろん」と言って、自分も腰掛けた。カリーナは怖がらせないように、少しだけ距離を取って、並んで腰掛ける。
「どのような本がお好きなのですか」
「え?」
「昨夜、何か本を持ち出していらしたでしょう? しかし、私からはその本の背表紙しか見えなかったのです。どのようなご本を読まれているのか気になりまして」
「……歴史書でした。でも、どのようなものも読みますので……」
「そうでしたか」
カリーナは微笑みかけながら言った。
だが、返答はなかった。しばらく二人の間に沈黙が流れた。
カリーナは彼女が口を開くのを待った。また怖がらせてはいけないから。
「……属する派閥も違い、どちらかと言えば、対立関係にある相手に、公式の場で近づく意味を、あなたがお分かりでないわけがないわね?」
「はい。でもそれ以上に興味を惹かれる相手であれば、私は気にしません。対立関係にあるのはあくまでも夫同士のことと思っております。
私は是非、文書館で出来なかったお話をしたいと思ったのです。
ですが、ご迷惑であれば、すぐに立ち去ります」
皇太子妃はまた身を固くした。何にそんなに怯えているのだろうか。
「どのようなお話しですの……?」
「妃殿下がお持ちの蔵書についてです」
彼女は驚いた顔でカリーナを見た。そんなに意外な話題だっただろうか。
「ご存知の通り、私は数日前に離宮についたばかり。自分の蔵書は持っては来られませんでした。昨日、欲しい本があったら、写本を作って貰えるように手配しようと思ったのですが、時間がなく、これと言った出会いはありませんでした。
何かお勧めのものがあれば、お教えいただけるとありがたい。私もどんな分野の本でも読みます」
彼女は、少し迷った後、そういう事であれば、といくつかの本を紹介してくれた。
「今申し上げたものは、全て自分で写本した物が手元にございますの。拙いものですが、よろしければ、いくつかお持ちになる?」
「ご自分で? それはすごいですね。でも、そんなに貴重なものをいただくわけには……」
「よろしいのよ。全て文書館にもある物ですから、必要になれば、また写本を作りますから」
彼女は少しだけ表情を和らげて言った。
だが、カリーナは、本来忙しすぎるほど忙しいはずの皇太子妃が、写本をするほどの時間が取れる事に驚かざるを得なかった。
ロイが憂う、帝国の現状の一端とやらを表しているかのようだった。
彼のことを考えた瞬間、二人の間に影がさした。
ロイがそこで微笑んでいた。彼は二人よりも上位者なので、気軽な様子だ。
妻が困らせてはいないか、などと大変失礼な事を言う。和やかに会話をしていたのは、遠くから見ていても分かるだろうに。
「殿下。まだ離宮の蔵書を知らないのですが、いかほどの量がございましょうか」
「多少はあるが、私の趣味の物だから軍事に偏っているかな。量もあまりない。図書室はあるが、そこにある本は、だいぶ古い物ばかりだろう。少なくとも私は使っていない」
カリーナはとりあえず図書室がある事に安堵した。それがなくては始まらない。帰ったら、早速そこに手をつけようと決める。
「皇太子妃殿下が、蔵書をくださるそうなのです。お言葉に甘えても問題ないでしょうか」
一応聞いてはみたものの、すでにカリーナの心は皇太子妃がくれるという、本の置き場所作りの事でいっぱいだ。
そんな様子のカリーナに、ロイは「好きにしていい」と言うと、皇太子妃にも礼を言った。
彼女は、ほとんど口をきいたことがないと言う、第五皇子からの言葉に戸惑いながらも、「お礼には及びませんわ」と小さな声で答えてくれた。
これ以上、しかもロイまで来てしまった状況で、カリーナがここにいては本当に迷惑になるかも知れない。
カリーナはその場を辞そうと思った。
本の受け渡しについては、侍従にでも託した方がいいだろう。記録などに残した方がいいかも知れないし。
立ちあがろうとしたカリーナの耳に、非常に耳障りな掠れた声がかすめた。
「こんな、何を企んでいるか分からないやつらと口を聞くな」
その声の主は、皇太子だった。咄嗟に礼の姿勢をとるカリーナとロイには目もくれず、その男は自分の妻の腕を取って無理矢理立たせた。
カリーナはこの場でなければ、その腕を捻り上げているだろうと思った。
皇太子は二人を完全に無視して、皇太子妃を自分の取り巻きたちの輪の中に連れて行ってしまった。
また皇太子妃は、表情を無くしている。
「ひどすぎるぞ、あの男」
カリーナがその様子を見ながら、文句を言うと、ロイが苦笑する。
「最近のことは知らないが、昔からあの調子だ。気にしても仕方ない」
「でも、あれではあんまりだ。あの聡明そうな女性は、これからもあのまま、あんな男に囚われていなければいけないなんて」
「……随分と気に入ったようだな、皇太子妃を」
カリーナは肩をすくめた。自分でもよく分からない。
前世の記憶から来ているらしい、あの怒りは感じている。押し込められている苦しさと怒りと悔しさと。
だが、彼女は立場に囚われているとはいえ、命の危険もなく、飢える心配もない。
庇護欲が掻き立てられているわけではない。
でも、なぜか、もっとたくさん話をしたいと思ってしまうのだ。同年代の女性と、本について話したことが無かったからかも知れない。
「いつか、本のお礼に離宮にお招きしたらいい」
ロイが皇太子一行の方を見ながら、そう言った。
これからロイや、内政派の貴族たちがしようとしている事は、皇太子妃の生活にも大きな影響を与える事になるだろう。
カリーナはせめて、それがあの女性にとって、良い方向を向かせるものであって欲しいと思った。
そして、翌朝には帝都を発つ予定の二人は、皇帝に挨拶を済ませると、早々に夜会を後にした。
翌日、出発の準備をしていた彼らの元に、三冊ほどは本が入っているだろう、重い包みが届いた。
カリーナは、それを自分の荷物と共に、大事に馬車に乗せたのだった。
つづく……
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