10.盟約と婚約
おはようございます!
こんにちは!
こんばんは!
「閣下、いえ、殿下。それはダメ。それはダメです」
カリーナは、彼から発せられた、あまりにも破壊力の強い言葉に顔を両手で覆ってしまった。
「……何が?」
そう返してくる声が、やけに甘く聞こえてしまう。
「それでは、それではまるで……」
カリーナは自分が盛大に頬を染めているのに気づいていなかった。
「まるで、結婚の申し入れのようです。お気をつけ下さい。か、勘違いをしてしまう方もおられましょうから!」
「そういうつもりで言ったのだが」
「は……」
「外国人で、さらに軍の要職にある人物を自分の近くに置くとしたら、そなたならばどうする?」
えっ、それはなかなか難しい。国がよほどの事情がない限り手放さないだろうし。
あ! また指が髪の毛を……!!
「幸い、我らは共に配偶者のいない身。年廻りもよく、身分の釣り合いも取れる。そなたが私の元に輿入れしてくれば、何の問題もなく、そなたを私のものに出来る」
ああ……なるほど。
政略結婚。それならばあり得る……。
すいません。勘違いしました。恥ずかし……。
カリーナは咳払いをすると、彼の手から自分の髪を奪い返した。
「勝手に話を進めないでいただきたい。私は国を出るつもりはありません」
彼女には、家族も、領民も、家族同然の使用人たちも、第三軍の部下たちもいる。
「……そなたも満更ではないと思ったが」
「私は配偶者を必要としておりません。すでに伯爵家の当主ですし、分不相応な役職もいただいている身でございます」
「そうか、残念だな。そなたほど、私の妻に相応しい女はいないというのに」
また! この女たらしが!
「殿下ほどのお方なら、美しく、淑やかなご令嬢が、お望みならばいくらでも……」
「だが、そなたほどに強く、賢く、美しい者はいない」
カリーナは困りきって、彼を見た。そんな事は言われたことがない。恥ずかしいやら、身の置き所がないやら。
「この瞳。不思議な色をしている」
彼はまた指で彼女の頬をなぞり、目尻をスッと撫でた。
「何が問題だ? その憂い、私が取り除いてやろう」
「私には家族が、父がおりますし。領民も、部下たちも」
「なるほど。しかし、嫁いでからも家族はできる。お父上とも今生の別れとはなるまい。領地はそなたが持ったままで構わんだろう。皇族であっても、他の爵位は持てる。私も持っている。そして、第三軍の部下たちか? それは、国のものだ。そなたの私兵ではなかろう」
……たしかに……!
いや、違う、そうじゃない。
見事な勧誘に、うっかり諾と答えてしまいそうだ。
目の前の男は、実に魅力的な表情でこちらを見下ろしてくる。
「しかし、帝国に移り住むとしたら、生活様式などに様ざまな違いがございましょう」
当然、帝国の方が、ナシオ王国よりもよほど進んだ技術を持っているのだが、それが全てに行き渡っているとは限らない。
いや、けして行ってみたいわけでは……。
「なるほど、生活に不安が。分からなくもないが。
例えばどのような点で? まさか、帝国の王都や王宮が、この砦のような、劣悪な環境だとは思っていまいな?」
「もちろん! 我が領地でも、帝国出身の技術者を大勢雇っておりますから。上下水道の設備を、我が領の技術者に教えていただいておりますし。あ、あと、浴場を作る際にも世話になりました」
ナシオ王国では、湯を沸かして、人一人入れる大きさの桶にその湯を溜めて、軽く浴びる程度が、貴族の間でも主流なのだ。
カリーナは領地の屋敷に、大きな浴槽を造り付けているが、そんなものは他では聞かない。
ちなみに彼女は、領地の各地に浴場や、それに付随して治療院も建てさせている。
「ほう。風呂が好きか。では私が暮らす離宮はさぞ気にいるだろう。裏に温水が湧き出る山があって、それを浴場まで引いてきている」
「温泉!?」
急に顔を上げたカリーナは、目をこれでもかと見開いて、正面から彼を見つめた。
何それ、最高なんですけど。
それに驚いたのか、彼が一歩後ろに下がった。
「なんだ、その目は……。皇族の地位よりも、風呂に心動かされるか、そなた」
当たり前じゃないですか。だって、今世では温泉に入ったことないもの。
あ、いや、そのために行くとかはさすがに……。
彼は、何気ない仕草で右手を差し出してきた。
カリーナが、不思議に思いながらそれを見ていると、彼は反対の手でカリーナの手を掴み、その上に重ねさせた。
「私のもとに来い。出来る限りそなたが望む生活をさせよう」
彼は、あの、王者のような光を纏った笑みを彼女に向けた。
「私が妻にと望むのは、そなただけだ」
あ……また心臓が……。
彼は彼女の手を握り込み、持ち上げるとそれにくちづけた。
本当に結婚の申し込みをされているようで、勘違いしてしまいそうで、カリーナは困ってしまい、救いを求めるように彼の目を見つめた。
彼はあの黒い瞳で、自信ありげに目尻を下げて、彼女の手に唇を押し付けたまま、こちらを見返してくる。
これはひどい。追い詰めすぎだ。何でこんなにカリーナを困らせるのだろう。
「……反則です」
「どこが? きちんとそなたを説得している」
その目が、唇が、顔が、声が、雰囲気が、体格が、その志の高さが、ついでに温泉も、すべて反則だ。
「私のものになるな?」
そんな声で囁かれたら、頷くことしか出来ないじゃないか。
「いい子だ。苦労は分かち合い、喜びを与え、私の全てをやると誓おう」
彼の顔が降りてきて、カリーナの唇に……。
「おい、なんの真似だ」
カリーナは彼の胸を押し返し、にっこりと笑った。
口の上手いこの男に嫁ぐのならば、確認しておかなければならないことがいくつもあった。
カリーナ自身の財産の保全や、彼と離縁することになった場合の処遇、温泉の設備に関する技術の供与、それから……。
「ちょっと待て。紙に書かせてくれ。項目が多すぎる」
彼は特に不満そうでもなく、机のところに戻って、部下が置いて行ったのであろう、紙とペンを取り出し、それを自ら動かし始めた。
そういえば、ここへはオルテガの賠償金の支払額の減額交渉に来ていたのだった。
こんな、政略結婚の話し合いなどではなく。
彼はカリーナが並べた項目を全て書き終わると、それをカリーナに確認させた。
とても字が綺麗だ。どこまで完璧なんだ、この男。
「これでいいな?」
「いいでしょう」
項目に足りない点は、おそらく無い。内容の詰めは甘いが、不測の事態に備えて完全には決め切らないでおこう。あとはその時に都合よく解釈すればいい。
「ではこれを契約書の形式に。あ、すぐに終わります」
カリーナはいくつかの文言を書き足して、書面を大陸中で通用する契約書の形式に整え、もう一枚複製を作った。
「では、こちらと、もう一枚にもサインを」
「……」
あ、ヨアヒム・ロイトラート・ディレイガって名前だったんだ、この人。
「ありがとうございます。私もサインして……。よし。これで完了です。お互いに一通づつ持ちましょうね」
カリーナが一枚を差し出すと、彼は苦笑しながらそれを受け取った。
「あ、それから」
「まだあるのか」
カリーナは彼の手を掴んで、彼と目を合わせながら、はっきりと通る声で言った。
「あなたが望みを叶えた後、それによって得た力によって、その魂を変質させるようなことがあれば、私は力ずくででもあなたを止めるが、よろしいか」
「……もちろん」
彼も微笑みを浮かべて、カリーナの手を握り返した。
「それが私の、そなたに一番に望むこととなろう」
盟約は結ばれた。ついでに婚約も。
ちょっと、いやかなり、特殊な状況で。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「……は? 今なんと? 婚姻、と聞こえましたが」
再び呼び込んだ部下たちに、結婚する事になったと伝えると、当然の反応が返ってきた。
「何がどうなったら、賠償金の減額交渉が、そんな事になるんだ!?」
「聞かないでくれ。私にもどうしてこうなったのか、よく分からないんだ」
カリーナは、こめかみを押さえるエヴァンと、信じられないモノを見る目でこちらを見つめてくる部下たちに説明できるほど、自分でも状況を整理できていなかった。
よかった。契約書を作るのは失念しなくて。
あちら側の側近も、主人を問いただしているので、今回の件は第五皇子の独断であるようだ。
「それで我ら帝国軍がここを立ち去るというのだから、そちらの任務も果たされたではないか、副団長殿」
彼はエヴァンに笑いかけて言ったが、エヴァンの渋面は変わらなかった。
相当混乱しているなエヴァン。よほどのことがないと無表情を崩さないのに。
カリーナもエヴァンに、「何はともあれ、政略結婚と言うやつだ。まさか自分がするとは思わなかった」とやや複雑な気持ちで言った。
仕方ないじゃないか。
あれはさすがに断れない。
「で、オルテガが出せる賠償額はいかほどだ」
まだ渋面のエヴァンが金額を答えると、その半額を持って来させるようにと皇子は言った。
「さて、これでここともお別れだ。この辛気臭い砦とは」
「将軍、でもまだ帝国領内には……」
「分かっている。向かう先はナシオ王国だ」
カリーナも含めて、その場にいる全員が、驚きの表情で彼を見た。
「このまま攫ったとて文句は言わせないが、一応の義理は果たそうではないか。国王から直接、婚姻の許しを得ておいた方が楽ではあるし、高名なウェイリン辺境伯にもお会いして、ご令嬢との結婚の許可をいただこう」
さすがお父様、帝国でも有名だなんて。と一瞬呑気に思ったカリーナだった。が……。
「では、婚約者殿。そなたの国へご挨拶に参ろうか」
そう言った皇子に、手を差し出され、それを取ると、なんとも恥ずかしくなってきて、顔に熱が集まってくる。
「失礼。お言葉ですが、他国の将軍らを王都へ迎え入れることは、まず許可されないでしょう。何か別の方法をお考え下さい」
エヴァンの冷静な声に、カリーナの顔の熱も引く。
確かにその通りだった。
しかし。
「ディレイガ帝国の皇族が直接申し入れる。あちらは断れまい」
皇子は手近な紙に文章をしたためた。インクが乾いていることを確認し、紙を畳み封筒に入れる。
そして、首にかかっていた紐を取り出し、その先にくくりけられた指輪にインクをつけると、封筒の端に押し当てた。皇族の印だろうか。
そして、この書簡をナシオ王国の国王に届けるようにと部下に命じた。
「かしこまりました。至急届けさせましょう」
「もう隠さない事にしたんですね、殿下」
あ……。この人が第五皇子だって、エヴァンたちに伝えるの忘れてた……。
将軍の正体を知り、さすがのエヴァンも目を見開いて固まっていた。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます!