9.マルス将軍の正体
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カリーナと二人きりになると、マルス将軍はソファに移動し、どかりと腰掛けた。
色褪せたソファに座ると尚更、彼の発する光のようなものが広がった気がした。
前の席を薦められたカリーナはそれを断り、直立不動の姿勢を保った。気圧されないためには、彼より目線を下げてはいけない気がした。
「よく、二人きりになどなるものだ。よほど腕に自信があるのかな? そなたは私に、そなたの部下は私の部下に、それぞれ殺されるかも知れないというのに」
いきなりそんな事を言い出した将軍に、カリーナは首を傾げた。そちらが言い出したから、二人きりで話すことになっているのに。
「ご事情がおありとの事でしたので。私としては、交渉さえ進めば何でも良いのです」
彼は「正直だな」と言って笑った。
彼の歳の頃はカリーナと変わらないように見える。
初めはその体躯や威厳に圧倒されても、落ち着いて見てみれば歳はさほどいっていない。
「して、随分と法外な賠償金を請求なさっているとか。オルテガ王国側の人間が帝国領内で略奪行為をしたとしても、この情勢では無理のない事かと。そして、オルテガ王国にご請求の額を払う能力はありません。減額をお願いしたい」
「まあ、建前だからな。ここに居るための」
「そうではないかと思っておりましたが。閣下も随分と正直でいらっしゃる」
この本音を言うために、彼はカリーナと二人きりで話をしたいと言ったのだろう。
将軍のこの様子なら、すんなりと交渉が進むかも知れないし、まだ彼らがここにいる必要があるのなら、そうはいかないかも知れない。
「閣下がこちらに留まっておられる理由をお聞きしても?」
「……なぜだと思う?」
「帝国議会の議員選挙と関係がおありなのでは?」
カリーナが臆することなく話すと、彼は笑みを深くした。
「よく情報を集めている。若くして騎士団を任せられるだけのことはある」
カリーナは、顎をさすりながら面白い動物でも見るかのように彼女を見る男を真っ直ぐに見返した。
「やはり、あれは噂に過ぎなかったな」
「……噂とは?」
彼によると、カリーナは、ディレイガ帝国の社交界で、淫蕩で悪逆非道な、ろくに戦うこともできないのに騎士を名乗っている、とんでもない女として知られているという。
男たちを操り、闘いに駆り立てているのだとも。
噂の出所は、やはり数年前に帝国に嫁いだ公爵令嬢、今は侯爵夫人であるという。
彼女は、そのような事はナシオ王国の社交界で、十分すぎるほど言われ慣れていた。
確かにカリーナは突出して強いとも言い切れない。技をいくら磨いても、腕力や体力では男たちに敵わないからだ。
今の地位にいるのも家門の力といえばそれまでだ。
しかし、なんの努力もせずに騎士団長の席に胡座をかいているわけではない。
「……実際に私をご覧になって、あなたもそう思われましたか? 将軍」
カリーナは今、化粧もしていなければ、ドレスも着ていない。しなの一つも作らない。
女だとか男だとか、そんな些末な事はどうでもいい。ただ一人の人間として彼の前に対峙している。
彼は考えるようにカリーナを見て、膝を指で三度叩いてから言った。
「他の誰かに頼らなくても、自分で戦えるだろう。十分に。それだけ鍛えていればな。それに、あれだけの情報を得る能力があるのなら、無能なわけもない」
カリーナはほっとして、そして、そんな自分に驚いた。
この目の前の男は、自分を一人の人間として対等に見てくれている。それは、こんなにも嬉しい事だったのだ。
彼との出会い方がこのようなものでなかったら、間違いなく口説き落とす努力くらいはしただろう。この、理想の権化のような男を。
実際にはとんでもない男かもしれないけれど。
今の互いの立場では、残念ながら、それは出来ない。
でも、粉をかけるくらいはしてもいいじゃないか。もう二度と会うことのないかもしれない相手なのだから。
カリーナは、照れ隠しに、おどけたように肩をすくめ、微笑んで言った。
「あなたはやはり王子様でしたよ、将軍」
カリーナはすぐに、幼い頃に手にして離さなかった絵本の話をするつもりだった。帝国で有名な物語だという話だから、彼も知っているだろうと。
ところが。
将軍は突然眉を寄せ、険しい顔で彼女を見た。
彼がダンッと大きな音をたてて立ち上がる。
何が起こったか分からずに、動揺すまい、気圧されまいと思っても、自分よりも頭一つ分背の高い、大柄な男が放つ威圧感に思わず足が逃げようとする。
そのまま彼がこちらに向かってくるので、カリーナは後ろへ下がった。
途中、外から異常の有無を確認する声が聞こえたが彼が一言で黙らせた。
そして、ついに彼女の背中が壁につき、それ以上後ろに下がれなくなった時、彼が上からカリーナの目を覗き込んだ。
「なぜ、そなたが私の正体を知っている? ナシオ王国の間諜など、皇宮に入り込めもしないだろうに」
……え……?
カリーナは目を瞬いた。
どうやら、意図せずに、彼の正体とやらを言い当ててしまったらしい。自分が発した言葉で、彼の正体となり得るのは「王子」という言葉くらい。
カリーナは記憶をひっくり返して、帝国の皇子たちの情報を引っ張り出した。
皇太子である第一皇子ではあり得ない。
理由は知らないが、目の前の男が軍人として戦場に身を置いていて、さらには議会選挙から遠ざけられているとしたら。
それが本当ならば、大きな後ろ盾のある皇子とも思えない。
たしか、人前に滅多に姿を現さず、幽閉されているのではないかとさえ言われる皇子がいた……はずだ。
「第五……皇子、殿下……?」
彼はにやりと笑った。
「なんだ? フォイラー伯爵夫人。私はなぜ、そなたがそれを知っていたかと聞いている。答えよ」
あ、当たった。あまり自信はなかったのだけど。
カリーナは表情を崩さないように細心の注意を払った。
彼は完全に勘違いをして、明かすはずのなかった自らの正体を明かしてしまった。
それを指摘されたら、自分だったら恥ずかしくてもう二度と相手の顔を見られない。かもしれない。
でも、そんな彼の顔も見てみたい……。
「落ち着け」とエヴァンの声が聞こえた気がして、気を取り直す。
彼から少しでも情報を引き出す絶好の機会だ。それがあれば、交渉の材料にもなり得るし、今後も役に立つ。
「ナシオ王国の間者は、確かに帝都の中心部には入り込めますまい。しかし、私は独自の情報網を持っています」
適当なことを言ってしまった。関係のない誰かが罰せられたりしませんように。
「他にこの事を知る者は?」
「おりません」
当たり前だ。カリーナもたった今知ったのだから。
「あの、やたらと顔のいい男は? そなたの代わりに中央に座っていた」
「彼は副団長であり、私の腹心の部下です。ですが、彼も知りません」
目の前の将軍、いや第五皇子殿下は、考え事をするように顎をさすりながらカリーナの瞳を覗き込む。
カリーナが知っていると思ったのか、一部の皇族が彼を死地に追いやるために彼を軍に放り込んだのだと話し始めた。かなり過酷な状況だったろうに、彼は不敵に笑っている。
だが、彼が手柄をあげるようになると、彼の武勲を認めたくない人々は、第五皇子は病気がちで、離宮から出る事も叶わないのだと吹聴するようになったのだという。
つまり、手柄をたてているのは、第五皇子とは別人のマルス将軍であるという事にしたのだ。
「……それは、知りませんでした」
彼は、カリーナの髪を一房、優しく手に取った。
第一騎士団長のおっさんにそんな事をされたら、即座にその手を叩き落とすところだが、彼に対してはそんな事は微塵も思い浮かばなかった。
自分が無意識に頬を染めているのにも気づかなかった。
「欲しいな。そなたが」
……心臓が言う事をきかないので、そういうのはちょっと……。
「部下として」
ですよね。
「私は今の立場に甘んじるつもりはない。そなた、帝国の政治の惨状を知っているか?」
カリーナは、何とも言いようがなく、ただ彼の話を聞いた。
「私は何年もかけて信用のおける人間を探し、仲間、同士、味方、まあ呼び方は何でもいいが、そういう人間をこちら側に引き入れて来た。今の体制を覆すために」
カリーナは心配になって、彼を見上げた。それ以上、他国の人間に、信用できるかも分からない人間に、心の内を漏らすものではない。
「国の外までは手を伸ばせていなかったが、そなたならば、共に未来を描けそうではないか」
「なぜ、今日初めて会った私にそのような……」
「初めて会った気はしないよ、フォイラー伯爵夫人」
彼は、彼女のことを、しばらく前から調べさせていたと言った。彼が語った内容は軍事機密だった。それが他国に知られているのは、かなりまずい。
「帝国の未来に自分が関わるということに興味はないか? そなたは今の立場に満足をしているか?
聞くところによれば、ナシオ王国は停滞も甚だしい有様だとか。いくら豊かな土地であっても、干ばつに見舞われることもあろう。周辺国の状況が変わることも。
国王が腑抜けだと、緊急時に苦労するのは下の者だ。今のそなたのように」
カリーナはまったくその通りだと思ったが、ナシオ王国を出ることなど、今まで考えたこともなかった。
「人妻でなければ攫っていくところだ」
彼はそう言って、にやりと笑った。
ああ、彼はカリーナが結婚していて、愛する夫が国で彼女の帰りを待っていると思っている。
カリーナは迷った。夫がいると思わせておけば、彼はこれ以上の勧誘はして来ないのだろう。
しかし彼の言う通り、カリーナも現状に満足しているわけではない。
もし、国を出るとしたら……。
「私が伯爵家の当主です。夫はおりません」
彼は、驚いたように一瞬目を開いたが、すぐに深い笑みを浮かべた。
「なんだ。では、何の問題もないではないか」
彼は、手にしていたカリーナの髪を離すと、彼女の頬を指でゆっくりとなぞった。
「そなたは私の何になりたい?」
「は……何に?」
「敵か、部下か、同士か……何がいい?」
カリーナは戸惑っていた。自分が彼の何になれるというのだろう。敵対はしたくないし、こんな難しそうな男の部下になるのはもっと嫌だ。
いや、そもそも、何にもなる必要が……。
「そうだ。半身、というのはどうだろう?」
「……半身?」
「そう。運命を共にする。そんな存在に、そなたは相応しい」
え……。何で運命……?
彼はカリーナのあごに手をやると、唇のすぐ下を親指でなぞった。そして、その顔が妙に近い。
心臓に悪いから少し離れてくれないと……。
しかし、彼はさらに顔を近づけてきて、カリーナの唇に触れるか触れないかという距離で低くささやいた。
「私の全てをそなたにやろう。だから、そなたも私に全てを差し出せ」
あ、心臓止まった、とカリーナは思った。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。