8.絵本の中の王子様
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まだ五歳だったカリーナが手にしたその絵本の主人公は、とても強い王子様だった。
肩の辺りまである髪の毛をなびかせて、広い草原を馬で駆ける。その挿絵はカリーナの大のお気に入りだった。
剣の腕前もすごいし、もちろん力も強い。誰も敵わないくらい強い。
でもそれは、大変な思いをしながら、彼が勝ち取ったものだった。
カリーナは彼に憧れた。
その王子様はカリーナがなりたいと思う、理想の姿だった。
お父様のようになりたいけれど、女の子だから、とドレスしか着させてもらえない。
仕方ないのだと諭されても、それがなぜだか分からない。
大きくなったら何にでもなれると皆んな言うくせに、カリーナがお父様のような立派な騎士になりたいと言うと、それは無理だと言う。
でも、カリーナは諦めなかった。だって、絵本の中の王子様も諦めなかったから。
そして、なぜだか分からないけれど、幼い彼女は知っていた。
女の子にだって、なれないものは無いということを。
だからカリーナは、行商人から、男の子が着るような服を買った。
林に入って、剣にそっくりな、大きな木の枝を拾ってきた。
メイドが見ていない隙に、少し怖かったけれど、肩のあたりで髪にハサミを当てて、それをばっさりと切った。
王子様だって、すぐに彼になれたわけじゃない。しなければいけない事をしたから、あの王子様になれたのだ。
カリーナは、自分では完璧な騎士のつもりで、棒を振り回しながら皆んなの前に現れた。
お父様は目を見開いて立ち尽くし、叔母様もラミラ夫人も悲鳴をあげてカリーナに駆け寄った。
叔母様はなぜか泣いていた。
お父様と叔母様が話し合いを始めたので、カリーナはその部屋から連れ出されてしまった。きっと自分の話をしているのに。悔しくて、声を上げて泣いた。
カリーナを連れ出したラミラ夫人が、彼女にあたたかいミルクを入れてくれた。
そして、彼女が泣き止むと、「髪を綺麗に切り揃えましょう」と言って、髪を切る用のハサミがある事を教えてくれた。それでちゃんと切らないと、ギザギザになってしまうからと。
その夜、カリーナはお父様と叔母様と一緒に居間の暖炉の前に座っていた。
剣の練習はしていいけれど、これだけは約束して欲しいとお父様は言った。
棒ではなくて、きちんと練習用の剣を使うこと。そして、それは勝手に振り回してはダメで、お父様にきちんと剣の基本を教わること。
勝手に髪を切らないこと。ハサミで首を切ったらとても痛いから。それに、髪が長い騎士はいくらでもいるから。
それから、叔母様からお勉強をきちんと教わること。頭が良くなくては、騎士は仲間を守れないから。
カリーナはその約束を、絶対に守ると誓った。だって、そうやって誓いを守らない人はどんなに頑張っても騎士にはなれないとお父様が教えてくれたから。
カリーナはそれから、毎朝、ラミラ夫人に何度も起こされて、眠い目を擦りながら、でも絶対に遅刻はしないで、お父様に剣を教えてもらった。
あの王子様みたいに頑張った。
何回練習しても、全部が出来るようになるわけではなかったけれど、カリーナはそんな自分にも自信を持っていた。
きっと今も、王子様はカリーナと同じように頑張って、悪い奴をやっつけて、弱い人たちを助けているはずだから。
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カリーナは、距離が近くなるにつれ、はっきりと姿が見えるようになってきた、中央で青毛の美しい馬にまたがるその男に目を奪われた。
彼だ、とすぐに分かった。
マルス将軍だ。軍神の名に相応しい偉丈夫だった。この世界でその名が軍神を表さなかったとしても、それ以外に言いようがない。
彼はおそらく、カリーナよりもずっと背が高い。
すっと横に伸びた眉の形が美しく、その下の黒い瞳には、目が合った途端、射抜かれたような心地になった。
肩にかかるかどうかという長さの髪は、根本から毛先に行くに従って、明るさを増す。全体的には茶色に見えるが、毛先は金に輝いているように見える。
その威風堂々たる姿は、彼が皇帝だと言われても、誰もが納得するだろう風格がある。
彼はまさに、あの王子様のようだった。カリーナが幼い日に憧れた、絵本の中の王子様がそこにいた。
やがて、彼らと距離をおいて馬を止めたエヴァンが、カリーナの身代わりとして騎士団長としての名乗りを上げた。
それを、カリーナは目を伏せて、地面を見つめながら聞いていた。いつも通りだ、と思いながら。
しかし、視線を感じてふと目を上げた時、彼と目が合った。顔に熱が上がるのがわかり、慌てて、また目を伏せた。
砦の中は、カリーナが想像していたよりもずっと静かだった。彼らは、自分たちが思っていたよりも、ずっと少ない人数でここにいると確信をする。
さて、本当のところ、彼らの狙いは何なのか。あわよくば交渉の席で探りたい。
通されたのは、それほど大きくない、とはいえ砦の構造を考えれば大きい方だろう、横に長い部屋だった。
扉の正面には、奥と手前でそれぞれ五人づつ腰掛けられる重厚な机が置かれている。
更に奥にはソファセット見えるが、少し古ぼけて見える。窓の近くなのがいけない。あれでは日に焼けて色褪せてしまう。
そんな事を考えながら、エヴァンを団長の身代わりとして中央に座らせたカリーナは、エヴァンの左横に腰掛ける。
他の騎士たちは、皆後ろに立っている。
それは、あちらも似たようなもので、座っているのは、三人だけだった。
もちろん、中央にいるのはマルス将軍だ。
「交渉の機会をいただき感謝する。オルテガ王国の皆様もお喜びだろう。
マルス将軍とお呼びしてもよろしいか?」
エヴァンの言葉を訳しながら、カリーナは目の前の男たちの表情を窺う。
正面に見て、マルス将軍の右手に座るのは、将軍と同じか、僅かに大柄な、灰色の髪を短くした、やや年嵩の男だった。
左手にいるのは、まだ若く、引き締まった表情に薄く笑みを貼り付けた黒髪の青年だった。
どちらも、腕が立ちそうだ。
「お好きなように。伯爵。それとも、騎士団長とお呼びしようか」
マルス将軍の声は、低く、そしてよく響いた。
エヴァンも、好きに呼んでいただいて結構と言うと、早速本題に入った。
オルテガ王国の使者は追い返したのに、ナシオ王国軍に対しては、なぜそちらから交渉を持ちかけたのか、と。
もちろん、カリーナたちはそれを狙っていたのだが、だからと言って、素直に喜べる状況でもない。これから、おそらく非常に面倒な交渉の日々が待っている。
「なに、随分と大部隊を引き連れてお越しの様子。そうするのが礼儀かと思いましてな。オルテガ王国に泣きつかれましたか」
「我が国の王妃様はオルテガのご出身。その憂いをお晴らしするのが我らの務めでございます」
カリーナは、想定内の当たり障りのない会話を通訳しつつ、話しかける時にはマルス将軍の顔を見た。
なぜか目を逸らしたくなるのだが、目を見ないというのは礼儀に反するだろう。
そのマルス将軍は、始めの頃はエヴァンの目を見つつ、カリーナが訳する言葉に耳を傾けていたが、だんだんとカリーナを見る頻度が増え、ついには彼女に笑いかけながら話すようになった。
ああ、これはもうバレている。
カリーナが苦笑すると、マルス将軍はにやりと笑った。
カリーナはエヴァンの肩を叩いた。
「こちらも命令されたので、皆連れて来ざるを得なかったのです」
カリーナが自分から話すと、マルス将軍は満足そうに笑った。
「もう茶番は終わりかな? フォイラー伯爵夫人」
彼がカリーナを見ながらそう言うと、エヴァンがおもむろに立ち上がって、カリーナを守るように彼女のすぐ後ろに立った。
ああ、うっかりした。帝国の情報網を甘く見ていた。
いや、ナシオ王国などという地味な国の一騎士団長ごときを、帝国の高名な将軍が知っているなんて誰が思うだろうか。
「私の事をご存知とは思いませんで。失礼いたしました。いつも彼に騎士団長役をさせているのです。女だと侮られる事もありますので。けして他意はございません」
彼は、薄い笑みを浮かべながら、理解を示すように頷いた。
彼は、カリーナの噂が、にわかに帝国の社交界を賑わせているので、第三騎士団長が女性だという事を知っていたのだと説明してくれた。
きっと、ろくな噂ではないだろう。
数年前に帝国に嫁いだ令嬢の顔が浮かぶ。王妃にまとわりついて、媚を売っていたあの娘。確か公爵令嬢だった。帝国の侯爵家に嫁いだのだったか。
「それは、お耳汚しでございました。噂の出所に今思い当たりました。ろくな噂ではございませんでしょう」
「まあ、噂とはそんなもの。お気になさることはなかろう。して、伯爵夫人。私たちの交渉に関してだが、こちらにもいろいろ事情というものがある。申し訳ないが、二人きりで話がしたい」
「……分かりました。剣を預けろとは申されませんな?」
「もちろん」
「では、結構。人払いをいたしましょう」
カリーナは、反対の声を上げたエヴァンたちを片手を挙げて制した。
彼らの心配は分かるが、ここで拒んだら交渉決裂となりかねない。少なくとも次に繋げられなければ、余計に時間を食うことになる。
二人は、それぞれの部下が部屋を出ていく間、無言で互いを探るように見つめ合っていた。
つづく……
ここまでお読みくださり、ありがとうございます。