第八章 第三話
「大久保さん、すみません」
紘一は車を運転している大久保に謝った。
父、晃治の会社の手伝いをした帰りだった。
家を出る前から雲行きが怪しかったのだが降ったとしても大雨にはならないだろうと思って傘を持ってこなかったのだ。
案の定、帰る頃になって雨が降り出したが夕立だからすぐに止むだろうと思って玄関で待っていた。
『白雨』って言ったっけ、夕立の異称……。
そんな事を考えながら雨を眺めていたらバイトの大久保が車で送ると言ってくれたのでその申し出を受けたのである。
「気にしなくていいよ、社長には申し訳ないと思ってるし」
「え?」
「大分前に社長が正社員にならないかって言ってくれたんだけど断っちゃったんだ」
「父から大久保さんは作曲家目指してるって聞きましたけど」
確か大手音楽事務所に曲が採用されて有名なアイドルが歌う事になったと言っていたはずだ。
「それなのに正社員にならないかって言ったんですか?」
紘一の声に非難の色が混ざる。
作曲家を目指している人に正社員になれというのはお前には見込みがないと言っているのと同じだ。
「正社員に誘われたから作曲家になりたいって打ち明けたんだよ」
それまで曲を採用してもらえたのは一、二度だったので口幅ったくて作曲家などと名乗れなかったから黙っていたのだ。
しかし社長が働きぶりを認めてくれて正規社員にと申し出てくれたのに理由も言わずに断るのも悪いと思って作曲家志望だと告げた。
音楽の仕事が入ったらそっちを優先させたいから時間の融通が利くバイトでいたい、と。
すると社長――晃治は快く受け入れてくれて応援すると言ってくれたので今でもバイトを続けている。
その後、アイドルの曲に採用された時、もしかしたら作曲家としてやっていけるかもしれないし、そうなったらバイトは辞める事になるから早めに言っておいた方が良いだろうと晃治に報告してしまったのだ。
「夢のために頑張ってるなんてすごいですね」
「それは……どうかな。今はあのとき断ったの後悔してるんだ」
「え? だって曲が採用されたんですよね?」
「それ、二年前の話だよ」
大久保が前を見ながら苦笑した。
ずっと鳴かず飛ばずだったのが、これでようやく芽が出るかと思ったが、結局採用されたのはその一曲だけで相変わらずバイトでなんとか食いつないでいると言う状況は変わってない。
それが二十六の時で今は二十八。
あと二年弱で三十になるのに未だに何者にもなれていない。
「夢って……呪いにもなるよ」
「そうなの?」
「例えば医者や弁護士は試験に受かればほぼ確実なんだろ? そりゃ、試験が難しいって話は聞いてるけど……」
合格基準が決まっているならクリア出来るかどうか自分である程度判断出来る。
模試などの点数を見て無理そうだから諦めるという選択もしやすいだろう。
「作曲家にはそういうの無いから……」
大久保はそう言って一旦口を噤んだ。
「学生時代の友達はほとんど結婚して子供までいるし、なんなら就職して金貯めて起業して社長になったヤツまでいる。それに比べて俺は未だにバイト暮らしで結婚も出来ない」
「……結婚したい人がいるの?」
「結婚したくなったかどうかは分からない」
振られたから、と大久保は言った。
それが一年ほど前らしい。
「あの時、正社員になってれば、結婚して子供もいたかも……他の人達みたいに」
大久保がそう言った時、車が紘一の家の前に着いた。
次の日の朝、紘彬達は暴力団事務所の入っているビルの前に来ていた。
「こちら、配置が終わりました」
裏口にいる警察官から連絡が入った。
「よし、いくぞ」
団藤の合図で警察官達がビルに入っていった。
警察官が突入すると男達が浮き足立った。
「遠藤さん、逃げて下さい!」
男の一人がそう言うと長いナイフを振り回した。
警察官達が一斉に避ける。
「桜井、頼んだ!」
団藤も後退しながら言った。
紘彬は腰の後ろに隠してあった特殊警棒を取り出すとナイフを弾いた。
男はすぐにナイフを手元に引くと姿勢を低くして紘彬に突進してきた。
どうやら場慣れしているらしい。
紘彬が手首を狙って警棒を振り下ろしたが、男は警棒を躱してナイフを突き出した。
ナイフを避けながら警棒で上からナイフの峰を叩く。
男は咄嗟にナイフを下に降ろすことで警棒の衝撃を殺すと、刃を上に向けて斬り上げた。
紘彬が体を開いてナイフを躱す。
男が更に踏み込んでナイフを振る。
紘彬がもう一歩下がる。
入口から紘彬が退くと遠藤と呼ばれた男が部屋の外に向かって駆け出した。
ドアの外で待ち構えていた如月が遠藤に飛び付いて取り押さえる。
ナイフ男が一瞬、遠藤に気を取られた。
その隙に紘彬は一歩踏み込むと警棒で男の手首を強打する。
「ぐっ!」
男の手からナイフが落ちる。
その瞬間、周囲の巡査達が男に飛び掛かった。
「よし、俺の仕事は終わったな」
「これから家宅捜索です!」
如月の突っ込みに帰る気でいた紘彬が肩を落とした。