第六章 第一話
第六章 涙雨
紘彬は杉田と共に田中陽平の家を再訪した。
如月も団藤の指示で同行した。
口実としては田中陽平夫妻の様子の見落としがないようにと言う事になっているが、杉田では紘彬を押さえられないからなのは容易に想像が付く。
紘彬が空気を読まない不謹慎発言をしないようにするためのお目付役なのは明らかだ。
あらかじめ連絡をしていたらしい。
杉田がチャイムを鳴らすとすぐに田中陽平の妻、昌子が玄関のドアを開けた。
「杉田さん、娘の事でご足労を……」
昌子はそこまで言って紘彬と如月が杉田の後ろに立っているのに気付くと口を噤んだ。
「どうして刑事さん達が……」
「あ、彼は医学に詳しいのでDNA鑑定の専門的な質問に答えられるように一緒に来てもらいました」
昌子は鑑定に関する技術的な質問をする気はない、と言いたげな表情を浮かべたが、それでも杉田と共に紘彬達も中に通した。
リビングで田中陽平夫妻と杉田、紘彬、如月がソファに座った。
「尚子が見付かったと聞きましたが」
陽平の問いに杉田は失踪届が出された日の晩に起きた火事の焼け跡から見付かった焼死体がDNA鑑定結果の尚子だと判明したと告げた。
「当時もDNA鑑定はあったでしょう。なぜ今になって……」
「ご遺体がAB型で……AB型とO型のご夫妻のお子さんのはずがないという思い込みで……」
「そう思い込んでたのに今頃再鑑定した理由はなんなんですか?」
「それは……」
先輩に逆らえなかったとは答え辛い杉田が言い淀む。
「技術が進歩して以前は鑑定に使えなかったものが使えるようになったからです」
紘彬が代わりに返答してロシア皇帝の話をした。
「ニコライ二世は来日した時、警察官に斬り付けられてケガをしました」
大津事件と呼ばれる日本を揺るがした大事件である。
そのときニコライ二世の着ていたシャツや手当に使われた布など血痕が付いているものが博物館などに保管されていた。
にも関わらずミトコンドリアDNAで鑑定したのは九十年代の技術では布に付いた血痕ではDNA鑑定が出来なかったからだ。
「しかし二〇〇七年に、未発見だったニコライ二世の子供らしき遺体が発見された時はシャツに残っていた血痕からDNAを採取して親子鑑定することが出来ました」
紘彬がそう言うと陽平は納得したようだった。
九十年代の時はニコライ二世の五人の子供達のうち二人の遺体は発見されていなかったため、未発見の息子と娘は生きているのではないかと世界的な噂になり、皇帝の息子や娘を自称する人がいたりフィクション作品がいくつも作られていて有名だったから聞いた事があったのだろう。
「仮に血が繋がっていなかったとしても部屋で採取したDNAと一致すれば娘さんという事ですから」
まともなことも言えるのになんで空気読まない発言するのかな……。
如月は紘彬を横目で見た。
数日前に鑑識が娘の部屋を隈なく探し回っていたからか、陽平は紘彬の説明に納得した表情を浮かべた。
「犯人は分かっているんですか?」
「身元が分からなかったから逮捕されてもこちらに連絡が無かっただけという事は……」
田中夫妻が捜査について矢継ぎ早に訊ねてきた。
杉田がしどろもどろに答えている。
火災は間違いなく失火で、ビルに入っていたテナントやオフィスの関係者に聞いても周囲に行方不明者はいなかった。
火事ともビルとも関係ない上に、遺体は燃えてしまっていて他殺と断定出来るだけの痕跡は残っておらず、不審な点は火事が起きる前に死んでいたと言うことだけだ。
着衣が焼失し、持ち物も見付からないとなると手懸かりを探すのは困難を極める。
そのため新しい事件が起きる度に優先度が下がっていき、その結果、今に至るまで未解決だった。
杉田と田中夫妻が話している間に、紘彬は部屋の中を見回して前回来た時に引っ掛かったものに気付いた。
棚に置いてある写真立てに入った白黒写真だ。
立ち上がって棚の前に行くと写真立てを見下ろした。
如月も隣に行って写真に覗き込む。
若い男性と赤ん坊を抱いている若い女性と五歳くらいの子供が写っている。
背後に古い建物が建っていて看板に『峰ヶ崎』と書いてあった。
『崎』から後は見切れてしまっていて何の会社かは分からない。
この写真、なんか見覚えがあるような……。
如月は首を傾げた。
「これは?」
紘彬が写真を指して陽平に訊ねた。
「政夫が生まれた時に私の会社の前で撮った写真です」
陽平の意識が尚子から逸れた事で杉田がホッとした表情を浮かべる。
「なら赤ちゃんが政夫さんで、この男の子が剛さんですか」
「ええ」
「社名って自分の名字を付けるとは限らないんですね。命名の決まりとかあるんですか?」
「いや、うちの社名は創業者の名字ですよ。前社長が亡くなった後、私が引き継いだんです」
「うちは武士の家系だったので跡継ぎは自分の子なんですけど、商社は子供が継ぐとは限らないんですね」
紘彬が写真を見詰めたまま言った。
「それは会社によりますけど、うちの場合は前社長の奥さんが儂に任せると言ってくれて……」
「会社のことをよく知ってる田中さんにお願いしたんですね」
「ええ、まぁ」
田中が照れくさそうに頭を掻いたが紘彬は写真から目を離さなかったので見ていなかった。