第一章 第二話
「桜井」
団藤が声を掛けた。
「はいはい」
紘彬が通路に出て男の進路上に立つ。
男は持っていたドライバーを横に薙いだ。
紘彬が避けると思ったのだろう。
だが紘彬はその腕を掴んで受け止めると襟を掴んで背負い投げを掛けた。
次の瞬間、男は床に倒れていた。
男が床に頭をぶつけないように紘彬が襟を掴んでいたので意識ははっきりしたままだ。
一瞬で視界が天井に変わってしまったことに理解が追い付かない様子で呆然とした表情を浮かべている。
紘彬は腕に力を入れて男の手からドライバーを手放させると俯せにして腕を後ろに回させた。
そのままもう一方の手で男の背を軽く押さえて動きを抑える。
紘彬は近付いてきた制服警官と交代するとその場を離れた。
「桜井警部補! 手錠を……」
男を抑えながらそう言った警察官に、
「任せる。報告書頼んだ」
紘彬は遮って背を向けた。
「え、いや……」
巡査が戸惑ったような表情を浮かべる。
「桜井さん、手錠はともかく報告書任せるのは無理ですよ」
「報告書くらいケチケチすんなよ」
「お前こそ報告書の手間を惜しむな!」
団藤に叱られた紘彬が顔を顰めた。
「放っとけば良かった……」
「見逃したりしたら始末書です」
如月の言葉に紘彬が面倒くさそうな表情を浮かべた。
「お役所ってホントに書類が多いよなぁ」
「そこは人権とか色々ありますので……」
如月が宥めるように言った。
紘彬は口では文句を言っていても毎回報告書も始末書もきちんと書いている。
もっとも、普通なら始末書を書く機会などまずないのだが……。
「あ、殺人犯はそいつじゃないから、なんで逃げようとしたのかしっかり聞いとけよ」
紘彬が男を立たせた警察官に声を掛けた。
全員が驚いたように紘彬の方を振り向く。
男まで目を丸くしている。
まさか自分を捕まえた刑事に「犯人ではない」と言われるとは思わなかったのだろう。
「根拠は?」
団藤の言葉に紘彬は男の側に戻った。
「拳に傷がない」
紘彬が後ろ手に回された男の手首を掴んで如月達に手の甲を見せた。
「遺体は歯や頬骨が折れてる。拳でこれだけ殴ったら無傷では済まないからな」
「よくTVとかで拳にハンカチとか巻いてるっスけど……」
佐久巡査部長が言った。
「ハンカチを巻いてればこんなにはっきりとした拳の痕は付かない」
紘彬は遺体の側に戻ってきて痣を指した。
「それに殺されてから時間が経ってる。犯人が未だにこんなところにいるわけないだろ。第一、ドライバー持っててなんで素手で殴るんだよ。殺したいならドライバーで刺した方が確実だろ」
証拠品袋に入ったドライバーに全員の視線が集中した。
「そう言えば最近車上荒らしが相次いで……」
男に手錠を掛けた巡査が言った。
「すごいじゃないか! 車上荒らしを捕まえたなんてお手柄だったな!」
紘彬が満面の笑みを浮かべて警察官の肩を叩いた。
「は?」
巡査が目を丸くする。
連続車上荒らし逮捕の報告書を押し付けたって事か……。
如月は苦笑いを浮かべながら面食らった様子の警察官に視線を向けた。
まぁ警察官の方は報告書だけで手柄を貰えたのだからラッキーと言えばラッキーだろうが。
夕方、高校帰りの藤崎紘一はクラスメイトの佐藤と高田馬場駅前のロータリーを歩いていた。
佐藤は中国史に興味があって史書を原文で読めるようになりたいと漢文の勉強をしているらしい。
「……そこで陳勝が『燕雀安んぞ鴻鵠の志を知らんや』、ヒバリやスズメみたいな小鳥に高い空を舞っている大きな鳥の志は分からないって言って……」
紘一には中国の歴史の話はさっぱり分からないが、楽しそうに『史記』の内容を語っている佐藤は輝いて見えた。
紘一には夢もやりたい事もない。
興味の対象すらない。
夢中になれるほど好きなものがある佐藤を羨ましく思いながら話を聞いていた。
不意にすぐ側で悲鳴が上がり反射的にそちらを向いた。
離れた路上に人が倒れている。
その方向から男が走ってくる。
見ると他にも別の方向に走っている男が何人かいた。
男の一人が二人組の女の子の方に向かっている。
いや、三人組だ。
女の子の一人が逃げるように男とは逆の方向に離れていく。
残った二人は立ち竦んでいるようだった。
周囲の人達も悲鳴を上げながら逃げていく。
何事かと思った時、
「どけ!」
女の子に叫んだ男が手を振り上げた。
男の手の先で何かが光を反射した。
ナイフだ!
ピンクの上着を着た女の子に振り下ろそうとしている。
少女は身動き一つ出来ないままナイフを見詰めていた。
紘一は咄嗟に駆け寄ると男の腕を鞄で払う。
あと少しで切っ先が女の子に届く、と言うところでナイフが逸れた。
紘一が少女を庇うように男との間に割って入ったが、そんなことをするまでもなく男は走り去っていった。
進路上に立っている少女をどかせたかっただけらしい。
続いて背後から駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
振り返ると近くの派出所の制服警官達が走ってくるところだった。