クリスマスには愛するひとと
その十二月終わりの土曜日、ネルはいつものように自宅でタティングレースのクラスを開いている筈だった。
ネルは年が明ければ二十五歳で、今のところは独身だ。火曜と木曜以外の曜日にはレース編みのクラスを自宅で開いていた。恋人は居ないし、一度ひどい失敗をしてから結婚をするつもりもない。
彼女の目の前にはそのひどい失敗に関わるひとが居た。もと夫のビオンだ。
ギリシャにルーツのある彼は、オリーブ色の滑らかな肌と糖蜜のような瞳、恵まれた体躯、女でも喉から手が出る程ほしいみたいな形のいい眉と、びっしりと生えそろった睫毛、それにいつだって満足そうに見える完璧な唇も持ち合わせている。
ネルは彼と大学で出会い、恋に落ちた。彼もネルを好きになり、ふたりは性急に事を進めた……出会って一年足らずで結婚したのだ。
しかしその一年後、彼女は自分の間違いに気付いた。そして、彼に別れを告げた。
「僕と話をする気は?」
「不愉快な話題でないなら」
ネルは肩をすくめ、湯気のたつマグを彼の前へ置いた。「ありがとう」
「3ドル」
「カードはつかえる?」
つい、笑いそうになり、ネルはわざとしかめ面をつくる。
彼女のコンドミニアムは快適に調えられていた。ひとり暮らしには少々大きいクリスマスツリーが鎮座しているが、明日まではクラス後にささやかなパーティを催す予定だ。シャトルやめずらしい編み図など、生徒へのプレゼントも用意して、ツリーの下に置いてある。
リビングとキッチンの間にはカウンタがあり、数週間かけてあみあげたオレンジ色のドイリーを敷いてあった。かなり細い糸をつかって、頭のなかのものを現実へ生み出そうと試行錯誤しながらあみあげたものだ。まだ彼と婚姻関係にあった頃に。
「こんな日に、なんの用」
彼はくいっと肩をすくめた。ネルは少しだけひびがはいっているマグでコーヒーをすする。
今朝、目を覚ましてTVの電源をいれ、街が雪で閉ざされつつあるとネルは知った。午前と午后で二回のクラスがある筈だったが、危険を考えてネルは生徒達に連絡をとり、中止を伝えた。生徒のなかにはネルへのクリスマスプレゼントを用意していたひとも居て、それを報された彼女は、また次の機会に、とこそばゆいような気持ちで電話を切った。
その時に彼がやってきたのだ。
ビオンは豊かな髪や、詰めものを必要としない肩に雪をつもらせ、その唇は色を失っていた。ネルはもと夫の突然の訪問に驚いたもの、追い返して彼が凍死するのはいやで、仕方なく招きいれた。
実際のところ、彼女の部屋は離婚に際しての慰謝料としてもらったもののひとつで、もとは彼の財産だと思うと、つめたくはできなかった。
だが、一時間もするとビオンの顔色はよくなり、ネルは落ち着かない気分にさせられている。
「あたたまったら帰って頂戴」
「つめたいね」
「わたしがあなたに優しくしなくちゃならないって義務でもあるのかしら?」
「夫婦じゃないか」
「夫婦だった、でしょう」
彼はかすかに頭を振る。
「そのことで会いに来たんだ。やりなおそう、ネル」
まるで彼女が断る訳がないと思っているような云いかたに、ネルはかちんときた。「いいえ」
「どうしてだ、ネル?」
「どうしても」
「君が子どもをきらっているから? 避妊薬を服んでいたらしいね」
ネルは云い返そうと口を開いたが、しかし声を出すのは辞めた。きつく唇を嚙む。彼に云うべきではない。
ビオンはネルの反応を、自分の言葉が正鵠を射たからだと考えたらしい。
「ネル、僕も考えた。子どもを得ることだけが結婚の目的じゃない。君がいやなら、子どもは居なくてもいい。どうしても必要になったら、いとこに」
「この話題は不愉快だわ」
ネルはそう云って、彼に背を向けた。まだ中身がたっぷりはいっているマグを、流しへ置く。手が震えていて、大きな音がする。
「ネル」
ビオンが立った気配がする。今、傍に来られたくない。ネルはそちらを見ずに云う。「帰って。お願い。あなたと、あの間違った結婚について話すつもりはないの。ごめんなさい」
彼はしばらくたたずんでいたが、あしおとがゆっくりと遠ざかっていった。ネルはほっと息を吐き、その場へ座りこむ。頭のなかでは、彼の妻だった頃に耳にしたこと、云われたこと、彼女の身に起こったことがぐるぐるとまわっている。
「ネル」
驚いて顔を上げると、鼻を赤くしたビオンが立っていた。「帰れそうにない。吹雪がやむまで、ここに居てもいいかな」
時計の秒針がかちかちとすすんでいく。
ビオンは窓から外を見、すぐにカーテンをひいた。「酷い雪だ」
「これ、どうぞ」
「ありがとう……」
ネルはかぎ針あみでつくったウールのブランケットを、彼の肩にかけた。今まで火をいれたことのなかった暖炉では、ぱちぱちと薪が音をたてている。彼女は暖炉をつかえる状態にしてくれていた管理人に感謝した。特に、空調がおかしくなって、部屋の温度が急激にさがりはじめたともなれば。
ビオンは自然にネルをエスコートし、ソファへ座らせる。そのまま、彼はネルの隣へ座った。ブランケットに包み込まれる。ネルは随分、厚着していた。ビオンにもなにか服を渡したかったが、一番大きなコートでも彼には窮屈な代物だった。やっと見付けたのがブランケットだ。
寄り添っていると、昔に戻ったようだ。ネルは自然と喋っている。
「暖炉があって助かったわ」
「ああ」
「わたし、あれを前時代的なものだと思ってたのよ。実用的だとは考えていなかった」
彼がくすっとする。ネルはそれに喜びを感じた。こんなふうになんでもない話をして、それだけでよかったのに。「ねえ、ビオン」
「ああ」
「……なんでもないわ」
どちらも黙り、しばらくして、ビオンがおどけて云った。
「男ものの服がないってことは、まだ僕にも可能性があると思っていいのかな」
「どうかしら」ネルは溜め息を吐いた。「結婚そのものにこりごりってことかもしれないでしょ」
目を覚ます。ネルはブランケットにくるまり、ソファに横になっていた。キッチンから、ビオンがマグを手にやってくる。「5ドル」
「同じ豆なのに」
「いいバリスタなんだ」
マグをうけとった。彼が隣に座り、ネルは自然に、それへ寄りかかる。「ネル」
「なあに?」
「酷くうなされていたよ」
冷水をかけられたような気がして、ネルははっと、彼から体をはなした。「わたし、なにか云った?」
彼の表情は読めない。ネルは焦りと、気分の悪さを感じた。
「わたし、……あの、寝言よ。気にしないで」
「いや。教えてくれ。母さんとなにかあったのか?」
ネルは喘ぎ、頭を振ろうとしたがうまくいかず、結局頷いた。
「わたしがばかだったの」
思い出すと吐き気がする。ネルの震える手からマグをとりあげ、ビオンはそれをクラス用のテーブルへ置いて戻ってきた。
「あなたと結婚すべきじゃなかった」
「それは、離婚の時にも聴いた言葉だ」
彼の声を沈んでいる。ネルはにじんだ涙を、指先で拭った。
彼の家は、祖父の代に大きな財を築いた、上流階級だ。ネルはごく一般的な家庭で育った。そこがまず、彼の家族にきらわれた。
ネルは頑張って、彼の家族に気にいられようとした。マナー、家事、数え切れないくらい居る彼の親族の顔と名前、それらを覚えた。子どもを望む彼の父母からのプレッシャに耐えた。食事が咽を通らなくなるほどに。
そしてあのクリスマス、子どもをつくるなと宣告されたのだ。
「子どもをつくるな……? どうしてだ? 父さんも母さんも、孫を楽しみにしてた」
「彼らが望むのは完璧な赤ん坊よ。あなたやあなたの親族に似た」
「ネル」
「あなたには話していたわよね? わたしの家系に吃音が多いことを。わたしの姉が吃音で……」
彼は口を開け、しばらく不快そうに喘いだ。
「まさか、それで?」
「いずれ家を継ぐ子よ。あなたのご両親は、きちんと喋れない孫を必要としていないの」
喋っているうちに怒りと悔しさが戻ってきた。これだけは彼の耳にいれまいと思っていたのに、ついに云ってしまった、と思うと、もう停まらない。
「彼らは吃音に対して、知能に問題があるというようなことを云ったわ。まともに勉強ができないと。だから子どもは要らないのですって。あなたのいとこの子どもをもらう計画をたてていたわ」
「そんな」
「不思議なのはね、ビオン? あなたの問題なく喋れるご両親が正しいとしたら、姉が高校の頃に弁論大会で優勝したのがおかしいってことなの」
姉への侮辱は口にできず、ネルは泣き崩れた。
「とりみだしてごめんなさい」
「いや」
顔を洗ったネルは、窓から外を見た。雪は、とりあえずはやんだようだ。ビオンが沈んだ声で云う。「君が、こんなに時間が経ってもまだ、うなされるほど」
「ビオン、その話はもうやめましょう」
ネルは振り向いて、彼へ微笑みかけた。
「わたし達、少なくとも結婚前はしあわせだったじゃない? だから、それでよしとしましょ。あなたはご家族のお眼鏡にかなう奥さんをもらえばいい」
「君は?」彼は鋭く云う。「君のしあわせはどうなんだ、ネル」
「さあ」
ネルは頭を振る。
彼は出て行ってしまった。怒ったように。或いは傷付いたように。
翌日、雪は完全にやみ、ネルはいつもの生徒達の手許を見てまわっていた。日曜午后のクラスは女性、それも年配ばかりで、皆、老眼鏡越しに手許と編み図を交互に見つつ、太めの糸で簡単なモチーフをあんでいる。
「ここ、表目がとんでしまっています、ミセス・ケリー」
「あら、まあ」
そろそろ八十歳になる、ネルの生徒のなかでも一番歳上のミセス・ケリーは、老眼鏡の位置を調整しながらくすくす笑った。「もうだいぶあんでしまってるわ。諦めましょ。人生、諦めるのも重要だもの」
「そんなことありませんよ。解いてさしあげます」
ミセス・ケリーの手から作品をうけとり、ネルは頑丈なコットンの糸を解いていった。シャトルをすいすいと動かす。
「はい、これで大丈夫です」
「ありがとう、ミス。あなたは粘り強いひとだわ」
ミセス・ケリーは満足そうに云い、作業を再開した。
クラスが終わり、生徒達が荷物をまとめた。ネルは仕込んでおいたミートローフをカットし、マッシュポテトと一緒にテーブルへ運んでいく。本当なら七面鳥を用意したかったが、予算の問題がある。
生徒達が持ち寄った食糧も並べられた。てづくりに慣れている世代だ。自家製シュトーレンまでとびだし、随分豪華なクリスマスディナーになった。
「どうせ、家に戻ってもひとりだし」ミス・トラートが、シードルいりのグラスを掲げた。「独り身の女達に乾杯!」
生徒達がくすくす笑いながら追随した。
ノックの音が響いたのは、生徒達にラッピングされたシャトルを渡したくらいだ。誰かしら、とミセス・ケリーが云う。ネルは肩をすくめながら、玄関へ向かった。
「……ビオン」
「やあ」
ビオンは大きな紙箱と、ワインの壜を抱えていた。「僕もまぜてもらえる?」
もと夫だと説明すると、生徒達は色めき立った。瞬く間に「用事を思い出し」て、それぞれあたらしいシャトルなどを手に嬉しそうに出て行く。ミセス・ケリーが、あなたは諦めないひとよ、と念を押すように囁いていった。
扉が閉まる。
ネルはビオンを見上げ、かろうじてミートローフが幾らか残っているテーブルを示した。「インゲンいりだけど、食べる?」
「今、インゲンが大好物になったよ」
紙箱の中身は七面鳥の丸焼きだった。彼は優雅な手付きでそれをとりわけてくれる。先程はショールでわからなかったが、顎に切り傷がある。「素敵なメイクね」
「父さんとやりあった」
眉を上げる。
「君と、君の家族に対する侮辱を、償わせようと思ったんだ」彼は肩をすくめる。「勘当だってさ。僕が事業のほとんどをうけもってるのに」
「もう一回裏目をあんで、そうしたら表目を」
「ねじれたみたいになったよ」
「そういうふうにあむ為の技法よ」
彼は楽しそうにシャトルを動かし、糸をひく。ネルはテーブルに頬杖をついて、それを眺めている。
「これをあみおえたら、結婚してくれる?」
「どうかしら」
ネルは先程、特別細い糸をまきつけたばかりのシャトルをとりあげる。「なにをつくるの?」
「ヴェールを……もしもに備えて」
彼は満足そうに微笑んだ。
もうすぐ、あたらしい年がやってくる。