自動再生
朝、四時。
私は、真っ暗な部屋の電気をつけて、着替えをする。
極力音を立てないように、静かに着替えを済ませて、足音を立てずにキッチンへと向かう。
今から、五時に目を覚ます母親の朝食の準備をしなければならないのだ。
母親は毎食必ず炊きたてのご飯を食べる。
五時に目を覚まし、トイレを済ませて食卓についた時に湯気の立ち上るご飯がないと…怒られてしまう。
いい年をして、母親に怒られるのは、非常に…気が、滅入る。
極力、母親は怒らせないに限るのだ。
昨日の夜のうちに計っておいた二合の無洗米をボウルの中にそっとあけ、ミネラルウォーターを注いで炊飯器にかける。
母親は、神経質なところがあるので…前日の夜に米を水につけておくことを許さない。
昔、前日に炊飯予約をしたら、水が腐ってひどく腹を壊したのだそうだ。
そのたった一度の記憶が、米を炊くのは食事の一時間前、水につけることをしてはならないというルールを生んだ。
米の準備をしたあとは、味噌汁を作る。
煮干を三匹、はらわたを取って、昆布と一緒にお湯で煮る。
だしや鰹節は使ってはならないのがルールだ。
具は小口切りのネギと何か。
ジャガイモだったり、豆腐だったり、えのきだったり、わかめだったり、油揚げだったり。
ネギ以外に一種類を入れることになっている。
神経質な母親は、朝晩二回作る味噌汁に、二回続けて同じ具が入ることを嫌う。
……今日は、ひとつ残っていたジャガイモを使おう。
冷蔵庫横の野菜置き場から大ぶりのジャガイモを持って来て、シンクに向かった。
…ごごとンッ!!!
しまった、ジャガイモをシンクに置こうとしたら、滑ってしまって…!
慌てて拾い上げ、ゆでているだしの鍋から煮干と昆布を取り出す。
「朝からうるさいねえ!!目が覚めただろうがっ!!!アーアー、眠りが浅くなってるのに無理やり起こされた!どうせ今日一日睡眠不足でぼんやり過ごすことになるんだよ!!ホント気分が悪い目覚めだよ!!」
ああ…母親が起きてしまった。私の平穏な時間が、終わってしまった。
「ゴメンね、おはよう、ご飯できるまであと30分くらいあるから、ベッドで横になっていたら
「目が覚めたのに横になッとれるかっ!!あんたは自堕落だからそういうことができるんだろうけどね、わしは勤勉だからそういう怠けたことはできないんだよ!いいねえ性根の腐ってる人間は!ホント楽だろうねえ、気楽な人生送ってるやつがうらやましくてしょうがないわ!!」」
母親は怒鳴り散らしながら洗面所に行ってしまった。いくら老いて軽くなった体重とはいえ、あまり怒り任せに歩き回ると…下の階の人に迷惑がかかっているんじゃないかと、気が気じゃない。
……これ以上、母親を興奮させないようにしないと。
電動ポットに水を入れ、朝のお茶がすぐに作れるように急いで準備を整えつつ、味噌を出汁の中に入れ、ネギとわかめを投入する。平行して納豆を小鉢に入れて、卵焼きの準備をし、漬物を刻んで皿にのせ、焼き海苔のビンをテーブルの上に置く。
「あーあー、寒いねえ、こんな寒いところでわしを待たせるつもりか!どうせわしを凍えさせて早く死ねばいいとおもってるんだろう!怖い子だよ!何でこんな恐ろしい子になったかねえ!わしはいつもあんたのことばかり考えて自分を殺して生きてきたのにねえ!あんたはわしを殺そうとするんだもんねえ!」
初冬のキッチン横のリビングは、ずいぶん冷え込む。いつもならばご飯が炊き上がる十分前にエアコンを入れるのだが、今日は予想外に母親が早く起床してしまった為、まだ何も準備がしてなかった。
「ごめんね、今…エアコン入れたばかりだから、暖まるまでもう少しかかるよ。向こうのコタツで温まっていてもらっていいかな、ファンヒーターもつける?風邪引いちゃうと大変だから私の半纏を着て
「ふん!!どうせ風邪引かせてわしを殺す気なんだろうが!わざとらしく自分の着てるもん被せてもお見通しなんだよ!あんたの考えそうなことだよ!頭が悪いねえ、すぐバレるんだよあんたの考えてることなんか!」」
私の半纏を着て、椅子に腰掛けてしまった。味付け海苔をビンから出して、つまんで食べている。……残り少なかったから、足りなくなりそうだ。
「もう海苔がないじゃないか!!わしのおかずがないだろうが!!どうせ飢え死にすりゃいいと思ってるんだろう!!老い先短いんだこっちは!!食うもんぐらいちゃんと用意してくれなきゃ困るね!!朝飯はてんぷらがいいわ、今から作って!!気が利かないんだからそれぐらいすぐにやれ!!」
油は一応ある。しかし、母親が好きな海苔も無ければシソもない、サツマイモもないしえびもホタテもイカもない。中途半端に作っても、怒りが増すだけだと思うのだが。
「でも…今から油温めるとご飯が遅くなっちゃうし、たまねぎとにんじん、ちくわぐらいしか材料がなくて
「あんたは本当にどうしようもないね!常に何があってもいいように準備をしておけといつも言ってるのに!いつも割を食うのはわしばっかなんだよ!こんな気の毒な年寄り、世界中探してもどこにもおらんわ!!食いたいもんも食わせてもらえない、世界一不幸な年寄りだよ!!」」
……ふふ。
何を言っても、全部否定で返される。
何を言っても、全部気に入らない。
何を言っても、全部私が悪い。
……ああ、そろそろ…出ちゃうかな?
「滋養強壮つけとかないといつあんたに殺されるか分かったもんじゃない!逃げ出せるだけの力を溜めとかなきゃいかんのに!年寄りは栄養たっぷり取らないといかんのに!仕方がないから我慢してやる、なんでもいいからあるもんで作れ!朝から気分が悪いわ!ふん!!!」
母親が、私が準備したポットからお湯を出して、お茶を入れている。熱いお茶を飲んで、落ち着いてくれれば、いいんだけれど。
そんなことを思いながら…天ぷら粉を水で溶く。
今、この体を動かしているのは……思いやりのある私かな?
それとも、親孝行したい私……?
ひょっとしたら、企んでる私の可能性も、あるかも?
この体を動かしているのが誰であるのかさえ、わかんなくなって来ちゃったなあ……。
「ふふ……。」
「気持ち悪い子だよ!何がおかしいんだ!しけた顔しやがって!狂ったふりでもしてんのか、そんなの無駄だよ!ばかばかしい!あんたは昔から大げさで演技ばかりして本当にしちめんどくさい子で……!年取っても全然変わっちゃいない、不気味な子だよ!!」
……ああ、そろそろ。
自動的に、決まりきったセリフが、流れ出す頃かな……?
「お母さんは元気があっていいなって思ったら、微笑がもれちゃったの、うらやましいよ、私はクスリが手放せないくらいひ弱だから……。お母さん、私できる限り親孝行するから、いつまでも、元気で長生き、してね?」
「あんたみたいな出来損ないの娘がいる限りわしは長生きなんかできんわ!」
「お母さん、私の1280円の半纏じゃちょっと寒いでしょう、お母さん用の半纏出しておくね。安心してね、毛玉もちゃんととってあるよ、みすぼらしい格好をさせたりしないから。」
「ふん!毛玉はしまう前に取っておくのは当たり前のことだわ!毛玉ができたら買い替え時だって分からんのか!古いもん着せて心の中で笑っているんだろう、薄汚いことばっか考えやがって!」
「お母さん、すごく頭の回転が速いよね、記憶力もばっちりだし、すごいね、私昨日の出来事もあまりよくおぼえてないよ。お母さんから生まれたはずなのに、何で私はこんなにもの覚えが悪いのかなあ、悲しくなっちゃう、人間の出来が違うんだね。」
「お前は頭の悪い父親似だよ!あいつはろくでもない頭の悪いクソガキでいつもわしばかり泣かされて!あんたはずっと子供だから何も知らずにのほほんと生きてきたかもしれないけどね、あいつのせいでわしがどれほど苦労したことか!あーあー、わしは何であんなやつと一緒になったんだ、何でこんな子供しか産めなかったんだ!!大失敗だよ!!」
「私にとっては自慢のお母さんだよ、こんな出来の悪い私を見放さないで一緒に暮らしてくれてるんだもん、感謝しか出来ないよ。」
「感謝の言葉の意味も知らん馬鹿たれが上っ面で口を開くんじゃないよ!お前なんか何一つ分かっちゃいない、本当に感謝しているなら、こんなにわしを怒らせるようなことしないはずだわ!わしが腹を立てて苦しんで生きている、それはすべてお前のせいだ!お前がいなければ今頃わしは幸せに暮らしていたはずなんだよ!」
「お母さんがいてくれてよかった、私一人じゃないって安心できるの。」
「お前がいるせいで私の人生はめちゃめちゃだよ!どれほどわしが注意しても何一つ従わなかったじゃないか!まだ一人で生きていたほうがましだった!わしは自分の人生を生きたかったのに!」
「お母さんが厳しくしてくれたから、私、今、ちゃんとした人として生きてるんだよ。」
「お前は人なんかじゃない、ただの出来損ないの失敗作だよ!一人前にえらそうな口を利くな!虫唾が走るわ!!」
「叱ってくれる人がいないと、人ってダメになるとおもうんだ、私には…お母さんがいてくれてよかった!」
私は、今、何を言って、いるのかなあ……。
私は、いつまで、自分を無くしていれば、いいのかなあ……。
私は、いつまで、自分を失くしていなければ、いけないのかなあ……。
私は、いつまで、自分を亡くし続けなければ、ならないのかなあ……。
そろそろ答えが出るはずだと思い始めてもう何年だ。
そろそろ何かが変わるはずと思い始めてもう何年だ。
そろそろ救いの手が差し伸べられると希望を持ち始めてもう何年だ。
そろそろ誰かが助けてくれるはずと根拠のない希望を持ち始めてもう何年だ。
さしのべられた手を目の前で弾かれたのはいつの事か。
かけられた優しい言葉を叫び声で打ち消されたのはいつの事か。
自分一人で頑張るしかないと、諦めたのは、いつの事か。
心が崩壊するのが先か、体が崩壊するのが先か。
本当の私が消えるのが先か、自動再生する私が自我を持つのが先か。
母親がいなくなるのが先か、私がこの世を去るのが先か。
「フフ……」
なんだかとても愉快になってしまった私は、思いっきり笑い声を上げた。
「フフ…あははっ!!!」
ああ、笑い始めたら、止まらない。
「フフ…あははっ、あはハハハ……!!!」
愉快で愉快で、たまらない。
「フフ…あははっ、あはハハハハハハハハハ……!!!」
雑音を打ち消すように、腹の底から大笑いする。
「フフ…あははっ、あはハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ……!!!」
笑いながらてんぷら粉を練る私の背中が、燃えるように……熱い。
「ぐフフ…あ゛ははっ、ぐげほっ……!!!」
口からこぼれだしたのは、笑い声ではなく、どす黒い、熱い…飛沫。
「ぐぼっ…、ゲッ……。」
……笑えなくなった、私は。
ビクリ、ビクリと…体が震えるのを、感じながら。
目を、見開いたまま。
忌々しい、自動再生を。
止めることが、出来た。