2話
追いかけてきた父に引き戻され、私はまた一階のリビングに戻っていた。
あれは、一体どういうことだ。
誰だあの茶髪の、これといった特徴のない感じの男の人は。
「ゆ、ユリちゃん、落ち着いて聞いてね? ちょっと誤解があったみたいなんだけど、さっきのがわたしの息子で、あなたのお兄ちゃんになる、花村マコトです」
お義母さんが私を心配して、優しくゆっくり言い聞かせてくれる。
「そうだぞユリ、ちょっと落ち着いて話を聞いてくれ。誤解なんだ」
続けられる父の言葉。
誤解。
お兄ちゃん。
お姉ちゃんではなくお兄ちゃん。
誤解とはなんだ。
楽しみにしてたんだぞ。
お姉ちゃんができるって言われたから、毎日毎日、楽しみにしてたんだぞ。
それがお兄ちゃん。いや、だからって私の態度も失礼ではあるけどさ。
でも、誤解とはなんだ。なんだよ。
……ぁああああ! 誤解とはなんじゃい!!
「誤解ってなんじゃい! 落ち着いていられるかこのクソ親父!! 説明しろこの野郎!」
キレちまったよ、久しぶりに人前でな……。
ちくしょう! 純粋な私の百合心をもてあそびやがって!
「ち、違うぞユリ。さっきのマコトくんは、確かにお前のお兄ちゃんになる人だ。お兄ちゃんだが、ほら、なんというか……」
言い訳無用。
私はクソ親父の股関を蹴り潰してやろうと、勢いよくソファーから立ち上がった。
そのとき。
「ああ、やっぱりあなたがユリちゃん? 噂の通りかわいい子だねえ。はじめまして。ボクがお姉ちゃんです」
天使の声が聞こえた。
女性としては少し低い、ハスキーボイス。
しかもボクっ子。
うわ、け、結構好みかも……。
そして振り返ると、そこには私が夢にまで見た、お姉ちゃんの姿があった。
なんだよ、いるんじゃん。
こんなに綺麗なお姉ちゃん『も』、いるんじゃん。
お義母さんを若返らせたみたいな、でもどこかクールな印象を受ける、黒髪のロングヘアとキリッとしたお顔。
背が高く、モデルさんみたいな体型。存在感抜群のお胸。
これは、ストライクっていうか、私のタイプど真ん中っていうか、もう、好きかも。
好きになっちゃうっていうか、すでに大好きかも。
お姉ちゃん。これが私のお姉ちゃんだ。
「あ、わ、私、私は、あの、お姉ちゃん、お姉ちゃん、あの、その……! うわあ!」
私は頭が真っ白になって、あわあわとまごつき、その結果テーブルの角に足をぶつけて盛大にずっこけた。
「あはは! いいよ、ゆっくりで。ほら、ボクに捕まって。……大丈夫かい?」
次の瞬間。
ヨロヨロ情けなく立ち上がった私は、お姉ちゃんの腕の中に優しく抱きしめられていた。
「怪我はないみたいだね。良かった」
優しい。
服の上から伝わる、お胸の膨らみ。
かすかに感じる、お化粧品の香り。
……ダメだ。好きだ。愛してる。
「あ、あの、好きです。お姉ちゃん、私がユリです。田中ユリ。大好きです。お姉ちゃん、会いたかったです。愛してます」
めちゃくちゃに溢れてくる言葉に混じって、いろんな感情が飛び出して、一緒に涙まで出てきてしまう。
「ううー。お姉ちゃん、ごめんなさい。嬉しいのに、なんか涙が出て。お姉ちゃん、大好き、会いたかった、大好き……」
「あ、あはは。大丈夫だよ、落ち着いて。ユリちゃん、ありがとうね。ユリちゃんみたいなかわいい女の子が妹になってくれるの、ボクもすごく嬉しいよ」
ふにゃふにゃになった私の頭の上から、お姉ちゃんのちょっと低い、でも落ち着く柔らかい声が聞こえる。
こんなの、好きになるわ。大好きだわ。
しばらくして、なんとか理性を取り戻した私は、父に頭を撫でられながらソファーに腰かけていた。
私ってやつは、これまでお母さんがいなかった分、年上の女の人に優しくされるのに餓えてるんだよね。
もちろん同い年も年下も大好物だけどさ。
でももう、父からの撫で撫では特に必要ない。
「ふふふ、ユリちゃんも大人になってきたと思ってたが、まだまだだなあ。これは撫で撫でせずにはいられん」
父からの子供扱いに、勘弁してくれ、と言いたいところだが、これはもう我慢しかない。
これ以上はしたないところもお見せできないし。
「あ、そういえばユリちゃん。ボクたちに敬語はいらないからね? さっきお父さんに怒鳴ってたみたいに、いつも通りの言葉でいいんだから」
お姉ちゃんのお優しい言葉に、しかし私の頬はカッと熱くなった。
うわあああ! 聞かれてたあ! 品がないところを見られてたあ!
「ち、違うんですお姉ちゃん! あれはその、違うんです! この、このクソ……じゃない、このお父さんのせいで、私は言葉遣いがたまにちょっと」
「はは、マコトくんにも見られちゃったか。さっきの品のない感じは、ちょっと俺の影響でね。男手で育ててきちゃったせいか、ユリは中学生くらいまで男みたいなしゃべり方と性格だったんだよ」
そう、このクソ親父の性格がうつったんですよ。だからこいつが悪い。私は悪くない。
「それで、言葉だけでもイメチェンってことで、ユリちゃんは普段から誰にでも敬語を使うようになったんだ。ちょっと変だけど、まあかわいいからオッケーだろ」
父の補足に、ナイスサポート、と言いたいところだけど、ちょっと引っ掛かるところがあった。
今、お姉ちゃんのことを、『マコトくん』って呼びませんでした?
「……あ、あのー。お姉ちゃん、失礼ですけど、改めて、お名前を、伺ってもよろしいですか?」
私の言葉に、一瞬、時が止まる。
お姉ちゃんはせっかくのその美しいお顔を曇らせ、ため息をついた。
「……ボクは、花村マコトです。改めてよろしくね」
私は、必死に頭の中の整理を進める。
「お義母さん、あの、申し訳ないんですけど、さっきチラリとお見かけした、その、お義兄さんのお名前って、なんでしたっけ?」
お義母さんはその問い掛けに、お姉ちゃんそっくりの顔を曇らせ、ほとんど同じようにため息をついた。
「うう……。あのね、ユリちゃんのお兄ちゃんになる人の名前は、花村マコトだよ」
よし、さっぱりわからん。
どっちも名前が花村『マコト』さん!?
「つまり、お姉ちゃんの名前はマコ↑ト↓。お兄さんの名前なマコ↓ト↑。アクセント的な違いですかね?」
私のたどり着いた答えに、父が頭をポカりと叩いてきた。
「人の名前で遊ぶなバカ娘。現実を見ろ。もうわかるだろ」
わからん!
わからんわからん!!
「あー……いや、ごめんねほんと。ボク、ユリちゃんがお姉ちゃんを欲しがってるって聞いたからさ。喜んで欲しくて、紛らわしいことしちゃったね」
いや、嫌だ。見せないで欲しい。現実を見せないで!
お姉ちゃんは私の反応に少し悲しそうな目をして、そして自分の髪をもぞもぞと触り始めた。
ズルり、とそのロングヘアがずり落ちる。
「これ、ウィッグなんだよね」
嫌だ、やめてやめて!
お姉ちゃんは次に、自分の服の中に手を引き戻し、ふくよかなお胸のあたりをもぞもぞすると、そのまま器用にも、Tシャツを脱ぐかのように、自分のおっぱいを、いとも簡単に脱ぎ捨てたのだった。
「これでわかったよね? ボクは花村マコト。ユリちゃんの、お姉ちゃんみたいなお兄ちゃんになる人です」
ぷるるん、としたおっぱいもどきが、テーブルの上にベロンと広がっている。
私は、もう、気が狂ってしまいそうだった。
お姉ちゃん、いや、お兄ちゃんが少し寂しそうに笑っている。
ああだめだ。好きな人にこんな顔させちゃだめだ。
いや、あれ? 好き? 相手は男の人なのに。
この人を見ていたら、なぜだか胸がばかみたいに高鳴る。
寂しそうなお顔を、ペロペロしてやりたくなる。
好き……ですね、これはやっぱり。
うん、好き。
でも、じゃあこの私が、このエリート百合っ子であるこの私が、まさか男の人を好きになっちゃったってこと!?
……改めて申し上げるが、これはもちろん、濃厚な百合のお話だ。
そして私の、男性に対しては記念すべき初恋とも言える、歪みに歪んだ恋の物語でもあるらしい。