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私が飛び降りてしまったあの日を境に、会話は殆どなくなり、同じ空間で息をしているだけの時間が続いていた。どうして私を未だに訪ねてくるのか、問う気力すらないままに。
そうして、もう何年が過ぎただろう。久しぶりに彼から声を掛けられた。
「リディシアは、魔法学園には入学するんだよね?」
王妃教育だけはどうにか終えている今。魔法学園への入学自体が貴族の義務と化している現在。普通に考えれば、入学は必須。
だけど何年もこうして床に臥せり、社交界にすら顔を禄に出さない私が入れるのか否かは、難しいところだった。
「父と母は、無理に行くことはないと言っていますね」
「僕は来てほしいんだけどな」
「え?」
そっと、近づいてきた彼に、抱き寄せられる。
「ルクシス殿下……?」
ここまで距離が近いのは、あの日以来だろうか。あれからは触れることだって殆どなくて、最低限の言葉しか交わしていなかったはずなのに。
「君と一緒にいたい。無理をさせるつもりはないよ、ずっと僕が側にいて支える。辛いときは休めばいい、ちゃんと気心の知れた使用人を連れていけるように取り計らうから」
「どうして、ですか?」
「好きだから。まあ、信じてはもらえないみたいだけどね」
それはもう諦めた、と彼は言う。
好き、という言葉に、ときめくほどの余裕もなくなって。この距離にすら、苦しさ以外はもうない。いつかは嬉しかったはずなのに。まるでそう思うしか許されないようで悲しくなるけれど、好きになりたくはなかった。その先にはきっと絶望しか残らないはずだから。
「わかりました。だけど、近くにはいなくて大丈夫ですから」
ほんのきまぐれ。
どのみちきっと、魔法学園には行くしかないのだ。夢のように、彼に殺されるならば。それでいいから、こんな風に無駄な時間を積み重ねるより、彼の恋にとっての障害として消化されて、終わってしまいたかった。そうすればもう、悪夢も何もない。自由になれる。
彼は目を見開いて。感情を見せない瞳に少しだけ光を宿して、微笑んだ。
「できる限り近くにいさせてよ。僕らは婚約者なんだから」
婚約。そんな契約に、どれほどの意味があるのだろう。
そっと優しく手が握られて、ほんの少しだけ、彼を近くに思える。
「リディシア、学園を卒業したら結婚することになるんだよ。僕らは夫婦になる。だから、そのときにはきっと、怖くなくなるはずだよね」
指を絡めながら、まるでそうじゃないと困るとでも言うようなその言葉に。
「……そんな日は、来ないですから」
だって魔法学園には、スノウがいるはずだから。私は予定調和で殺されて、彼はスノウと結ばれて、それでおしまい。それが運命にとっての筋書きのはずだ。
もしも、を思って、裏切られるのは嫌だ。だから私はそう決めつける。決めつけて、現実が夢と同じになっても苦しまずに済むように、予防線を張る。弱いから。
「そう」
どさり。珍しく起きていたはずの身体を、思い切りベッドに押し倒された。見下ろす彼の表情は読み取れないほど無機質で、だけど距離だけは近い。
「もう、どうでもいいか」
「……?」
「いや、何でもないよ。キスしてもいい?」
「ダメでしょう。キスの意味、わかって言ってるんですか」
「知ってるし、もうとっくにしたことあるよね。忘れたの?」
「そう、でしたっけ」
駄目だ、思い出せない。
この国でのキスの意味は結構大きくて、何なら純潔以上に大切にされている。
婚約だけなら、事情次第で破棄もできる。だけどキスをしてしまえば、そう簡単にはいかないのだ。それが想い合うふたりのものなら、だけれども。
理由は幾つかある。想いの力、というものが魔力に直接干渉するらしく、想い合っているふたりのキスでは魔法の力が底上げされたり、魔力自体が繋がったりと恩恵が得られたり。現実的な理由はそれが該当する。それは何人かと交わせるものではなく、最初のひとりだけらしい。
だけどこの行為が特別なものとされた理由は、別。神様とか、そういった宗教的なお話が中心。とはいえそんなお話は、公爵令嬢のなり損ないには縁がない話だ。
とにもかくにも、簡単にしてはいけないし、だからといって無理やりされても特に効果はない。強要罪に問われれば、最悪の場合処刑される。それだけ神聖視されている行為がキスなのだ。
「試してみる? とっくに繋がってることくらい、今の君にだってわかるはずだよ」
「…………」
これが、一つの変化になるのなら。もしかすると、私は死なずに済んだり、するのだろうか。
許可を得ようとは最初から思っていなかったのか、彼はこちらの返事を聞くことなく顎に触れて、上を向かせる。そしてそのまま、あっさりと、本当にあっさりと唇が重なった。
じんわりと、魔力が流れ込んでくる。それが自分のものではなく、今触れている彼のものであることを、理解して。
「っ……ほら、したことあるんだよ」
僅かに頬を赤らめて、そんなことを言う殿下に、
「そ、そうみたい、ですね」
と、どうにか絞り出した声で返す。
心の声までは聞こえないけれど、キスがこうして確かな繋がりとして作用しているのだから。少なくとも今は、嫌われてはいないのだろう。
だけど、それよりも。早急に彼へ伝えないといけないことがある。
「その、急にキスするのも、押し倒すのも、王太子殿下としてはどうかと思うのです。本来は婚姻の儀までは禁止なんですよ、全部」
「どうでもいいよ、そんなの。リディシアに触れられるなら、全部無くしても構わない」
「……民のためにも、それはどうかおやめくださいませ」
彼はこの国を継ぐ者で、誰よりも大切な存在のはず。どうして私に、こんなに拘っているのかはわからないけれど、そんなことを許すわけにもいかない。
だけどどうやら、その言葉は耳を通り過ぎただけのようで。解放され、そっと抱き起される。されるがままになりながら、聞いたのは。
「ずっと嫌われていると思っていたけれど、違ったんだね」
優しい声音。言葉の意図はわからない。私だって嫌われていると、思っていたのに。ああだけど、きっと近い未来に、嫌われてしまうから。期待はしない。
「君は気づいていないかもしれないけれど。さっきより顔色が良くなったのも、僕の方を見て話してくれるようになったのも、もしかしたら君を蝕んでいるものが弱まったから、なのかもしれない。それこそ、こうして触れ合うことで、何かしら良い効果が得られるなら」
しない、と決めていたのに。
「僕だけが、君を救ってあげられるのかもしれないね」
死にたがりの君を、生かしてあげたいと口にする彼は、まるで恋でもしているかのように、焦れるように触れてくる。そうしてもう一度、何も言えない私にキスをして。繰り返し、繰り返し、触れては離れてゆく熱に翻弄され、その度に心臓が跳ね、呼吸が乱れてゆく。
だけどそれを、嫌だと思えないのは、どうしてだろう。