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57*

 灰色と白色が混在する空間だった。

 撒き散らされた死の残骸は、雪を被って白く染まりつつある。じっとりと、だけど確実にこちらの体温を奪っていく、冷え切った空気。世界そのものが凍て付いてしまったかと錯覚するほど、それもまた死を纏っていた。まるで、生と呼ばれる全てを拒むように。

 しかし鼻を掠めるのは、あの焼けたような匂いではなかった。

 瓦礫と違って、真白に埋もれないもの。白くもなければ灰色でもなく、ただ透明なもの。辺り一面を埋め尽くす二色に同化するようにして、数多の色のない花が咲いていた。

 幻想的な光景。ケイ素でできたように見えるその花は、きらきらと白い輝きを瞬かせながら風に揺れる。吐いた息もまた白い。色素が薄すぎる、現実味の欠けた場所。

 だからこそこの景色はあの子に似ていた。リディシアに、よく似ていた。

 どうして、僕はここにいるのだろうか。

 ぼんやりと空を見上げる。不自然なほどに灰色。見知った魔法仕掛けの空間。人なんているはずもない。なのに、不意に人の気配を感じて、振り返る。


「……リディシア?」


 そこにいたのは、幼い頃の彼女に酷似した女の子だった。悲しげに目を伏せている彼女もまた、僕の声で初めてこちらを認識したように、顔を上げる。


「何方でしょうか?」


 もう二度と聞きたくなかった、酷く空虚な問い掛け。記憶をなくしたあの子が初めて僕にぶつけてきた言葉とまったく同じ。

 胸を抉るような痛みに駆られながらも、素直に自分の名前を返そうとした。だけどその前に、女の子は微笑む。微笑んで、口を開く。


「貴方は、私の大切な人に似ていますね」

「大切な人?」


 訊ねれば、その子は淡々と語る。


「婚約者だったんです。といっても、彼には心底嫌われていたんですが」

「……」


 姿かたちも、声も何もかも、リディシアだった。だけど彼女は少しだけ、違う。何が違うのか明確にはわからない。ただ漠然とした違和感があった。


「ねえ、どうしてお兄さんは、私の名前を知っているんですか?」


 無邪気な顔で、女の子――リディシアは僕を見上げた。

 僕のよく知るあの子とは違う表情をしている。幼くて、繊細で、それでも芯はとても強いのだろう。恐らく、彼女からすればずっと年上の異性にあたるはずの僕に物怖じすることなく、年齢不相応に真っ直ぐな目をしていた。


「……さあ、どうしてだろうね」


 しかしこれは、どういうことなのだろうか。

 確かにこの子は、リディシアだ。だけど僕が知っているリディシアではない。似ているけれど、何かが決定的に食い違っている。そのせいなのか、彼女に恋い焦がれはしなかった。だから違和感を覚えたのだろう。

 僕はリディシアが好きだから。こんなにも何も感じられない相手を、彼女として見ることができない。この子は、僕の愛したリディシアではないのだ。


「お兄さんには、好きな人はいますか?」


 何故、そんなことを訊くのだろうか。この子は一体、何なのだろうと。そんなことを思いながらも、口を動かす。


「いるよ。とても大切な人が」


 女の子はきらきらとその薄紫の目を輝かせながら「やっぱり」と言う。嬉しそうだった。何を考えているのかはまるでわからない。そして僕もまた、


「婚約者なんだ。まあ僕も、どうやらその子に嫌われているみたいだけれどね」


 何を考えて、彼女と同じ言葉を返したのだろうか。

 一瞬で奇麗な顔を歪めて、酷く傷ついた様子で、しかし視線は僕に向けたまま。見開かれた瞳には、無感動な自分が映り込んでいた。


「同じ、ですか?」

「ああ、同じだ」


 吐き気がする。

 この問答で、ひとつだけ解った。これは現実じゃない。多分、悪趣味な魔法か、或いはただ不快なだけの悪夢だ。この子はリディシアではないし、僕は今、考えるよりも先に自然と口が動いている。

 そして僕らは、同じだった。


「お兄さんみたいに素敵な人でも、恋って上手くいかないもの、ですか?」


 まるで上手くいかないとおかしいとでもいうように、困惑した様子で問い掛けてくる。


「どうして僕をそう過大評価するのか理解できないけれど、恋愛なんて上手くいく人のほうが珍しいんじゃないかな」


 意地の悪い答えに、彼女は声を詰まらせた。数秒。僕の言葉を咀嚼するように、白くて長い睫毛に縁どられた目を伏せて。そうして何かを悟ったように、別人のように物憂げな様子に変わった。

 もう一度向けられた瞳は、ここで最初に見たときと同じ、底知れぬ悲しみに満ちている。


「そうですね。ああ、そういうもの、なんですね」


 諦観を滲ませた笑み。それは僕のよく知るあの子とまったく同じものだった。声音も、語調も、力なく握られた手の、その仕草ひとつさえも。

 雪よりも白い肌。最初に見たときは、ここまでではなかったはずなのに、今のこの子にはどうしようもなく生気が欠けていた。そうして、そうなるほどに強く、近づいていく。死の香りが強くなればなるほどに、彼女らしくなっていく。

 しかしそれを否定するように、女の子は一歩前に踏み出した。そのまま躊躇いすらなく僕の手を小さなその手でぎゅっと掴んで、力強い口調で、透き通った声を張り上げるようにして、激励する。


「だけどお兄さんなら、きっと叶えられます。私じゃどうにもならなかったけれど。あんまりにも沢山、間違えて、失敗して、嫌われて、殺されて、死んじゃったけれど……お兄さんならきっと、変えられます」


 ぼろぼろと涙をこぼしながらも、元気づけるように笑う。伝う体温などなく、触れられた先から凍り付きそうなのに、どうしてだろう。塗り替えるように、彼女の柔らかな肌越しにじんわりと、身体が熱を帯びていく。


「だから、頑張ってください。応援、していますから」


 気が付いたときには、日影の差す部屋の中で、いつものように眠る彼女を抱きしめていた。規則正しい寝息に、安堵する。安堵しながらも、目を動かす。


「……花?」


 ここにあるはずのないものが、己の手に握られていた。ガラスでできたような透明な花。記憶と記録を宿す、魂の欠片とすら呼ばれる、禁忌の魔法のひとつ。魔女しか使い方を知らなかったはずの、心を凍結する手法。

 しかしそれは夢幻みたいに、きらきら輝いたかと思えば、ぱちんと弾けるようにして花びらを散らし、そのまま消えてしまった。僅かに残った煌めきの残滓さえ、陽光に紛れ掻き消されていく。


「……」


 導かれるように眠る彼女の顔を見て、ぞわりと鳥肌が立つ。

 見慣れていた。だから、今の今まで気づかなかったのかもしれない。それでもあの夢のお陰で、ようやく自覚することができたのか。それとも、それすら見越してあの子は夢枕に立ったのか。

 病的なほどに青白い肌。生を拒み、死を纏うかのように現実味の欠けた様。確かめるように触れた指は明らかに、かつての彼女の体温よりもずっと冷たかった。

 いつからだ。いつからリディシアはこんなにも、死に染まっていたのだろうか。


「ルクシス殿下……?」

「ごめんね、起こしちゃったかな。おはよう、リディシア」


 何事もなかったかのように微笑めば、彼女はいつものように「おはようございます」と返してくる。夢よりもずっと力ない声音。

 寝惚けているのだろうか。特に抵抗の色すらなく、素直に抱かれたままになっている彼女の髪を撫でる。悟られないように、心を落ち着かせるように、そのぬくもりを確かめた。

 確かにずっと、不安は感じていた。生気が欠けている気はしていた。だけど彼女が明確に死を感じさせていることに気付いたのは、これが初めてで。

 いや違う。最初はもうずっと前。この子が飛び降りたあのときだ。そして、夢の中の彼女は丁度、あのときのリディシアとそっくりそのまま。


「……ああ、だからか」


 そんなあの子に、頑張れと言われた。応援しているからと、背中を押されたのだ。どことなく自分に似た、あの子に。どうやら彼女には叶えられなかったらしい夢を託された。


「頑張らないといけないな」

「……?」


 不思議そうにこちらを見上げてくるリディシアの額に、キスを落とす。驚きに目を見開き、恐らく混乱しているのだろう。何を言えばいいのかわからないのか、それとも寝起きで頭が回らないのか。口元を震わせる彼女は可愛らしく、その頬が赤く染まっていくほどに死の気配は薄まっていく。

 潜在的に感じてきた恐怖が、明確な理由を持つ。最悪の中の最良だった。ずっと抱え込んできた不安の原因、その一端を掴んだ気がする。つまりは、対策を立てる時間を得たのだ。

 積み重なっていく問題。ひとつひとつ片付ける時間があるのかという懸念に、静かに答えを返す。

 どうにかする以外に、道はないのだと。


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