5*
リディシアが飛び降りたのは、青に溶けるように空が澄んだ日だった。
あの日の彼女の目は、どこかおかしかった。まるで既に息を引き取った死者のようにも、彼女の部屋に飾られている無機質な人形のようにも見えた。機械的で、生命の色が感じられない瞳。
そんな彼女が立ち上がったあのとき、きっと僕は見惚れていた。まるで操られているかのように窓へと手を伸ばし、今まさに飛び立たんとする小鳥のような君の姿を見て、美しいと感じたのだから。
もしもあの日、彼女を失っていたならば。僕はどうしただろうか。答えのない問いかけ。意味のない空白。君が生きていなければ、君があのとき死んでしまっていたならば。僕はそのとき、何を思ったのだろう。
彼女は生きている。息をしている。それは良いことのはずだ。静寂に等しい空間の中で、彼女の呼吸音を感じた。そこにいることが当たり前だったんだ。
「……」
窶れていく少女の髪を撫でる。運命が彼女を殺さなくても、彼女自身が死を選ぶなら。僕はそれを阻害することができるだろうか。そもそもその行いは、正しいのだろうか。
「リディシアは僕を信じない」
不意に唇からこぼれ落ちた言葉は、まるで呪いのようだった。誰かに告げられた運命のようにも聞こえた。彼女と想い合うことが叶わないのなら、いつか僕は彼女と道を分かつのか。
白い髪。白い肌。閉じられた瞳。棺の中に彼女がいたならば、誰も生きているとは思わないだろう。リディシアの存在には、常に現実味が欠けていた。
壁に掛けられた絵画に目を向ける。誰が、何を思ってこの絵を選んだのかを、僕は知らない。その絵が何を描いているのかも、よくわからない。
小さく青白い手。細いその指に、自らの指を絡めた。体温が伝う。彼女が生きていることを確かめて、息を吐く。
もしも、彼女が死んでしまうなら。考え、浮かんだ答えに目を背ける。
誰かに、何かに彼女を奪われてしまうくらいなら。いっそこの手で、殺めてしまいたい。そう思わないと言えば、嘘だ。目の前で君が命を絶つくらいなら、その前に僕の手で君を害してしまいたい。それこそ、きっと君が言ったように。
君が語る、あの夢のように。
「ルクシス殿下?」
透明感のある、鈴のような声に目を開く。いつからそうしていたのだろうか。身体を起こしながら、謝罪する。
「ごめんね、眠ってしまったみたいだ」
リディシアの眠っていたベッドに、半身だけ倒れこむような形で、椅子に座ったまま眠っていたらしい。握った手はそのまま。彼女は困ったように笑んだ。薄紫の瞳の奥に自分の姿を見る。その瞳に映る存在で在れることが嬉しい。君は今、僕だけを見ているのだから。
「夢を見たよ」
「夢、ですか?」
不思議そうに首を傾げる仕草一つすら、愛らしくて。繋いだままの手に力が籠った。離したくない、そう思いながら。優しく告げる。
「君を殺す夢」
ただ、それだけの夢。
目を丸くしたリディシアは、だけど直ぐに悲しそうに微笑んだ。同じですね、と呟く彼女に首を振る。
違っていたからだ。彼女の語る夢とは違っていた。僕が見たものは、朧げに覚えている夢の断片は、君の語る未来に限りなく近く、そして遠い。
だって君は、僕から愛を囁かれ息絶える夢なんて、見ないだろう?