34*
帰郷した数日間は、随分と静かな生活だった。両親と幾らかの時間を共にして、屋敷の使用人ともささやかな話をした。目ぼしいことはないけれど穏やかな日々。かつての私は殆どの時間を自室のベッドの上で過ごしていたはず。特別、街に出たりはしないものの、きっとあの頃よりはずっと健康的な生活。
「……」
最後のページに目を通して、本を閉じる。自然と涙が出てしまい、そっと右手で拭った。屋敷の裏手、少し入り組んだその場所できらきら揺れる木漏れ日を浴びながら、静かに過ごす。その居心地のよさに、だけど笑みは浮かばない。
「お嬢様? こんなところでどうしたんですか?」
「カルラ」
全く気配を感じさせずに突然視界に入り込んできたカルラに驚く。私の顔を覗き込んだ彼女はにこにこと笑っていた。
「ここ、良いですよね。ボクも結構好きなんです」
ハンカチすら敷かず隣りに座ったカルラは、何気ない風に話し始める。
「人が寄り付かなくて、静かで、ゆっくり眠れますからね。安心するというか」
「確かに、とても綺麗で落ち着いた場所だと思うわ。カルラは今日お休み?」
「いいえ、ただのサボりです」
「……そ、そう」
メイド服を着ているから、まさかとは思ったけれど。あんまりにも悪びれずに言うものだから、何だかそれが自然なことなのかもしれない、だなんて感じる。
カルラの小さな手にふと目がいく。傷だらけだった。
「カルラ、その傷は」
「ああ、これですか? 気にしなくて大丈夫ですよ、もう治ってますから」
くりくりとした緑色の瞳は、どこか仄暗く輝いている。目に見える範囲に極力自然に視線を巡らせれば、彼女の見える範囲の肌にはあちこち傷があった。どれも最近ついたものではなさそうだけれども、不安になる。
「何か困ったことがあれば、頼ってくれていいのよ?」
「あー! お嬢様、今変なこと想像しましたよね。大丈夫ですよ、ボク別に虐められてませんし。まあびっくりするのはわかりますが、何て言えばいいんでしょうか」
にぎにぎとその小さな手を開け閉めしつつ、カルラは年齢不相応な大人びた表情をする。
「公爵家のお嬢様に聞かせられるほど、奇麗なお話じゃないですし」
不穏なことを言い放つカルラに、何かを返す前に。
「やっと見つけましたよ! カルラ! お仕事なさい!」
「うげっ……クソババア」
私が産まれた頃から屋敷に勤めているはずのメイド長がこちらに向かって鬼気迫る形相で走ってくる。カルラは慌てて立ち上がり、
「じゃ、お嬢様! また会いましょうね! ボクは退散するんで!」
「え、ええ」
「リディシアお嬢様!?」
女の子とは思えないくらいアクロバティックな動きで走り去っていくカルラと、私に気付いて焦るメイド長。だけど彼女は、いつものお堅い顔に一瞬で戻り、深々と頭を下げる。
「お嬢様、このような醜態を晒してしまって申し訳ございません。カルラに何か悪さはされませんでしたか?」
「いいえ、特には……」
「安心致しました。あのバ…ではなく、あの子の教育はしっかり行いますので、何卒お許し頂けますと幸いです。それでは、私はカルラを捕獲しなければならないので、これで失礼致します」
ところどころ、本音が露呈しかけているメイド長は、カルラの監督役のようなものなのかもしれない。その砕けた雰囲気に、あの子は意外と気に入られているのだな、と思う。こってり絞られそうでこちらが不安になったものの、それも何だか微笑ましい。
一連の流れに苦笑しつつも、私もまた立ち上がった。
「そろそろ、帰らないといけないのね」
木々の間から差し込むひかりが、幻想的に周囲を照らしている。さっき読み終えた物語の最後も、きっとこんな光景だったのだろう。殺し屋の少年と、標的になった貴族の少女が手を繋いで心中する結末。決して救いがあるとは言えないのに、奇麗なお話だった。
屋敷に戻って、荷物を纏める。大した量はないから、小さな鞄ひとつで事足りた。読み終えた本を本棚に戻して、顔を上げたとき。ノックが響く。
開いた扉の向こうには、柔和な笑みを浮かべた青年が立っている。
「こんにちは、リディシア」
「ユリウス様」
約束通り、彼は迎えに来てくれた。本来であれば馬車で帰るつもりだったのだけれども「俺が連れて帰ってあげるから、ゆっくり休めばいいよ」とあの日の夕方に伝えられ、別れてから数日ぶりに顔を合わせた。
「何だか、ユリウス様を見ると安心します」
「そう? 俺も君を見ると嬉しくなるから、きっと同じ気持ちだね」
楽しげに笑う彼にほっとする。帰れば多少なりともぎすぎすしそうなので、緊張感は消えないけれど。
「リディシアにもそろそろ魔法を教えてあげた方がいいと思うんだけれど、ルクシスはまだ許可してくれないの?」
「それは……それも、帰ってから聞いてみます」
「うん、そうするといいよ。転移魔法って触れないといけないから、リディシアも困るだろうし」
当たり前になっていた魔法を使えない状況に、ユリウス様が触れたことに内心驚きながらも、確かにその通りだと思い直す。いつまでも誰かの力を借りるのも申し訳ないし、ルクシス殿下にとっても迷惑だろう。
「じゃあ、帰ろうか。ご両親への挨拶は済ませた?」
「はい。大丈夫です」
彼はひとつ頷いて、そっと私の身体に腕を回す。一瞬、きらきらと周囲が輝いて、目を閉じる。開いたときには、見慣れた建物の前だった。
「本当に、何から何までありがとうございます」
「気にしないで。じゃあまた、学園でね」
優しく微笑んで、去っていく彼の背中を見送る。そうしてふっと気持ちが暗くなるのを感じながら扉を開いて、一週間ぶりに会う専属のメイド達に挨拶をした。
彼女たちから既にルクシス殿下が帰っていることを確認して、プレッシャーを感じながらも、ひとつずつ階段を上がる。見慣れた扉を前に深呼吸し、ノックをしたけれど、返事がない。
「……?」
ここにはいないということだろうか。考えながらも、扉を開く。
 




