32*
目を覚ましたとき、視界に広がる天井に違和感を覚えた。見知ったはずの、だけど数か月ぶりの光景。そっと身体を動かして、彼がいないことを確かめる。
「ここ、私の部屋?」
ずきりと頭が痛む。いつの間にかネグリジェを着ていて、髪も一つに纏められている。まさか時間でも巻き戻ったのか、と小説みたいな展開を想像して、ベッドから下りて鏡台へ向かう。そこに映るのは、いつもの私だった。
「……だけど、ここは私の部屋、よね」
部屋を見渡す。学園に入学する前とほぼ同じに保たれた自室。向こうの私の部屋よりは個性がある、白い部屋。だけどあまりにも人の気配が感じられない。もしかして、この屋敷には誰もいないなんてことはないだろうか。不安に思い、部屋の扉のほうへ向かう。そうして手を掛けようとしたとき、ひとりでに扉が開く。
「あれ、リディシア。起きたんだね」
「ユリウス様?」
学生服姿のユリウス様がそこにいた。後ろには屋敷のメイドの姿もある。初めて見る、小さくて可愛らしい女の子だった。私よりも年下かもしれない。
「まだ顔色が優れないね。もう少し休んだほうがいいんじゃないかな」
「そう、ですか?」
「うん。ああ、リディシアに何か軽食でも用意してあげてほしいな。俺から頼んでも大丈夫かな?」
「はい、勿論! 光栄です!」
メイドの少女は、きらきらした目で請け負って、そのまま少し駆け足で去っていく。ユリウス様のファンなのかもしれない。美しい顔立ちに加えて物腰も柔らかな彼だから、一目惚れということもありそうだった。
施されるがままにベッドに戻らされながら、昔のことを思い出す。あのとき隣りにいてくれたのは、ルクシス殿下だった。
「ごめんね、ルクシスは公務でね。今は来られないんだ」
「いえ、とんでもないです……。その、すみません。状況がわからなくて」
戸惑いながら訊ねれば、彼は「ああ」とこぼし、微笑んだ。
「リディシアが意識を失ったあとに、俺が屋敷に連れてきたんだよ。どこまで覚えてる?」
「どこまで……?」
「スノウと喧嘩したことは?」
「あ……」
はっとする。スノウを一方的に拒絶してしまった記憶は確かにあった。そしてそのときに、何か気味の悪い感情に襲われて、そうして。どうなったのだろうか。
「記憶、戻った? そうでもないのかな」
「え、ええと、その。私のものじゃない、私の気持ちが流れ込んできた覚えは、あるんですが」
「そっか。何にせよ、無事でよかった」
無事。いまいち状況が掴めずに「はい」と返す。
「あの、意識を失ったって……私は倒れたんですか?」
「うん。ちょっとした貧血だから気にしなくていいよ」
確かに以前は度を過ぎた病弱だった自覚があるけれど、最近は倒れるような貧血なんて起こしていなかったはず。遊びすぎて疲れてしまったのだろうか。それとも、あのときの彼女との会話がきっかけで何か、
「ねえリディシア、聞きたいことがあるんだけれど」
思考を遮るように、ユリウス様が言う。いつものように優しい笑みを浮かべて、煌めく瞳が私をじっと見ていた。少し気恥ずかしさを覚えながらも「何でしょうか?」と返すと、彼はあの日と同じ質問をする。
「ルクシスのこと、好き?」
「……」
何かを言おうとして、だけど言葉が出て来ずに口を噤む。彼はそれを咎めることなく、しかし想定外のことを問い掛けてきた。
「リディシア、あいつのこと思い出し始めてるでしょ」
「っ……」
どうして、気づいたのだろう。殿下自身には一度も指摘されていないこと。驚いていると「わかるよ」とユリウス様は笑う。
「段々、あいつに向ける表情が変わってきたからね。最初は興味すらなさそうだったのに、今では気が付いたら目で追ってるんじゃないかな」
「それは」
「いいと思うよ。君たちは最初から婚約者だし、結ばれるべき相手だ」
「……やめてください、そういうの」
耐え切れずに俯く。これ以上、彼の顔を見て話す自信が持てなかった。真っ直ぐに話せることではないから。
「思い出しているといっても、ほんの断片程度だと思います。肝心なことは、何もわからない。ここで過ごした記憶、くらいはあるんですけれど」
「記憶っていうのは厄介なものだからね。思い出そうとして思い出せるものではないし、箱を抉じ開けるのも難しい。だけど君の場合は、違う」
「何が言いたいんですか」
「思い出したくないんだろう? 傷付きたくないから、失いたくないから」
手を握る。きっと今、私は今までしたこともないような、変な顔をしているのだろう。形容しがたい感情に、だけどふっと力を抜く。
「そうですね。その通りだと思います。ずっと蓋をしてきましたし、きっとこれからも見ようとしません」
「どうして?」
「ユリウス様が言った通りの理由ですよ。私は、彼に相応しくないですから。無駄に想いを募らせて、誰かを憎むなんて、嫌じゃないですか」
どうしてだろう。この人の前では、嫌なところを曝け出してしまおうと思えた。何ならそれを誘導されている気もする。
「クラヴゼア公爵家の一人娘がどうしてこんなに自信過少なのかな。君はもっと強気で、傲慢で、ああでも今と同じくらい繊細だったね。俺は、どんな君でも愛おしく思うけれど」
あんまりにもあんまりな言われように睨みたくなって視線を向ければ、彼の顔に浮かんでいるのはどうしようもなく優しい微笑みで、驚く。
「ルクシスのこと、好きなんだよね?」
確かめるようにもう一度、繰り返される。最初から答えを知っているような聞き方なのに、どうしてこんなに、私に言わせることに拘るのだろう。不思議に思いながらも、何だか絆されてしまった。
「好きです」




