表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/99

31*

 翌朝。晴れやかな青い夏の空に、刺すような日差しに、うだるような暑さに、みんなが顔を顰める中。私はやっぱり、気温の違いをいまいち感じられずにいた。

 寒くはないけれど、特別暑くもない。結果として、今日も今日とて長袖のままだ。


「リディシア様ぁ~暑いです~~~!」

「そう、みたいね」

「まだ余裕そうじゃないですか! 今日猛暑ですよ!?」

「そうみたいね……」


 暑いと言いながらもくっついてくる彼女は、しかし不意に表情が変わる。思い出したように「あ」と言った後、少し強引に私の手を引いて、周囲から距離を取らせた。


「あの、リディシア様。ユリウスとキスしてましたよね」

「えっ!?」


 していない。からかわれただけで、唇同士は触れていない。だけど額にはされているので、していないというのは語弊があるだろうか。

 あんなところを見られてしまった恥ずかしさから、少し顔が熱くなる。


「……忘れているなら言いますけれど、貴方は王太子殿下の婚約者です。気軽に異性と触れ合ってはいけないんですよ」


 冷水を浴びせるようなスノウの声音に、我に返った。


「どうして、スノウがそれを言うの?」

「どうしてって、寧ろどうして言われないと思ってるんですか?」


 どうして、この子がそんなことを言うのだろう。彼とあんなに親しそうにしているのは、スノウの方なのに。

 あんなに、あんなに、と。溢れてくる景色が、現実と食い違う。夢の中で見たふたりとも、どこか違っていた。ああ、だけどそれは、酷く覚えがあるもので。

 思考が何かに殴られたみたいに、揺らいだ。

 嫌だ。もう嫌だ。この子が嫌いで、嫌いで堪らなかった。だってこの子は、全部奪っていくんだ。私の欲しかったものを、何もかも奪っていく。

 理性を食い荒らすような、心に巣食う憎悪が、自分のものなのかすらわからない感情が、ぐちゃぐちゃにする。考えることができなくなる。


「そんなに、ルクシス殿下が嫌ですか? だったらせめて、本人に直接言わないと、このままじゃ……ああ! 待ってください、言い方が悪かったです! 泣かないでください!」

「っ……貴方にだけは、言われたくない!」


 耐え切れずに大きな声が出て、びっくりした顔でみんなが振り返る。スノウは真っ青になって、口をはくはくとさせていた。


「……スノウ、俺は一応忠告したはずだけど、何で自爆したの?」


 唯一近づいてきたユリウス様が彼女の肩を叩く。だけどスノウは動かない。呆然としている彼女の掴んだ手が痛くて、嫌で、


「離して、触らないで」


 泣きながら拒絶する。力なく手放された右手を、左手で支えた。

 そんなに力を込められたわけでもないのに、まだ痛む気がして、顔を拭うこともできずに俯く。

 本当は、彼女が嫌いなわけじゃなくて。喧嘩したいわけでも、拒絶したいわけでもないのに、どうしてだか、今は苦しくて、思考が纏まらない。謝らないといけないのに。せっかく仲直りできたのに。


「違う、違うんです。そんなつもりじゃ」


 誰に向けてか、スノウは首を振りながら弁解しようとする。

 嫌じゃない。嫌なはずなくて、だからこそ痛くて、痛くて堪らない。彼のことをどう思っているのかなんて、もうわかっている。嫌というほど自覚しているのに。


「リディシア、大丈夫?」


 心配そうな声。そっと頬に添えられた手が、私の涙を拭おうとする。気付いたときには、いつかのように、彼の手を振り払っていた。

 優しくしないでほしい。放っておいてほしい。諦められるように、忘れられるように、夢みたいにそっけなくしてほしかった。

 でないと、私はきっとスノウを、傷つけてしまう。あんなに良い子なのに、憎んでしまう。なりたくない、そんな風に歪みたくない。


「ルクシス、リディシアを寝かせてくれる?」

「……理由だけでも言え」

「記憶が戻りかけてる。ただこれ、真っ当な戻り方じゃないんだ。転生者っていうのは過半数が発狂するんだよ、リディシアみたいな子がそうなったら手が付けられなくなる。壊れた彼女を処分するだけでも相当数の犠牲が」

「ごめん、リディシア」


 何を言っているのかも、わかるようでわからないまま。後ろから抱き留められて、瞳を覆うように手を置かれて、電源を落とすように意識が途絶える。

 そのぬくもりだけが、光のように感じられた。


 ・


「……大丈夫なの、リディシアさん」


 クラウスとディードが、恐る恐るといったようにこちらへ近づいてくる。


「大丈夫だと思う。だけどさっきのまま放っておいたら、きっとルクシスの愛したリディシアは死んじゃってたね。身体はともかく、心が」


 ぞっとするようなことを平然と口にするユリウスは、慈しむようにリディシアの髪を梳く。

 ルクシス殿下に抱かれながら、完全に意識を失った彼女は死んだみたいに横たわっていた。だけどその表情は、さっきと違って穏やかなもので。それを確かめてやっと、心の底から安堵の息を漏らす。


「でもこれ、お前もなったやつだろ。スノウ」

「うん。身に覚えがある」


 そう。覚えていた。あたしが思い出しかけたとき、同じようになったことを。

 記憶がどれほど厄介なものかは、身を持って知っている。連鎖的に流れ込んでくる記憶の中に、本来この世界であったはずの感情まで一気に入り込んできたとき、あたしも彼女のようにおかしくなりかけた。

 それを止めてくれたのが、ユリウスだ。


「面識もなかったあたしを、身を呈して助けてくれたよね。……あのときはごめんね」

「助けないとみんな死んじゃうしね。君もリディシアも、洒落にならないくらいの魔力の持ち主だから。暴走したら大変だ」


 おどけたみたいに言うけれど、一歩間違えば自分が真っ先に死んじゃうのに。何度言っても気に留めた素振りすらなく、常に他者を優先する彼が心配だった。

 それは確かに正義だろうけれど、彼の在り方は自己犠牲が過ぎるように思えてならない。


「で、何話したの? 地雷踏んだ?」

「地雷って……」


 考えて、ここで言うのが躊躇われたから、後でねと返す。

 ディードやクラウスに聞かせるべきではないだろう。あんなの、リディシアが誤解されかねない。


「ルクシス、君も大分顔色が優れないけれど、大丈夫?」

「……ああ、これは」


 ユリウスが気遣うように彼を見る。

 ただでさえ今日のルクシス殿下の顔色は悪くて、目の下には濃い隈ができていた。さっきまでの心労もあってか、更に憔悴している。

 傍目から見ても、とても大丈夫と言えたものではないのだけれども。


「昨夜は一睡もしてないからね。それだけだから、気にしないで」

「何で寝ないの? 夜遊びは感心しないな。今日から君は公務で忙しいだろうに」


 ユリウスの発言に全面的に同意だった。寝たらいいのに。あたしなんて授業中でも爆睡するくらい、睡眠を愛しているのに。信じられない。

 それにしても、たった一晩徹夜したくらいで十代の若者がこんなに窶れるだろうか。とはいえ、王族の事情に無暗に踏み入る気はないから、口を噤む。


「色々あるんだよ。それより、リディシアを公爵家へ帰さないと」


 こうしてみんなで集まって施設の外にいたのは、それぞれに領地に帰るためだ。

 ルクシス殿下には公務があるし、あたしはクラウスのお家にお世話になる予定で。ユリウスがどうするのか、と考えたそのとき、ルクシス殿下が彼にお願いをする。


「ユリウス、リディシアを送ってくれないかな」

「どういう風の吹き回し? 俺にこの子が触られるの、嫌で仕方ないくせに」


 わかっていて、あんな風にリディシアを構う辺りが、相変わらずだと思いながらも。ルクシス殿下が続けた言葉に、耳を疑う。


「お前のことは、信用しているんだよ」


 昨晩、あんなことがあったはずなのに。とっくに和解していたのか、と。驚くと同時に、まさかという気持ちが込み上げてくる。リディシアがここまで取り乱したのは、


「ああ、俺のせいか」


 あたしが言うより先に、ユリウスがこぼす。


「ごめんね、悪ふざけが過ぎた。あれは未遂で、俺たちは何もしてない。勘違いさせて、振り回しすぎたね」

「いや……それを言うなら、あたしも先走って、リディシア様に酷いことを」

「落ち着いて」


 今まで見たこともないような落ち込んだ顔をしている彼と、あたしの会話を止めたのは、ルクシス殿下だった。


「僕も悪かったから。だけど遅かれ早かれ、こうなっていたんだと思う。それに」


 それに、リディシアがユリウスに気を許しているのは、事実だから。

 黙ったルクシス殿下の続けたかった言葉が、きっとそうだということは伝わってくる。どうしようもなく苦々しい表情で、彼はリディシアを見ていた。


「で、どういうことなのかは」

「聞かない方がいいだろ」


 クラウスとディードの気軽そうな会話に、僅かに気持ちが楽になる。

 少なくとも今このときに聞く気がさらさらないことくらい、言い方でわかった。あと多分、ディードは面倒くさいんだろう。基本的に楽しむことを第一に考えているから。揉め事があってもよっぽどのことがない限り我関せずだし。兄弟喧嘩に慣れているからか、仲裁は上手いけれど。


「じゃあ、俺はリディシア嬢を連れて行くね」


 抱き上げたリディシアの身体に、ユリウスは少し顔を寄せる。


「うん。すっかり落ち着いているみたいだから、もう心配しなくていいよ」


 ほっと胸を撫で下ろす。去っていくふたりを見送った後、続けてルクシス殿下がいなくなる。去り際に、彼はあたしたちに向けて謝罪の言葉を残した。


「別に、何も巻き込まれてないんだけれどね」

「あたしのときはなー、酷かったからなー」

「あれは確かに酷かったな」


 思い出していたのは、あたしが二人と知り合ってそこそこの期間が過ぎた頃のこと。些細なことで喧嘩になったあのとき、感情が高ぶると同時にああなってしまった。そこに現れたのが、白いローブの青年。


「あのとき、ユリウスがいなかったら、きっとみんな死んでた」


 まだ、あのときには記憶がなかったから、何も知らなかった。断片的に思い出してはいたけれど、性格も明らかに前世に引っ張られていたけれど、対処する術なんてわからなかったし。

 制御できない魔力が身体の外へ溢れて、周囲に一気に発現する。端的に言えばそういう状況だった。

 入学して間もない頃に起こしてしまったあの事故よりも大規模なそれを、初手で抑え込んだユリウスは、事実を知っている人からすれば英雄だと思う。敢えて身バレしないようにローブを着ているところが、彼らしい。


「あいつも大分変わったよな。あの頃はもっとこう、感情の起伏がなかったのに」

「……如何せん、境遇がね」

「それで、結局リディシアさんと何があったの? スノウが女の子を泣かせるとは思えないんだけれど」


 ああ、それ気になってたんだ。いやそりゃあ気になるか、と思う。ディードは変な顔をしていたけれど、クラウスは純粋そうな目をして、首を傾げてあたしに問い掛けた。

 どうして、スノウがそれを言うの? そう彼女は言った。まるで漫画の中のリディシア様みたいな顔で、怒りと憎しみに満ちた目で、泣きながら拒絶されたけれど。

 きっとあれは本心ではなくて。だってあんなに、悲しそうだった。後悔を浮かべていた。


「あんまり、仲良くしない方がいいのかもしれないなって、思うの」


 昨日、忠告された通りに。修復したはずの仲を、また壊してしまった。

 互いに傷付くだけなら、距離を取った方がいい。それでもやっぱり、放っておけなくて。幸せになってほしくて。


「リディシア様、ユリウスに気を許しすぎてるから。もう少し気を付けないとだめだよ、って言っちゃったんだ。ううん、言い方はもっときつかったと思う。……でもやっぱり」


 その元凶は、あたしなんだろうな。そう思う。


「暑いね」

「急に話変わるな、いやまあ暑いけど。もうそろそろ俺たちも行くか」

「そうだね。ごめんねスノウ、変なこと聞いて」

「んーん。気になって当たり前のことだと思う。でもリディシア様たちのことは、そっとしてあげてね」

「わかってるよ」


 うだるような暑さ。汗で制服のブラウスが張り付いて、気持ちが悪い。空調のしっかりしたお屋敷で休めるのが楽しみになるくらいに。

 気を許せる友人に囲まれて、こうして過ごせるのはきっととても幸せなことだ。だから笑顔で、空を見上げる。いやめちゃくちゃ暑いけど。陽の光が煩わしいけれど。


「……」


 本当は少しだけ、残っているんだ。スノウが本来抱くはずだった好意の、僅かな欠片が。だけどあたしは、それを受け入れない。親友のためでも、最推しのためでもなく。

 政略結婚が当たり前のこの世界で、恋愛感情を抱くことがどうなのかということじゃなくて。あたしはただ、自分の人生を生きたいだけ。ヒロインではなく、あたしの人生を生きたいだけ。

 そして同時に、リディシアにもそうあってほしい。幸せになってほしい。

 だからもし彼女が望むなら、どんな形であれ、手助けするつもりだった。誰を好きになっても、どんな選択をしたくても。あたしだけは最後まで味方でいてあげたい。


「殺させないし、死なせないし」

「何物騒なこと言ってるの? 行こう」

「はーい」


 差し出されたクラウスの手を握る。いつもは不健康そうな白い肌が、少し陽に焼けている。それが何だか嬉しくて、自然と笑みがこぼれた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ