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30*

「ねえルクシス。リディシアを俺にくれない?」


 開口一番、そんなことを抜かす男に、うんざりする。


「やだなあ、そんなに睨まないでよ」

「お前こそ、言っていいことと悪いことの区別くらい付けろ」


 ユリウスはやけに優雅に笑いながらも、特に気にした様子もなく話を続けた。


「あの子がああじゃなければ、君はとっくにリディシアを見限っているのにね。あんな女のどこがいいんだ、なんて返すだろうに」

「……ああ、スノウが言っていた、あの話か」

「そうそう。あれが正しいかといえば語弊があるんだけれど。はい、どうぞ」


 手渡された黒のシンプルなマグカップには、なみなみとコーヒーが注がれている。それを一切波立たせずに片手で差し出せる器用さに半ば呆れつつも、仕方がないので両手で受け取った。


「嫌がらせか?」

「うん。この前リディシア泣かせたでしょ? 溢して慌てる君でも見せてくれれば溜飲も下がるかなって」

「誰が溢すか」


 本当に、この男はとことん性格が悪い。だけどスノウを除けば唯一、僕に何も特別な接し方をしてこない相手でもあり、同時に明確な縁のある人物でもある。


「お前、本気でリディシアが好きなのか」


 だからこそ、苦手だった。距離感が掴めず、どこまで踏み込んでいいのかがわからない。そもそも、僕自身がどうしたいのかさえわからなかった。


「好きだよ。見ていたなら、知っているだろう?」


 優しい微笑みを浮かべながら、ユリウスは真っ直ぐにそう返す。一片の嘘偽りもないのだろう、澄んだ瞳で。思わず溜め息が漏れる。


「相手がリディシアじゃなければ、祝福してやれただろうな」

「そうだね。もしそうだったとすれば、君はどんな手を使ってでも、俺のために動いてくれる。ルクシスはさ、何だかんだ身内には甘いから」

「……そんなことは、ないと思うが」


 どうしようもなく、隔たれた関係性。それでも僕らの間には、一種の絆のようなものが存在していた。互いに互いへの接し方を決めかねている中で、しかしこうして話す機会を設けられたのは、ある意味では幸いだと思う。


「僕がお前に確認したかったのは、一つだけだ」

「何かな?」


 全部見通しているはずなのに、ユリウスはそれでも人間らしく振舞う。今もこうして、僕の次の言葉を待っている。優しいのは、お前の方だと思いながらも。


「リディシアのために、死ぬつもりなのか?」


 敢えて確認した。本当に、自分のしたことの重大さを理解しているのか。覚悟をしているのか。そこまで、彼女に入れ込んでいるのか。


「どう転ぶかはまだわからないけれど、彼女のためなら死んでもいいよ」


 頬杖をつきながら、あっさりと口にするユリウスの、不可思議な煌めきを宿した瞳がこちらを射抜く。とっくに覚悟なんてしているのだと言わんばかりの態度に、僕は静かに笑った。

 ユリウスなら、リディシアを幸せにできるのだろう。抱え込んだ後ろめたさも、そうすることで拭えるのかもしれない。それでも、僕はやっぱり、リディシアが好きだった。例え僕のせいで彼女が不幸になるとしても、その手を離せないほどに。自分の愚かしさを飲み干すように、カップの中の液体を喉に流し込む。


「でもね、ルクシス。君は一つ、勘違いをしているよ」

「……何をだ」


 相変わらずの余裕そうな態度。下ろされた銀髪がゆらめく。女性とも男性ともつかない、妖艶な容姿をしたユリウスは、まるで肖像画に描かれたあの女のように微笑んだ。


「俺さ、君のことも大事に思ってるんだよね」


 窓の向こうには、まるで死を体現したかのような仄暗い海と、それに対照的なほど明るく煌めく星空が広がっている。星明りが差し込む部屋の中で、眠る彼女の隣りに腰掛けた。


「リディシア」


 生きている確信が欲しくなるほどに、現実味に欠けた彼女の青白い手に触れる。その柔らかな感触と温かなぬくもりに、息を吐く。

 何と呼べばいいのかわからない、搔き乱された感情。それでも彼女がいてくれるだけで満たされる心と、先の見えない不明瞭な焦燥。本音を言えば、今すぐにでも彼女に問いたかった。だけどそれすらとりとめもなく溢れていく。今だけは、目を瞑ろうと決めていたからだ。

 どうして、彼女なのだろうか。どうして、他の誰かじゃ駄目なのだろうか。代わりなんているはずもなく、必要もなく。


「……今日も君は、怖い夢を見るのかな」


 僕がいてもいなくても、最早関係なく彼女を苛む悪夢。静かな寝顔からは想像もつかず、既に彼女自身はそれに怯える様子もない。受け入れて、諦めたようにも見えた。だけど多少なりとも、苦痛は感じているのだろう。だから昨晩の出来事を、優しいと言えるのだろう。

 死の瞬間の痛みも絶望も、人間は最期の一度しか知ることができないはずだ。だけどリディシアはもう何度も、夢というかたちで体験している。幼かったこの子が病んでしまうほどに。夢の中の、僕の手で。

 この白く透き通った肌を裂いて、奇麗な顔を苦痛に歪める彼女を見て、夢の中の僕は何も感じないのだろうか? そんなことが、有り得るのだろうか。


「僕なら、きっと見惚れてしまうのにね」


 他の誰でもない、僕の手で与えた絶望に、彼女が壊れていく様は、想像するだけで感情を高ぶらせるものだった。勿論、理性がそれを阻むけれど、思い描くだけなら自由だ。

 眠るつもりはなかった。明日から続く公務の都合上、リディシアにはきっとこの連休中は会えないだろう。いや、違う。確かにそれも理由ではあるけれど、実際のところ、会えない理由は他にあった。

 少し腫れた瞼に、キスを落とす。誰に泣かされたんだろうか、と考えて、スノウの目も赤くなっていたことを漸く思い出した。

 喧嘩でもしたのだろうか。浮かんだ疑問に、しかしそれ以上の感情はない。女性同士の友人関係に、口を出す気はなかった。少なくともスノウはリディシアに危害を加えたりはしない。その確信があるからこそ、これ以上考えるのはよそうと思えた。


「……ねえ、リディシア」


 眠る彼女の唇に、なぞるように触れた。柔らかくて、少し湿った、小さな唇。あんなにも無防備に他の男に触れさせる彼女が、憎らしくて堪らない。

 そうっと彼女の唇に、自分の唇を重ねようとして、ぎりぎりで静止する。思い知るだけだ。彼女が僕を愛していない事実を、わざわざ焼き付けられるだけ。

 席を立つ。眠り続ける彼女の姿をもう一度確かめるように見て、手を離した。


「僕は、君が嫌いなのかもしれない」


 波の音が、響いている。


「俺さ、君のことも大事に思ってるんだよね」と、ユリウスは当たり前だと言わんばかりに口にした。想定外の発言に絶句する僕に、そのまま「実はね」と続ける。

 見せ掛けだけ。からかい半分に、唇にキスをしたふりをした。タイミング良く僕らが来たことで、満足したと。その捻じ曲がった性格に呆れるよりも先に、思う。


「どうして、踏みとどまったんだ」


 本当は、そうしたくて堪らないはずなのに。ユリウスの本心を僕は知っている。だけどあいつは、いつもの調子で返す。家族に向けるような、優しい顔で。


「ルクシスを裏切るつもりなんて、ないからねぇ」


 つくづく、どうしようもない男だった。いつも自ら率先して、何もかもを背負おうとする。弱音一つ口にせず、抱え込んだすべてを平然と消化して、自分の想いすらも利用して。優しすぎるんだ。だからあんなに人間性が歪むんだと思いながら。

 同時に、美しいと感じた。その在り方は、僕には出来ないものだから。

 波の音が響いている。眠る気もなければ、ここに留まるつもりもなかった。自由に動けるのは、せいぜいあと数時間。それでもじゅうぶん、やれることはある。


「おやすみ、リディシア」


 魔法が覆い隠していく景色に、彼女は消えていく。

 確かめよう。僕が行き着く先の可能性の一つを。例えそれが、どんな結末であるとしても。選び取れる道を少しでも増やすために。運命に呪われた彼らの結末を。


「あら、随分早いお帰りね。まさかもう私のコレクションになってくれるのかしら」

「馬鹿を言うな」


 嫋やかに笑む魔女は、歓迎するように両手を広げた。漆黒のドレスに纏わりついた歯車の装飾が、時計の針が動くかのように一つ動く。


「教えてくれ。あの塔で何があったのか」


 正しくあれ、と神は言う。だけど人間は常に間違いと共にある。期せずして間違うこともあれば、敢えて道を踏み外すこともある。人間の本質は、善でも悪でもない。そして僕はきっと、今、あるべき道から足を踏み外した。正真正銘、自分自身の意思で。

 興味深そうに目を細める魔女に、その隣りで感情のない瞳をこちらに向ける傀儡。世界の理から外れた空間。時間は実質的に無限だろうが、魔力には限りがある。その法則すらまだ確実に理解してはいない中で、それでも覚悟はしていた。

 リディシアと歩んだ時間が、狂うことを。この破綻した空間に身を置くことが、明らかに間違っていることは知っている。事実、レイドとフィーアの亡骸は、本来であれば同い年のはずの二人の年齢がずれていた。死んだのは同日だとフィーナが断言しているのに。


「人間の好奇心というのは、かくも愚かなものね」


 嘲笑を浮かべるフィーナは、しかしこちらに手を差し出す。万物を見通す目は、宇宙を宿したようにも見える。あいつに似ているのに、まるで違う質の悪さ。決して会いたくはなかったこの女の手に、しかし己の手を重ねる。

 相変わらず、氷のように冷たいその手に、嫌気が差す。それでも踏み込むのは、彼女の言う通り愚かさ故なのだろう。


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