29*
「リディシア様が、他の誰かに孕まされたら、どうします……?」
一瞬、その言葉の意味を上手く咀嚼できず、思考が止まる。
食事の後、何となく席を立たずにいた僕に対して、一度は部屋を出たはずのスノウが戻ってきて、少し気まずそうに対面に腰掛けた。視線を彷徨わせるスノウに「何か用?」と聞いた結果が、これだった。
「どういう意味?」
「え、いやその、あの、えーっと」
しどろもどろになりながら目を泳がせるスノウ。何をどう思って、そんなことを言い出したのか。理解出来ない。
リディシアが、他の男に触れられる。それだけでも吐き気がするのに、彼女が誰かの子を身籠るという最悪の仮定に、どうしようもない嫌悪感を覚えた。虫唾が走る、反吐が出る。そんなことが実際に起きたなら、どうするだろうか。思わず力を込めて握った拳に、爪が刺さる。僅かな痛みは、激情を流すにはあまりに力不足だった。
「いやあの! すみません、失言でした!」
少し怯えたように彼女が頭を下げる。自分が今、どんな顔をしていたのか。考えて、どうでもいいと思えた。どうでもいいだろう、そんなこと。
だけど、彼女が法を犯したなら? そのときどうするか、なんてことは決まっていた。
「リディシアが不貞を働いたら、ってことなら、彼女には罰を与えないとね」
「罰」
戸惑ったような声が、小さく響いた。
「そう、罰。ちゃんと筋は通すけれど、死ぬより辛いんじゃないかな。王族を、それも王太子を裏切ったなら、奴隷に堕とすくらいは出来るんだから」
誰も彼女を庇えない。物として扱われる彼女を想像して、悪くないと思えた。湧き上がった不快さが落ち着いていく。リディシアが、全てを失ったなら。
「奴隷って、それは」
「一生地下牢で飼い殺してもいいし、拷問でぼろぼろにするのも悪くないよね。リディシアが僕を裏切ったなら、そのときは死ぬまで苦しんでもらうかな」
「そ、そんなことには、ならないと、思いますので、あの」
真っ青になりながら、スノウはそう言った。
「そう?」
何かしらの心当たりがあるからこんな話をしたのかと思ったが、訊いたところで答えるとも思えない。そもそも、それはリディシアを問い質せば済む話だった。彼女が話してくれなかったとしても、いっそ魔法でも使えば。その本心くらい、暴くことは容易なのだから。
「その、リディシア様とユリウス、まだ洗い物してますかね! 会いに行きませんか?」
「ああ……」
あいつがリディシアを連れ出してから、大体十数分。彼女の赤い目を思い出す。誰が彼女にあんな顔をさせたのだろう。やけに彼女を気にしていたあの二人のことも、気にはなった。それでも今日は、彼女を自由にしてあげたい。あの屋敷で乱暴に扱ったことへの負い目もあった。
少し様子を見に行くだけ。それくらいならいいだろうか。
「わかった、行くよ」
立ち上がる。机の上に置かれた花瓶が、反動でカタンと揺れた。その衝撃からか、活けられた白い花の花弁が一片だけ散る。どことなく物悲しさを感じさせる光景。何故だろう、目の前にある花がリディシアに似ているように思う。
「あとでリディシアに、聞いておかないとね」
今のリディシアに、恋愛感情なんてものがあるかどうかはわからない。記憶をなくしたとはいえ、段々と過去の彼女に戻ってきているのは確かだ。偶に、空っぽの表情でいることもあるけれど、それでも、良くはなっているはず。例え僕のことを思い出さないとしても。
キッチンの方に踏み込んだスノウが、固まる。何かあったのかと覗き込んだとき、
「っ……」
その光景に、目を見開く。
ここから見えるのは、リディシアの後ろ姿と、彼女に口付けているユリウスの姿だけ。想定外の状況に身体が動かない中で、ユリウスはそのまま彼女の額にキスを落とす。
ふわりと、光の粒子が散る。彼女の背に一瞬だけ、羽根のようなものが見えた。あいつの魔法だと、誰に聞かずとも分かる。
ユリウスが何者なのかを知っている手前、その行為が何を指し示すのかを理解してしまう。それだけの覚悟を決めたということか、と。
動揺したスノウが、壁にぶつかる。その音でリディシアは振り返り、驚きを浮かべた。頬はほんのり赤く染まっている。
いつかの帰り道で、今のように対峙した記憶が蘇る。どうして、こんなにもこの二人が並ぶとしっくり来てしまうのか。
視線を交わしたユリウスは、微笑んでいた。無言のまま、数秒が過ぎたとき、
「リディシア、お皿仕舞っちゃうね。君じゃ手が届かないだろう?」
「あ、は、はい! ありがとうございます」
僕らを無視するように、何事もなかったかのように、ユリウスは皿を片付けて、こちらに向き直る。
「で、君たちはどうしたの? キッチンで何か用事? 俺たちはもう行くから、ごゆっくり」
白々しい態度。相変わらず、こいつの性格は最悪だ。まるで見せつけるかのようにリディシアの肩に手を回す。彼女もそれに少し戸惑いながらも、抵抗はしない。
この二人の関係性を思えば、自然なことなのかもしれない。だけどリディシアはその事実を知らない身だ。つまりは、赤の他人の男に気を許しているということでもあり、
「ユリウス、後で話がある」
「ああ、うん。わかった、後で行くね」
すれ違うそのとき、ただそれだけを口にした。ユリウスはまるで知っていたかのように、すんなりと答えて、彼女を連れ去っていく。
残された僕らは、何をするでもなく、立ち尽くしていた。ここにもう用はない。踵を返そうとしたとき、スノウが僕の手を掴む。
「あの、リディシアは、何も言わずにあんなことをする子じゃ、ないはずで」
「それは君が知っている『前の彼女』の話でしかないよ」
「っ……そ、それは」
スノウはリディシアが好きだ。本当に、心の底から好きなのだろう。ひたすら彼女を庇うし、彼女を想って行動している。何かしらの負い目故か、と思うほど、その執着は強い。
「別に、何もしないから。君が心配しているようなことにはならないよ」
「あたしがどんな心配してると思ってるんですかね」
「さあ」
「さあって……」
そんなこと、わかるはずもない。世界で一番大切な人のことすらわからないのに、それ以外の人間の感情にまで目を向ける余裕なんてあるはずもなく。
「リディシアが何をしても、今日は目を瞑るよ。僕だって、彼女を不幸にしたくはないんだ。だから大丈夫」
大丈夫だ。今日くらいは、大目に見れる。
「そんな冷めた顔しながら言われても。でも、そうしてあげてくれると、助かります。リディシアには、あたしもちゃんと言いますから」
「何を言うつもり?」
「あの子の婚約者は、貴方なんだって。リディシアは、筋を通さない子じゃないはずです。浮気とか、しないと思うんです、それに」
それに、ともう一度彼女はこぼし、
「多分、リディシアが好きなのは、貴方です」
どうしてそう思えたのか。彼女の伝えたいことがいまいち掴めないまま、いつものように慣れた笑みを浮かべる。
「本当にそうだったなら、どれほど良いだろうね」
リディシアと積み上げてきた時間も、思い出も失われた今。悪夢に苛まれるばかりのあの子が、僕に好意を抱くとは思えない。キスを交わしたところで、何の繋がりも生まれないのを目の当たりにして、期待することもできなかった。
それでも、僕が倒れれば看病をしてくれるし、そのまま横にもならずに眠ってしまうくらいには、リディシアは優しい。誰に対してもそうなのかもしれないけれど、思い返して少しだけ、心が温かくなる。
「そろそろ行くね。ユリウスと話してくる」
今度こそその場を後にする。スノウは「あ、はい」と間の抜けた返事をした。
 




