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十年前
「リディシア嬢、体調は大丈夫?」
あの日。彼の手を払い除け、倒れるだなんて醜態を晒した私に、しかし彼は何故か再び会ってくれた。正確には、会いに来てくれた。クラヴゼアの屋敷に、王太子であるはずの彼が出向いてくる。それは明らかに異質なこと。私から、誘ったわけでもないのに。
「公爵に何度か掛け合ってね。無茶を言って君に会わせてもらったんだ。急にごめんね」
「いえ、そんな……こちらこそ、先日は申し訳ございませんでした」
口からはそんな言葉が漏れるけれど、身体は震え、恐怖は隠せそうもない。
「顔色が悪いのは、やっぱり僕が怖いから?」
「えっ、そ、そのようなことは」
「別に隠さなくてもいいよ」
そう言いながらも、ルクシス殿下は微笑む。年齢不相応の大人びた笑みは、だけど以前のような張り付けたものとは、少しだけ違う気がした。
「今日はね、話があって来たんだ」
未だベッドに横たわったままの私を、椅子に座り覗き込むようにしていた彼は、その手でそっと髪に触れてくる。
恋人同士のような距離感。本来なら、着飾ってきっちりお迎えしなければならないような偉い人である彼に、身分で劣る私がこのような体勢でいるのは、彼たっての希望だった。
倒れてしまわないように。無理をしないように。幼い彼女には、王妃という責務は重いだろう、受け入れるのに時間がかかるのは必然だ。と、そんな風に仰っていたらしい。そういった重責ではなく、彼自身へのものであることを、先程の会話を思えば理解しているはずなのに。
優しい人なのかもしれない。そんな彼を恐れるだなんて、あんまりだろう。そうは思えども、拭い去れない不安。彼の瞳から逃げたくて、だけど無礼にあたると心を奮い立たせてじっと見つめる。
きっと、彼はこう言うはず。婚約は破棄する、と。
あんな無礼を働き、挙句ベッドで寝たまま応対するなんて、公爵令嬢としても失格だ。それに軟弱な身体ではとても王妃など務まらない。子を生すという役目もあるのだから。
「君との婚約のことだ」
ああ、やっぱりそうだ。
彼が直接この場に赴く必要など皆無だけれど、書面一つでいいはずだけれど。理由はそれしかないのだから。だけど、どうして少し寂しいのだろう。怖いと思うのに、繋がりがなくなるのは寂しいだなんて、そんな身勝手はあってはいけない。粛々と受け入れよう。それに、安堵だって確かに感じて、
「婚約は継続する」
いる、のだから。
心の中で唱えていた言い訳が、彼の言葉で止まる。
今、この人は何と言っただろうか。
「こ、婚約を、破棄するのでは」
思わず口から零れ落ちた言葉に、しかし彼は首を傾げた。
「どうして? 僕はこんなにも君を気に入っているのに」
その意味を理解するまでに、数秒を要した。きっと今、私は滑稽な顔をしているだろう。戸惑いながらも、彼に訊ねる。
「気に入っている……?」
「言葉をそのまま受け取らない姿勢は大したものだね。だけどこれは本心だよ、僕は君を気に入っている。他の男に渡す気なんてさらさらないし、君は僕のものだ。公爵も納得している」
「お父様が、ですか?」
信じられない気持ちでいっぱいになった。
あんなにも、王太子殿下との婚約はご遠慮したいと話し続け、わかった私からも話してみようと言ってくれていた、あのお父様が。どうして。
「随分嫌がってくれていたようだけれど、逃がす気はない。だから」
そのことは知られているのですね! 心の中で叫んでしまう。知っているからこそ、気に障ったのかもしれない。たじろぎながら、少しずつベッドの逆側に逃げ、視線を彷徨わせる私の手を、ルクシス殿下が掴む。
ああ、どうしよう。心臓が煩い、そして何より怖い。
「だからさ、これからは婚約者同士、ゆっくり距離を縮めよう。怖がっているリディシアも可愛らしいけれど、君を惚れさせられるように僕も頑張るから」
初めて見た、その笑顔に、目を見開く。
嘘も偽りも、打算も計算もない。優しいその笑みは、紛れもなく私に向けられていて。だから、思ったのだ。ちゃんと、彼に向き合いたい、と。
頷けば、嬉しそうに握った手を自分の頬にくっつけ、約束だからねと言う。そんなルクシス殿下はかっこよくて、だけどどこか愛らしくて。まるで甘えてくれているようで。怖さなんて感じない。あのときばかりはきっと、私たちは婚約者らしい、そんな空気のなかにいただろう。
だけど、駄目だった。
その日の夜。夢を見た。こちらに直接語り掛けてくるような、彼の姿。そのままじゃないのに、本人だとわかる。面影どころじゃなくて、きっと彼が大人になったら、こんな風になるのだと。確信めいたものを感じた。
「あんな言葉を信じたの? 君みたいな醜い人間が、愛されているとでも思ったの」
「……ルクシス、殿下なのですか」
冷たく見下ろす彼は、私の腹を蹴り上げる。痛みはない。身体は跳ね、口からは血のようなものがこぼれた。
あれ、どうしてこんなことになっているんだっけ。
わからない中で、彼の言葉だけが耳に、刻むように響く。憎悪に満ちた、真っ黒な声。今まで聞いたこともないくらい、冷たくて。どうにか見上げた先の、彼の表情は。
枯れていく。感情が、音も立てずに崩れていく。きっと忘れることなんてできない。ひとはこんなにも、空虚な顔をするのだと。
「君はスノウを傷つけた。それも執拗に。だからその報いを受けろ」
「す、のう……」
誰だろう、だけど聞いたらきっと、もっと怒るんだろうな。その人のことが好きなのかな。ああ、なら私は。きっと。
「潔く死ねば、公爵家にはこれ以上の罪を問わない。さあ」
振り上げられた剣の、刃が鋭く光る。
それが勢いよく、首へと振り下ろされて。
「死んでくれ」
何色でもない、昏い声音。灰色に沈む。ああ、どうしてこんなことに、なってしまったんだろう。わからない。ごめんなさい。
目が覚めたとき、泣いている私に気づいたメイドのレインが、必死で手を握ってくれていた。
「泣かないでくださいませ、お嬢様。怖い夢だったのですね、でももう目は覚めましたからっ!」
彼女まで泣きそうになっていて、申し訳なくて、だけど包まれた手が温かくて。
「ごめんなさい、レイン。もう大丈夫だから」
自分は生きている。そう安心することができた。
だけど、どうしてなのか。その夢は毎日、毎日毎日、眠る度に見るようになった。都度、少しだけ彼の言葉は変わり。だけど結末は変わらない。
流れ落ちていく自分の血と、死の際に置き去りにして他の女の元へ向かう彼の姿。そして、
「君が死んでも、誰も悲しまない」
いつからか、そんなことを言われるようになった。いつからか、痛みを感じるようになった。徐々に、こころが悪夢に侵食されていく。現実さえ浸食していく、灰色。
もう、目が覚めても涙は出ない。だけど、笑うこともない。心配する両親や使用人達に、ぎこちない作り物の微笑みを向けながら、日々を消化していたある日。
「久しぶり、リディシア」
ルクシス殿下が、私を訪ねてきた。