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あれから数日が経過したけれど、何事もなく学園生活を送れている。
授業中。先生の話す魔法学論についてノートに纏めながら、ふとスノウに目を向ければ爆睡していた。彼女は特待生であり、身分は私たち貴族より下位だけれども、潜在的な才能は規格外だ。しかし、これは……。
とはいえ、すやすやと気持ちよさそうに教科書に隠れて眠る彼女を起こそうとは思えず。ちらりと逆側を見てみれば、ルクシス殿下と目が合った。
慌てて逸らす。まさかこちらを見ているとは思わなかったから、驚いて心臓が騒がしい。
入学式の夜。やはり殿下と添い寝をせざるを得ない状況に諦観しつつも、あの件については問い質した、けれども。
「キスマークってどういうことですか……!」
「その赤い印のことだよね。眠っているリディシアが無防備に誘うものだから、つい」
「誘ってないです! それに、胸元とか、内腿にまでありましたけれども、まさか」
「起きないリディシアが悪いんだよ」
「何で私のせいにするんですかっ!」
破廉恥が過ぎるその行為を咎めようとしたものの、飄々と躱され甘やかされ、結局疲れ切っていたために流され眠ってしまい、目が覚めればキスマークは増えていた。
それ以上は何もしていないと言うので、とりあえず見えにくいところならと許容してしまったけれど、いいのだろうか。良くないはずだけれども、彼と眠るようになってから夢も見ず、体調も安定して、お世話になっているのも事実で。
我儘のひとつやふたつくらい、受け入れないと失礼な気がして、許してしまった。
そうして今日も何だか際どい部分に赤い痕が増え、しかし人目にはつかないので恥ずかしいだけで済んでいる。
この事実を知ったシロネたちメイド組は、それはそれはニヤニヤと笑っていたけれど。
「………ふぅ」
チャイムの音。先生が終わりの挨拶をして、漸く五限目の授業が終わる。
それを合図にスノウは伸び、スノウの友人たちは彼女の方へと向かってきた。ルクシス殿下はといえば、私の手を取り「帰ろうか」と言う。
「あれ、リディシア様。もう帰っちゃうんですか?」
「そ、そうね。うん」
「明日は実技テストですから、リディシア様の魔法見れるの楽しみにしてますねっ!」
笑いかけてくれる彼女に、そして彼女の周囲に集まりきっと一緒に寮へ向かうのだろうふたりに挨拶を済ませて、ルクシス殿下の隣りを歩く。
赤い髪の彼はディードリヒ、青い髪の彼はクラウスというそうだ。自己紹介では流石に全員の名前を覚えたりはできなかったので、直接教えてもらった。
スノウは女性に友人はいないようで、クラスメイトともどこか距離がある。授業中に眠っているくらいなので仕方ないのかもしれないけれど。
そしてそれは、私も同じ。誰かと話す機会すら殆どないし、いつも隣りにルクシス殿下がいるので無理もないとはいえ。馴染めていないなと思う。
殿下はといえば、誰とでも自然に、分け隔てなく笑顔で接するものの、瞳の奥はまるで笑っていない。つまらなさそうに見えた。
そして、彼を慕う女生徒からの嫌な空気は、時々感じていた。
「…………あ、」
靴箱を開くなり、中身がからっぽになっていて、思わず眉を顰める。
やっぱり、こういうことが起きるのだなと。だけどこれがルクシス殿下に知られれば、きっと彼は犯人を咎めようとするだろう。
悪夢の中で、自分が犯した過ちに似た間違いを繰り返すことになる誰かがいるのなら、できれば止めたい。止められなくても、せめて隠さないと。殺される対象が変わるだけだったらと思うと、言えるはずがなくて。予備で鞄に忍ばせていたそれを、彼に見つかる前に取り出して履いた。
「帰ろうか、リディシア。歩けそう?」
「は、はい。今日はとても、元気なので」
下駄箱の位置が少し違って死角になっていることに安堵しながら、下校する。しかし、翌日靴箱を開けば、そこにはなくなったはずのローファーがあった。
「盗んだ人が、戻したのかな……?」
よくわからないけれど、とりあえず両方を鞄に忍ばせておいた。鍵付きのロッカーに放り込んでおこう。靴だってただではないのだから、大事にしないと。
それを陰から見ていたスノウの、困惑を浮かべたその顔を、私が見ることはなかった。
実技テストとは名ばかりの、魔力の質を測るための水晶に触れるだけの行為。それでも触れれば魔力が流れ、魔具である水晶から魔法が発動する。
ひとり、ふたり。進んでいく素養の確認。魔法学園でのこのテストが終わるまで、普通は魔法を使ってはいけないのだけれども、スノウは使ってしまっているらしい。だからここに来ることになったのだ。
そして、殿下はといえば既に日常的に使っているし、そもそも彼はこのテストは免除されている。それは国の都合なので、特に何も問題はない。
私の番はスノウの次で、だけどそのスノウは。
「リディシア様、お願いがあるんです。……あたしの素養の確認が終わるまで、私に近づかないでほしいんです。可能な限り遠く、離れてください」
「えっと……どうして?」
「お願いします。何も聞かずに距離を取ってください。できれば、殿下の近くで」
どこか、不安と覚悟を綯い交ぜにしたような顔で、私をとん、と後ろへ押す。
「絶対ですから!」
ルクシス殿下のところにいろという彼女の言葉の意図はわからないけれど、一先ず並んでいるはずの列を外れて彼のところに向かう。
「リディシア、どうしたの? 体調でも悪い?」
「いいえ、ただ……その、スノウが離れてって」
「スノウが……?」
怪訝な顔をしながら、今ちょうど魔法水晶に触れようとしているスノウにふたり、視線を向ければ―――
パァン!
大きな音を立てて、何かが破裂する。
煙が溢れて、目も明けていられない。蹲る中、走り出す殿下を見た。
咳込みながら身体を起こす。煙が霧散する中で、向こう側にいたのは。
「スノウ……ッ!」
何が起きたのか。見ればわかる、明らかに事故だった。
スノウは触れたはずの右手を腕まで真っ赤に染めていて、殿下がそれを治癒魔法を用いて抑え込んでいる。魔力の暴走と呼ばれる、一歩間違えば当人の命を奪うような事故。
それが起きたのだと理解して、私は約束を破って立ち上がり、そちらへ向かう。
「殿下、スノウは……っ」
「来るなって、言ったでしょっ! 逃げて!」
「え……?」
気づかなかった。
水晶の事故は、魔力の素養が桁違いの者が極稀れに起こすもの。だけど水晶は、魔法を発現させるものだから、割れても発現した魔法はそのまま。
見上げた空に、光り輝く白い槍を見た。それが、降ってくる。
恐怖に硬直した身体は動かない。誰かが叫んで、スノウが殿下を払い除けて、必死で魔力制御を試みる。
全てがスローモーションのように見えた。
降り注ぐひかりに呑まれる。これは、これは何だっけ。知っている気がする。
知っていた気がする。これは、確か……。
落ちてきたそれに、潰される感覚は確かにあった。
駆け出してきたスノウが私の手を取る。何事かを詠唱する彼女から、膨大な魔力の流れを感じた。
何だっけ。この事故を知っている。それは確か、物語の冒頭で。
彼女は、王太子を瀕死状態にしてしまったんじゃ、なかったっけ……?
行き場を失った血液が、あちこちからこぼれていく。ああ、これはもう助からないなあとわかってしまった。身体が冷たくて、熱が奪われて、届かない。そんな中で、彼女の魔力だけが命を繋ごうと絡まりあって、こちらに働きかける。
「リディシア様、意識をしっかり持っててください! 絶対、助けますから……ッ!」
スノウの顔は蒼白で、彼女の腕からは今も絶えず血が流れている。自分だけじゃなく、彼女も危ないかもしれない。多分、私はもう助からないし……何だか、周囲も真っ赤だし。
だけどスノウは諦めず、その手に誰かの手が上から重ねられた。
それが、自分の初恋の人のものであることに、気づきながら。遠のいていく意識の中、一瞬だけルクシス殿下のぬくもりを感じて。
それを合図に、意識を手放した。




