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昔から、ルクシス殿下のことが怖かった。
思い出すのは、初めて会ったあの日。
五歳になって間もなくの冬。婚約者が決まったと嬉しそうに話す両親に連れられ、顔見せとして王城を訪れた。
謁見の間で待っていたのは、国王陛下と王妃殿下、そして物静かな黒を纏う少年。まるで張り付けたかのような作り物の笑みを浮かべながら、彼は予め決めていただろう言葉を口にする。
「初めまして、リディシア嬢。私はルクシス。この国の第一王子であり、貴方の婚約者だ」
そう言って差し出された手を、気づいたときには払い除けていた。
怖い。漠然と湧き上がった恐怖と鈍い頭の痛みに、足元から崩れ落ちる。
取り乱す両親の悲鳴と謝罪も、それを宥めこちらを気遣う国王陛下と王妃殿下の言葉も、雑音のように処理しきれないまま耳元を通り過ぎてゆく。
ぼろぼろとこぼれる涙を拭ってくれたのは、ルクシス殿下だった。
王太子殿下である彼の手を払い除け、婚約者としての顔見せで取り乱した私に、しかし彼は咎めることもなく。
ただ、何一つ感情を見せない深い青を宿した瞳に、私を映していた。
あれから、もう十年が過ぎた。
私達の関係は無機質で、彼と過ごした時間を振り返ろうとも、会話らしい会話は殆どない。
何色にも染まることのない漆黒の髪が風に靡く。こちらを見つめる瞳は深海のように暗く濃く、だけどその奥の私の姿は酷く滑稽だった。
彼と分かり合うことはできない、隣りにいること自体が烏滸がましいのだ。
そんなこと、誰に言われずともわかっていた。
わかっていたとしても、夢に見る。何度も、何度も。繰り返し、夢に現れるルクシス殿下は必ず成長した姿だった。魔法学園の制服を纏う彼は、毎夜呪いのように私を否定し、私を拒絶し、私を憎悪する。
現実と夢の境目がわからなくなり、屋敷に引き籠るようになった私を、それでも婚約者に据え続けるのは何かの罰なのだろうか。
ルクシス殿下は頻繁に私の部屋を訪れた。壊れかけの私の側で、ただ静かな時間を過ごす。時折、ベッドへ横たわる私に何事かを語り掛け、必要ならば答えるだけの不明瞭な繋がりは、学園に入学するまで終ぞ変わらなかった。
夢の中の彼は、いつしか見知らぬ少女と笑い合うことが増え、しかし夢の最後には必ず私を蔑みながら、手に掛ける。自分の中からこぼれていく赤は、やけに鮮明だった。
だけど、どんなに恐ろしいものも、繰り返す内にいつしか日常へと置換されてゆく。
悪夢に慣れて。彼の見えない心の奥では、きっと嘲られている事実をも諦めて。
何故か同じ部屋で、同じ時間を過ごしているルクシス殿下に、違和感を覚えなくなって。
やがて、夢の通りになる前に終わらせたいと願った。
魔法学園への入学まで後数年を残したあの頃。幾度か婚約の解消を申し込み、だけどそれに了承しては頂けぬままに。
「国の将来を左右する問題を、君の我儘一つで許すことはできない」
両親は「殿下ならお前を幸せにしてくれるはずだ」「首を縦に振ってくれるとは思えないが、お前の意思は尊重する」と、難色を示しながらもその話を何度も、国王陛下を介しルクシス殿下に掛け合ってくれた。
その都度、返される言葉は直接彼の口から聞かされるのだ。淡々と、機械的に紡がれるその理由に、公爵家の娘である私が抵抗する術はなかった。
十年間、溝を深め続けた原因の一端は、この行いかもしれない。だけど間違ってはいなかったはず。
だって彼には、好きな人ができたのだから。
国立魔法学園。この国の貴族の大多数が通う全寮制の学園に入学してきた、非凡な才能を持つ学年主席の庶民の少女。名前はスノウ。
彼女と殿下が親密であるという噂は、半年以上前から囁かれてきた。
そして実際に、ふたりの逢引を見掛ける機会があったのだ。
何処から連れてきたのか。茶色い猫を抱きかかえる、桃色の髪を二つに結い上げた可愛らしい少女・スノウと、スノウに何事かを語り掛けているルクシス殿下。
夢の中の光景そのものが、そこにあった。
ルクシス殿下は夢と寸分違わない姿に成長し、隣りに立つスノウもそっくりそのまま。夢が現実になった瞬間、感じたのは酷い虚無感で。
だけど、彼が優しい笑みを彼女に向けていることに気づいたときには、どうしてか心臓がズキリと刺されたかのように痛んだ。
ああ、きっと彼は彼女が好きなのだと。
それこそ、夢の通りに。
ルクシス殿下とスノウは、遠目に見てもお似合いで、敵わない。思い知った後に掛ける言葉も見当たらず。顔も合わせず、その場を去った。
婚約者とは名ばかりの、形を為さない関係。
それが私と彼の間柄であり、十年を経ても中身は空っぽのまま。
いつか終わりが来るのだと、そう思いながら。その場限りの繋がりで、あの日からずっと求められた役割を演じてきた。
だからこそ、思いもしなかったのだ。
彼がこのような強行に及ぶことも、その瞳の奥に何を秘めているのかも。
横たわる私の上に、覆いかぶさるルクシス殿下。此処が何処なのか、どうしてこのような事態に至っているのか。
何一つ、理解すらできない中で、彼を見上げた。
濃紺の瞳が静かに揺れる。映り込む自分の姿は、見えるようで見えない。
彼の手が、撫でるように頬を滑る。まるで存在を確かめるかのように私の形を辿りながら、ルクシス殿下は語り始めた。
「ずっと、耐えてきたんだ」
ぎこちなく笑う殿下は、酷く痛々しい。
こんな顔をするのだと、初めて知った。私は彼のことなど何も知らないのだから。
知る権利すら、ないはずなのに。
「君は運命を信じる?」
その問いは、どこか既視感のあるものだった。
彼に出会ってから、ずっと朧気ながらに感じてきた違和感。関わってはいけない、恐ろしいという、焼き付けられたかのような負の感情。
そして、夢の通りになってしまったルクシス殿下と、スノウ。
これが運命じゃないというのなら、なんと呼べばいいのだろう。
動かそうとした唇は、しかしぴくりとも動かない。
彼は答えない私を気にも留めずに、言葉を続けた。
「僕にとっての運命は君だったんだ。例え、君にとっての僕が、取るに足らない有象無象の一欠片だとしても」
有象無象。
彼をそう表現できる人はいないだろう。大国の王太子であり、未来の要であるその人なのだから。
重苦しく痛む頭と、覚束ない意識の中で、彼の声はそれでも先を繋いでゆく。
「ずっと、いつかは君を手に入れると、君の意思で僕を選ばせると。そう思って耐えてきたんだ。随分無茶をした。公爵には生涯頭が上がらない。僕の我儘を、娘の幸せを願いながらそれでも聞き入れてくれたのだから」
お父様……?
語るルクシス殿下は、どうにも自虐的に見えて。自然な動作で私の髪へ手を伸ばし、そのすらりと長い指で優しく梳いた。
「だけどもう、どうでもいい」
諦観。彼が力なく微笑み、告げてゆく想いが、上手く咀嚼できないままに。
それでも、張り詰めていく空気は肌に刺さり、彼の淀みは浮彫りになっていく。
「リディシアがどう思っていても、もうどうでもいい。王位継承権も放棄する。ここまで過ちを重ねてしまった私には、既に国を継ぐ資格はないしね」
彼が語る言葉は全て、あるはずのないものだった。
少しは知っているつもりでいたのに、やっぱり彼のことは欠片も知らなかったらしい。彼の語る事柄を、欠片すら読み取れないのだから。
その真意も、この行動の理由も、断片すらわからない中で、だけど私たちの関係はとっくに壊れ切っていることだけを理解した。
狂気を内包した酷く冷たい視線が突き刺さる。
「君はもう、何処にも行けない。行かせはしない」
髪を梳いていた手が、くるりと背中へ回される。
哀しそうに、だけどどこか安堵したように、彼は私を抱き寄せた。
動かない四肢に阻まれ、受け入れることも、拒絶することもできないまま。
彼の腕に抱かれながら、聞いたのは。
「リディシア。どうか、全てを諦めて、受け入れてくれ」
懇願のようでいて、運命を告げるかのようで。選択権など与えるつもりもない、命令とも取れる声音。
冷酷さを滲ませる彼は、夢の中で私を咎めるあの人によく似ていて。
だけど、鈍く痛む頭の奥で、もうひとりの「わたし」が警告する。
それはとっくに、意味を成さぬ虚像でしかないのだと―――…