ツバキvsフィレル〜決着
「ホイサー兄弟!戻れ!戻れえ!」
フィレルが叫ぶ。その声を聞くまでもなく、銅鑼が鳴り始めた時点でホイサー兄弟を筆頭とする西軍攻撃部隊は自陣へと戻り始めていた。敵に旗を奪われた時点で、これ以上攻撃を続ける意味を消失しているからだ。西軍が勝つ方法はただ一つ、奪われた旗を取り戻す以外になくなっていた。
――早々にエマ・リッツを潰しておくべきだった。
――もっと早い段階で攻撃部隊の一部を防御のために戻しておくべきだった。
――いや、最初からもっと防御を固めていれば。
さまざまな考えがフィレルの脳裏に浮かぶ。しかし、全て手遅れだった。そして後悔に浸り続ける余裕は彼女にはない。
「逃がすか…!」
エマを完全に振り解けないままに椿の後を追う。例え追いつけなくとも、僅かでも重圧を与えられればそれでいい。
椿は後ろを振り向いた。決して速くはないがフィレルは確実にこちらを追ってきている。再び前方に目を戻せば…前からは、西軍攻撃部隊の13騎がこちら目掛けて疾走してきている。まだ距離は遠いが――勢いは凄まじい。後ろに戻る事は許されず、かと言って前に進むのも危険な状況だ。
――カーン。
六度目の銅鑼が鳴る。残り12秒。
「ルボルよ!」
マルセル・ホイサーは、まさに猪突猛進といった勢いで駆けながら、隣を走る弟に声をかけた。他の西軍攻撃部隊は遥かに後方だ。ホイサー兄弟の速度についていけないのだ。
「いかがした兄者!」
「儂は左から行く。お主は右から叩け」
「応よ!」
そう答えた瞬間、ちょうど銅鑼が鳴った。これで七度目。残り時間は僅かに9秒。しかし、9秒あればギリギリの所で椿に追いつく事ができる距離だった。そして追いつきさえすれば一撃でカタがつく。ホイサー兄弟の戰斧に対し、椿は為すすべもないだろう。
八度目の銅鑼が鳴る。残り六秒。椿に向け、後方からはフィレルが、前方からはホイサー兄弟が迫る。椿は右に進路を取った。しかし、
「無駄な事よ!」
その行動は読まれている。どちらに逃げてもいいよう、兄弟は左右に別れていたのだ。マルセルが椿に迫る。九度目の銅鑼。残り3秒。マルセルと椿の距離は、すでに5mを切っていた。突撃中の騎馬であれば、息を呑む間に近付ける近さだ。マルセルは戰斧を振りかぶる。
(この一撃で決める!)
マルセルの丸太のような腕に力が込められる。戰斧が椿の体に迫る。その時――斜め後方から一人の騎士が稲妻のような速さで駆け寄り、マルセルに体ごとぶつかっていった。
「ぬおっ!」
体勢を崩し、マルセルの斧は空を切る。マルセルに体当たりを仕掛けたのは――、
「カイさん!」
椿が叫ぶ。後方から駆けてきたのは、カイ・ネヴィルだった。剣を捨て、満身創痍の体でホイサー兄弟に追い縋ってきたのだ。
「ツバキ!まだだ!油断するな!」
カイが声を振り絞った。
「ぬおりゃあああ!」
兄に遅れて、ルボル・ホイサーが迫る。十回目の銅鑼が鳴るまであと1秒か、それとも0.5秒か。いずれにせよこれが最後の一撃――ありったけの力を振るい、戰斧を振りかぶる。
椿は――逃げなかった。自分の未熟な馬術では回避するのは不可能だと分かっていた。それよりも為すべき事があった。渾身の力を込めて、旗を抱きしめ馬にしがみついたのだ。
椿が身に纏っているのは、頑強な板金鎧ではない。簡易的な鎖帷子だ。戰斧の一撃を喰らえば、良くて骨折。運が悪ければ命にも関わるだろう。けれど、どれほどの傷を負う事になろうとも旗を手放す気は無かった。兵達が戦い、エマがフィレルを引きつけ、カイが傷つきながら耐えてくれたからこそ手にする事ができた勝利への道。それを手放す事は絶対にできなかった。
戰斧が迫る。息すら止まる恐怖が椿を襲う。それでも旗は手放さない。絶対に。衝撃に耐えるため、身をこわばらせた。そして、1秒、2秒、3秒――。
「え?」
椿は顔をあげ、周囲を見回した。自身を襲うはずの戰斧は、振りかぶられた状態で停止していた。そして、突如鳴り響く勝利を告げるファンファーレ。
椿自身は無我夢中で気がつかなかったが――戰斧が振り下ろされるその直前、最後の銅鑼が打ち鳴らされていたのだ。
「ツバキっち…」
エマが駆け寄る。
「…ツバキ」
カイが小さくツバキの名を呼ぶ。二人の声には、安堵と達成感、そして椿に対する労りが込められていた。
旗を奪っての30秒逃げ切りは達成された。ツバキ率いる東軍は、クロエ・フィレルの指揮する西軍に勝利したのだ。




