大要塞
「はっ!やあっ!」
椿はアンスバッハ邸の庭で剣を振るっていた。温泉地での湯治から、すでに10日程経っている。
(あれは地獄だった…。いや、本当なら天国だったって言うべきなんだろうけど…)
いずれにせよ、椿にとっては刺激が強すぎた。
(よくハーレム物で主人公が女の子に囲まれて楽しく過ごす…ってのがあるけど、あんなの無理。少なくとも、僕には…)
しかしそれはそれとして、エレオノールのマッサージと温泉の効能は確かなものだったらしい。あの日以来、体の調子はすこぶる良い。エレオノールの指導もあって、剣を振るのも少しは様になってきた…と、自分では思っていた。
(もちろん、僕が役立つべきは直接の戦いじゃなくて解析を使った分析。それは勿論。分かってる。だけど、)
剣を振り下ろす。「ひゅっ」と風を斬る音が聞こえる。
(人並みに戦えるようにならないと、エレナの足を引っ張っちゃうからね)
いつまでもエレオノールにくっついていては、彼女が全力を出す事ができない。せめて自分の身を守れるだけの剣技、それとできれば馬術も身につけておきたかった。
(しばらくは聖都に滞在する事になるみたいだし、エレナが暇な時に馬の乗り方を教えてもらおう)
そんな事を考えていると、アンスバッハ邸の前に馬が止まり…軽装に身を包んだ兵士がこちらに声をかけてきた。
「アンスバッハ公爵はご在宅でしょうか」
一瞬、アンスバッハ公爵って誰だっけ…?と考え、それがすぐにエレオノールの事だと思い至る。軍務中は基本『エレオノール百騎隊隊長』とか『アンスバッハ殿』などと呼ばれていたが、私的な時間は公爵として接する…という事らしい。
「はい、エレナなら…エレオノール百騎隊隊長なら、在宅中です。呼んできましょうか?」
「ああ、それは良かった。お願いできますか。大要塞からの使者とお伝えください」
「分かりました、それじゃあ、少し待っていてくださ…」
と言って屋敷の扉を開け中に入ろうとして…何かにぶつかった。むにゅ、柔らかな膨らみが頬を包む。顔を見上げれば…そこにいたのはエレオノールだった。ちょうど外に出てきた所らしい。
「ああ、ツバキ。すまない」
「う、ううん。僕の方こそ」
慌てて飛び退いた。
「ん…?こちらの方は?」
門前に立つ兵へと目を向ける。
「アンスバッハ公爵でございますね」
兵は敬礼した。エレオノールも敬礼を返す。
「ああ、その通りだ」
「大要塞司令部からご連絡です。アンスバッハ公爵に御用があるのでお越しくださいとの事です」
セリュリウス聖王国の首府たる聖都は、四つの区画に分ける事ができる。
まず、ウォルツシュタイン城を取り囲むように門閥貴族の屋敷が聳え立つ権力の中心地、中央部。
門閥ではない貴族の屋敷、または門閥貴族の別邸が並ぶ北部。
西部から南部にかけては庶民が多く住み市場で賑わう市街地。
そして、西部はその区画丸ごとが城壁に囲まれる軍人の町、大要塞となる。
椿とエレオノールは、その大要塞の中を歩いていた。
「区画丸ごと城壁に囲まれてるなんて凄いね…」
「元々はここが聖都の中心だったらしい。七大国が成立する前の、戦乱の時代の話だね。けれど世の中が平和になって、ウォルツシュタイン城が建てられ…そこが新たな中心となったという訳だ」
「広くて、結構ゴチャゴチャしてて…僕ひとりだったら迷いそう」
「ここは北部要塞と並んで、聖王国でも特別巨大な要塞だからね」
要塞の中は、兵の暮らす兵舎、食料や武具を貯蔵する倉庫、軍馬を飼う厩舎などがひしめいている。しかもそのどれもが灰色の煉瓦に赤茶けた屋根という、同じような外観で…ふと、自分が同じところをぐるぐると回っているような錯覚に陥る。
「だが、迷いそうな時は、あれを目印にすればいい。ほら」
と言って、エレオノールは前方斜め上に目を向けた。そこには、同じような外観の建物の中でひとりだけ自己主張するかのように青色の尖塔が四本突き立っていた。
「あの塔の中心が司令部…キルヒナー城だよ」
キルヒナー城は、戦乱の時代に建てられたというだけあって無骨な印象を受ける建物だった。中に入ると、二人はしばらく待たされて…その後、部屋に案内された。部屋の中では顔色の悪い男が椅子に腰掛けていた。
「ふん。久しぶりだな、アンスバッハ隊長。それと…ツバキ・ニイミだったか。まあ、座れ」
椿は記憶を掘り起こし、その男が誰だったかなんとか思い出す。確か、防衛軍が結成される前…元々のヌガザ城砦の司令だった人物だ。確か、名前はバスチアン・シラー。
「特級騎士勲章を賜るとはお手柄だなアンスバッハ隊長。そして、ツバキ・ニイミ…あの子供が、まさか第二等騎士勲章とは…」
バスチアンは椿の顔をまじまじと眺めた。
「それに比べ儂はなんと落ちぶれた事か。今はここで要塞司令官にこき使われる毎日だ。聖都の我が家に帰っても、カミさんも娘も儂がおると家が辛気臭くなると抜かしおる。儂が城砦に赴任され家におらんかった頃の方が楽しかったとよ。…なんで儂がそんな事を言われにゃならん。おい、ツバキ・ニイミ。何とかしろ」
「…」
(そんな事言われても…)
返答に窮した椿だったが、バスチアンもこの話をこれ以上続けるつもりはなかったらしい。話題を転じた。
「しかし、今日呼んだのはアンスバッハ隊長だけなんだがな。なぜツバキ・ニイミもついてきた」
「ツバキは私の軍師です。彼の助言あってこそ私は先の戦いでも務めを全うする事ができたのです。だからこそ、この度も椿に同行してもらいました。どうやら、新たな任務についてのお話のようなので」
「ふん。察しはついているか」
「どのような内容の任務か、までは予測できていませんが」
「貴公にはヌガザ城砦に赴いてもらう。今は懐かしき、儂の城だな。ふん」
「…どういう意味でしょう」
エレオノールも椿も命令の意図を理解しかねた。ヌガザ城砦はすでに帝国軍の手に落ちている。城砦の中は帝国兵で溢れかえっているだろう。今さらそこへ行って何をしろと言うのだろう。
「安心しろ。今から城砦を奪還せよなどという無茶な話ではない。実は数日前、帝国から打診があってな。我が国の首脳部と会談を開きたいとの事だ。聖王国はその話に乗った。我が国からは、大臣のビューロー宮廷伯が派遣される事になった。会談場所は、ヌガザ城砦だ」
「いったいどのような狙いがあっての会談なのでしょう」
「休戦協定でも結びたいのだろう。帝国は西にも敵を抱えているからな。今度はそっちを叩きたいんじゃないのか」
「城砦が陥落してからまだ一月と経っていないにも関わらず、ですか…」
「戦争なんてそんなもんなんじゃないか。ま、それはそれとして…だ。本題に入ろう」
バスチアンは血色の悪い顔を突き出した。
「ビューロー宮廷伯は敵地に乗り込む事になる。まさか向こうも手を出してきはすまいが…敵地には変わりない。護衛が必要だ。その任務を貴公に任せる。これは上の決定だ」
「…私が、ですか?百騎隊隊長如きが大臣の護衛など…」
「ああ、その点に関しては心配するな。護衛役のトップは貴公ではない。それは…」
と言いかけた所で、部屋の外から声がかけられた。
「お話中の所失礼します。聖騎士の御二方が御到着されました」
「おお、そうか。こちらへお通ししろ」
「聖騎士…?聖騎士七騎が来られているのですか?確かあの方達は東方戦線に赴いていると聞いていますが…」
「それが、故あって二名程聖都に滞在されている。今回の護衛のトップはその二人だ。貴公は、その補佐役として働いてもらう」




