怪物
椿の放った一撃は決して悪いものではなかった。刃筋は立ち、速度も乗っていた。少なくとも今この瞬間の椿にとって最高の一振りだった。だが、腕力が足りなかった。そして何より…相手は、怪物だった。
(なんっだ…これ…!)
椿はこの数日の間剣を振り続けてきた。その中で、束ねた藁や木材などに対して剣を振る稽古…いわゆる試し斬りも行ってきた。しかし、ジークフラムの頭蓋骨は今まで椿が斬ってきた何よりも硬質だった。
巨躯でありながら俊敏…そんなジークフラムの運動能力を支えていたのは、骨の太さと骨密度の高さ。頭蓋骨ひとつ取っても、常人とは比べ物にならない程に厚く、硬い。
「調子に乗ってんじゃァねェ!」
ジークフラムはユンカースに蹴りを叩き込む。
「がはっ…!」
血反吐を吐きながら吹き飛ばされる。
「ザコがァ!」
竜の咆哮を思わせる怒声を発しながら、左手で椿の首を掴んだ。そして持ち上げる。頭に受けた衝撃のためか、一瞬目の前が揺れる。頭から滴る血で、片目が塞がれている。しかし問題は無かった。2秒。必要な時間はそれだけだ。ジークフラムが渾身の力で椿の細首を握りしめれば、まるで枯葉でも握り潰すような容易さで彼の気道を潰し首の骨をへし折る事ができるだろう。
怪物は腕に力を込めた。
「かはっ…あっ…!」
首が絞めつけられる。椿は、己の首筋に死神の鎌が触れたのを知覚した。その瞬間、
「ツバキ!」
エレオノールの抜き放った剣が煌めいた。刃は甲冑の隙間を通り、ジークフラムの左腕を肩から切断する。椿は締め付けから解放され地面の上に膝をつき…その横に、ジークフラムの左腕が、ぼとりと落ちた。
間一髪。エレオノールは、竜と竜兵を制圧するとすぐさま椿の後を追ったのだ。そして階段を駆け上り、ジークフラムを急襲した。椿の放った一撃でジークフラムの視界が狭められていた事が有利に働いた。
「あァ!?」
ジークフラムは、地面に落ちた自身の左腕に対し不思議そうな表情を向けた。しかしそれは一瞬の事。その表情はすぐさま憤怒に変わる。
「テメエェェェ!」
怒りが膨れ上がる。殺す。殺戮してやる。
手に武器はない。左腕も斬り落とされた。だが、それがどうした?例え武器はなく片腕となっても…未だ、こちらの方が上だ。そう確信するだけの力がジークフラムにはあった。
斬ってくるか、それとも突いてくるか。いずれにせよジークフラムを一撃で絶命されるのは不可能だ。ならば、攻撃を受けながら相手から剣をもぎ取り奪う。そして殺戮を始めてやる。さあ、かかってこい。
しかし予想に反して、エレオノールはこれ以上剣を振るう事はなかった。その代わりに…渾身の力を込め、自身の肉体を叩きつけた。エレオノールが選択したのは、体当たりだった。
「なっ…!」
片腕を失ったばかりのジークフラムは、体勢を保てず後方にふらついた。そして後ろは…城壁の端だ。その下では、堀が炎をあげている。全ての罪ある者を焼き尽くす煉獄のように。
「ぐっ…!」
右腕を伸ばす。たまたまそこにあった何かを掴んだ。それは、城壁に建てられた旗竿だった。しかしその時にはすでに椿は起き上がり、剣を握りしめ走り出していた。
小さな体。華奢な肉体。普段なら歯牙にも掛けない相手だ。本来なら黙殺してもいいはずの存在だった。そんな小さな存在が、自らの手に握る剣を振るった。ジークフラムの肉体を支えていた旗竿は切断された。その肉体は、炎の中へと落ちていく。
落ちながら、再び右手を伸ばした。しかし今はむなしく虚空を掴むのみだ。ジークフラム・ガイセの背に煉獄の炎が迫りつつあった。
「ガイセ隊長!」
竜兵隊が突入してきた城壁の穴から、一頭の竜が飛び立った。特務竜兵隊副長、マルガレーテ・セファロニアの乗る竜だった。彼女は城壁付近で状況把握に努めていたため、貯水塔に誘い込まれる事なく竜も無効化されていなかった。
マルガレーテは自身の乗る竜の背でジークフラムの体を受け止めた。
「特務竜兵隊!撤退だ!可能な者は竜に乗り、城砦から撤退せよ!」
特務竜兵隊副長は叫ぶ。その声に応じて、無事だったもう一頭の竜が城壁の穴から飛び立った。その上には5名程の竜兵が乗っている。
撤退に成功した竜は2頭、撤退に成功した竜兵隊隊員は隊長、副長含めて7名だった。
マルガレーテの乗る竜は堀端に着地した。ヌガザ城砦への攻勢を行う帝国兵の間を走り、そのまま帝国軍の陣地まで駆ける。もしジークフラム・ガイセに命があれば、すぐさま手当てをすれば助かるだろう。
「ガイセ隊長、ご無事ですか?」
「…」
返事はない。もしや絶命したのか。そう思いマルガレーテは振り向いた。竜の背でジークフラムは仰向けになり…凄惨な笑顔を浮かべていた。
「ギャハッ」
「隊長…?」
「ギャハハハハハハァ!」
身を捩らせ、心底楽しそうに笑う。
「あのガキと女騎士…殺す、次会った時はブッ殺してやる…!」
その声には、怒りと愉悦、そして狂気が入り混じっている。
「なあマルガ、楽しい…楽しいなァ…!目標があるってのはよォ…!楽しみだぜ。あいつらの悲鳴を聞くのがよォ…!」
腕を奪われた。それはかつて感じた事のない屈辱と怒りをジークフラムにもたらした。だが…その怒りをぶつける日の事を思うと、愉悦くて愉悦くて笑いが止まらなかった。
「ガキと女騎士…死ぬんじゃねえぞ…俺がブッ殺してやるまでなァ!ギィヒャハハハハ!」
暗さを増していく夜空に、怪物の笑い声が轟いた。




