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抽象的なのに嫌な気分になる夢をみて、イサムは起きた。
背中に鋭い痛みを感じる。
次第に意識がはっきりしてきて、なんとなく状況をつかむことができた。
昨夜シャワーを浴びて部屋に戻ったら、ワカゾノが贅沢にベッドを独り占めしていた。
だからイサムは仕方なくカーペットの上で毛布にくるまって寝た。
この前のようにワカゾノを押しのけて喧嘩するのは嫌だった。
正確に言えば、イサムが嫌なのは喧嘩それ自体ではなく、あの後味の悪さだ。
コートやTシャツを枕にしたがひどく寝違えてしまった。
なにより毛布一枚では寒かった。
イサムは毛布を身体にかけてコーヒーをいれにいった。
寒い日は水が沸くのにも大変な時間がかかるように思える。
床に落ちている腕時計を見ると昼の11時だった。
急にイサムはミツの顔を思い出した。
そのすぐ後に、タッチの顔が頭に浮かんだ。
変な気分だ。
イサムは頭を横に振ってうつむいた。
なんて変な気分なんだ。
ケトルは一向に湯気を吐き出さない。
イサムは仕方なくカーテンを開けに行った。
アウトドアは嫌いだが、日光は好きだ。
この部屋のカーテンはバーバリーのコートの裏地を縫い合わせて作ったものだ。
バンドのファンの女の子がある日作ってくれた。
赤いステッチが可愛いが、ところどころに染みがある。
今では何とも思わなくなったが、もらった当時は肝が抜けた。
染みがついたものを人に贈るなんてイサムには考えられなかった。
「そろそろ起きな。昼だから」
イサムはベッドの上に乗っていたキャラクターの小さな縫いぐるみを心地よさそうに眠るワカゾノまめがけてぽんと投げた。
これもファンの子がくれたものだ。
思えば自分にも結構ファンがいるのかなとイサムは考える。
最大にして最低の贈りものは、ワカゾノによるワカゾノに違いない、とも思った。
寝ぼけた様子でワカゾノは「うーん」と伸びをした。
ケトルはやっと湯気を出しはじめた。
イサムも寒さを忘れかけたころだ。
「コーヒーはいるよ」
「ちょうどそんな頃かと思ってたよ」
ベッドから降りたワカゾノはそう言ってなんの躊躇いもなくイサムの大きなパーカーを羽織った。
そしてイサムの口ずさむ歌を聴いて笑いながらこう言った。
「ふん、wonderwall?」
「イサム昨夜遅かったね」
まだ眠そうなとろんとした目をしながらワカゾノはコーヒーを飲む。
そしてパーカーの袖口を歯で噛んだ。
ワカゾノの癖なのだ。
幼いころから何故だか服の袖口を噛んでいた。
気づけば癖が出ていたから、長袖の服の袖はどれをとってもボロボロだった。
その癖は未だ治らず、イサムの服もやがて袖がボロボロになりつつあった。
イサムは何度かやめるように言ったが小さな子どもを躾ける父親のように思えて気恥ずかしくなって、放っておくことに決めた。
「飲んでたんだ」
「誰と?タッチ?」
イサムは答えを躊躇した。
ワカゾノにタッチという名を出されたこともあって言いづらかった。
ミツの花柄のワンピースを思い出した。
お面をかぶったミツ。
ミツにネガティヴな感情を抱かなかったのは昨日が初めてだった。
タッチの選択が間違っているとはあながち言い切れないと、そう思ってしまった。
イサムはワカゾノの視線を痛いほど浴びて「タッチじゃない」と答えた。
イサムの戸惑いを敏感に感じ取ったワカゾノは意地悪い声で適当な相づちを打った。
「ミツだよ。ミツと飲んでた」
イサムは前髪を触りながらワカゾノに言った。
ワカゾノの、噛んで糸がほつれた袖を見る目が驚いたように見開かれる。
イサムがミツを苦手にしているのはワカゾノも百も承知だった。
ワカゾノも同じようにミツは嫌いだった。
ミツは今のワカゾノの位置をいつだって虎視眈々と狙っているのだから。
ワカゾノにとっての優しい貯金箱は、ミツにとっては素敵な恋人になり得るのだ。
「手遅れ?」
「いや、どうしてもジュークボックスがある店に行きたいって言うんだよ」
ワカゾノはコーヒーカップを無言でイサムに差し出す。
イサムはコーヒーを温めにキッチンに立つ。
勢いのないイサムの背中を見つめて、ワカゾノはまた意地悪な気分になる。
意地悪な気分になって、wonderwallを歌う。
イサムはコーヒーから湯気が立つのをじっと待つ。
イサムの頭の中には色んなものが渦巻いている。
最後に浮かんだのはポスターの女。
あの真っ直ぐな視線に取り憑かれている。
この変な気分はなんなんだ。
教えておくれ。