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「ね、イサム。なんでこの曲プレゼントしてくれたの?なんか意味あるの?」
マリリンマンソンのファンと思しきカップルが仲良く手を繋いで店を出るのを目で追いながら、ミツはそうイサムに尋ねた。
クランベリーカクテルはもう無くなりかけている。
ビール瓶の下に溜まった雫をなぞるイサムの長い指を見てミツは複雑な気分になる。
手に入りそうで手に入らない。
手に入っても、きっと拳をひらくときれいさっぱり中身は無くなっているはずだ。
ミツは思わず皮肉っぽく唇を曲げて笑った。
雪みたいだ。
ミツの地元は雪の多い地域だった。
毎年冬がやってくれば文字通り山のように雪が積もった。
幼い頃はよく雪の上に寝転がって遊んだものだった。
上下のウィンドブレーカーも、厚手の手袋も、毛糸の帽子も濡れて気持ち悪くなるまで遊んだ。
雪の上に仰向けになる。
雲ひとつない太陽が照りつける中、痛いほどの寒気が雪を溶かすまいと冬を謳歌する。
ふとミツは雪の中に、はっきりと結晶の形を見たことがあった。
絵本や図鑑で見たのとなにひとつ違わない雪の結晶を見た。
真っ白な雪は、この小さくて華奢な結晶が集まったものなのだ。
ミツは雪の結晶に神秘を感じた。
こんなに小さくて綺麗な結晶がやがては疎まれる対象になるなんて。
その日以来、ミツは雪が降れば厚ぼったい手袋を瞬時に外して結晶を掌に乗せようと意地になっていた。
ところが雪は掌に乗った瞬間、ミツの体温で瞬時に溶けてなくなる。
残るのは、結晶とはほど遠い醜い水滴だけ。
雪の結晶は掌に乗せることができない。
結晶の形のまま手に入れることは、ミツにはできない。
ミツはイサムといると、どうしてもそんな雪の結晶のことを思い出してしまうのだ。
結晶は掌に乗せられない。
イサムはボーイフレンドにできない。
掌に乗せられないから好きなんだ。
ミツは少し大人になったとき、そう思った。
イサムはボーイフレンドじゃないから好きなんだ。
雪の結晶は掌の乗ったその時にはもう、化けの皮が剥がれていた。
きっとイサムもそうなんだ。
ミツは高まるフラストレーションに言い聞かせる。
イサムだってボーイフレンドになったら嫌な面しか見せなくなる。
雪の結晶とイサム。
わかっていてもミツが諦められないものたち。
「別に。ヒット曲だからミツも知ってると思って」
ミツの想いに気づく由も無いイサムは素っ気なく答えた。
イサムは切ったばかりの前髪を触る。
返事をしないミツを不審に思いながらも、イサムは2本目のビールを買いに行った。
さっきミツにカクテルを作った女の子はもう仕事を終えて帰ったようだった。
太った店主が瓶の蓋を開けてぶっきらぼうにビールを差し出す。
イサムが小銭を出すのに手間取っている間、店主はwonderwallを口ずさんでいた。
振り子時計は1時半を指さんとしている。
「そろそろ帰る」
イサムが丸テーブルに戻るとミツが言った。
「始発はまだまだだよ」
「知ってる」
イサムはミツを怪訝に思う。
また、さっきの街灯の下にいたときのようなミツが見え隠れし始めたからだ。
お面をかぶったミツ。
何か言いたげで、でも絶対に口を割ろうとしない。
困ったような淋しそうな顔をしてミツは黙っている。
イサムは何故だか急にタッチに謝りたい気分になった。
ちょっとそんな考えが頭によぎるともう歯止めが効かない。
今すぐにでもこの腐ったような店を出て、タッチのもとへ走っていきたくなった。
何が原因なのか明確ではないけれど、どうしてもタッチに謝りたかった。
自分はどうかしていたな、とイサムは思う。
いつもの調子ならばミツの誘いなんか鼻で笑って吹き飛ばしていたものを、今日という日は何をやっているんだ、と思う。
頭が痛くなってくる。
一旦、タッチを思うとミツを引き止めるという手はイサムにはなかった。
「気をつけろよ。暗いから」
帰宅を促されたミツは、やはり淋しそうに笑って席を立った。
二人の中年が、ちらりとミツを見た。
イサムはもどかしい気分を抹消するために煙草に火を点けた。
しかしそれは何の効果ももたらさなかった。
店の扉の前でミツがイサムを呼んだ。
振り返ったイサムの顔を見て細い腕を振る。
「wonderwall、どうもありがとう」
イサムはそれから間もなくビールを飲み干し、店を出た。
頭痛を抱えての家路は辛かった。
ジャケットのポケットから手を出すことは敵わなかった。
文房具店の前で例のポスターをもう一度見るまでは、イサムの気分は沈んだままだった。
何かが違う。
何かがずれている。
答えを教えておくれ、とポスターに話しかける。
口笛を吹く。
wonderwallだ。
アパートの扉を開けると、煙草の煙が充満した重い空気が顔にかかった。
「ワカゾノ。帰ってたのか」
「お帰り」
頭痛の一原因であるワカゾノの姿を認めると、頭痛が軽減した。