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いつもなら次の日の2時を回るまで練習に励むところだが、タッチのアルバイトの加減で終電までの練習となった。
その時間帯のズレのせいでイサムは為す術もなく立ちすくんでいた。
普段であれば、練習の後、1時間近くかけてアパートまで歩くところだ。
真っ暗な町並みが徐々に明るみを増すのを見るのが好きだからだ。
のんびり歩いて疲れきり、次の日までそれを引きずったとしてもイサムには止められなかった。
イサムの足が進まない。
今はまだ12時を差したばかりで、アパートにたどり着くまで太陽はどう間違っても昇らない。
それが原因だ。
イサムは例のポスターを頭に描く。
女の顔を思い浮かべる。
もう一度あくびをする。
明日、あのポスターに書かれた住所のもとに行ってみようとイサムは思う。
退屈な現実から逃げる第一歩だ。
つまらなそうに煙草を吸い続けるイサムはふと後ろを振り返る。
腕を引っ張られたからだ。
ワカゾノかと言いかけたが、そこに立っていたのはミツだった。
朝、ワカゾノと下らない喧嘩をしたことがまだイサムの胸につかえていた。
あれほどの喧嘩は日常茶飯事ではあったが、何故かイサムは釈然としなかった。
ワカゾノを憎らしく思うのと、罪悪感とが混在している。
「なんだミツか」
「ヘビースモーカー」
にやにや笑うミツの顔が街灯の下で蒼く浮かんでいる。
わざとらしいつけまつ毛も真っ黒なアイラインも凝りに凝った爪もイサムは好きになれなかった。
「タッチならバイトに行ったよ」
イサムは眠い目をこすってミツに話しかけた。
ミツは鼻をすすりながら下を向いた。
伏し目のミツなんて初めて見たかもしれない。
イサムは珍しいものを目の当たりにして、ミツの顔から意識を逸らすことができなくなる。
薄っぺらいワンピースの上にカーディガンを羽織っているだけのミツは今にも凍えそうで、弱々しくイサムの目に映った。
「知ってる」
もう生き物なんて残らずいなくなってしまったのではないかと疑いたくなるほど静かな町に、ミツの鼻をすする音が不自然に響いた。
イサムはジャケットのポケットに両手を突っ込んでミツの次の言葉を待った。
でもミツはそれきり口を聞かなかった。
目の前の道路を一台の車が走り去る。
「始発まで待つの?」
イサムが尋ねるとミツは急に頭を挙げ、意味有り気に笑った。
花柄のワンピースが風に揺られて舞っている。
イサムはミツがよく解らなくなってしまった。
さっきまで、見ようによれば儚げで繊細な女の子に見えたのに、それがただのお面のようにも思える。
ミツにつられてイサムも鼻をすする。
「あたしね、今月、誕生日なんだ」
「あっそ」
「なんかプレゼントしてよ。一杯おごって」
イサムはうなだれた。
誕生日プレゼントをねだる芝居だったのか。
そうだとしても今まで見たことのないミツが垣間みれたことはイサムにとって貴重な体験だった。
勝手な先入観のもとに人の善し悪しを判断をしたら失敗するという教訓は、ワカゾノが十分イサムに示してくれたからだ。
しかしミツの誕生日を祝う気など毛頭も無いイサムはあっさりと断って、アパートの方へ歩き始めた。
ミツはそれでも諦めず、イサムの背を追った。
慎重に言葉を選んでイサムの気を引こうと必死なミツは、お面の下のミツだった。
刺すような風が吹く。
イサムは肩をぎゅっとすくめて足早に家路を急いだ。
「じゃあさ、ジュークボックスがある店で飲もうよ。1曲プレゼントして。そしたら満足して、あたし帰る」
イサムは迷った挙げ句、しぶしぶミツの提案を受け入れた。
ジュークボックスがある店で飲むのは久しぶりだった。
タッチと何度か行ったことがあったが、イサムはあまり好きになれなかった。
誰かがジュークボックスを触らない限り、その店には音楽が流れない。
嫌でも周囲の人間と言葉を交わさなければならない。
重苦しい雰囲気に押しつぶされそうになる。
想像しただけで気が滅入りそうだが、イサムは承諾した。
イサムがミツの願いを聞いたのには胸にある期待を抱いていたからだ。
毎日のイサムの行動範囲はあまりに狭すぎる。
これではポスターに核心を追求することができないまま終わってしまう。
子どもの遊びにも劣る程度の逃避術。
でもイサムは構わない。
手に入れるものも失うものもない。
イサムがミツにクランベリーベースのカクテルを持って行ってやると、「このワンピースにぴったりじゃない?」とうるさくはしゃいだ。
小さな店の中は空気がこもっていて、イサムはまるでさっきまで5人で入っていたスタジオのようだなと思った。
カクテルを作ってくれた女の子が一瞬ポスターの女に見えた。
しかしすぐに別人だと思った。
店員の女の子は目が垂れていて人がよさそうだ。
ポスターからこちらを睨む女の目は鋭いものだった。
ポスターでいっぱいの頭を掻いて、イサムはビールを流し込む。
店には2人の中年男と1組のカップルしかいなかった。
中年の男たちは時折下品な笑い声を上げて話している。
カップルはいかにもマリリンマンソンが好きそうな化粧と服装で楽しそうに酒を飲んでいる。
「イサム、ほらジュークボックス!1曲プレゼントしてってば」
「うん、何がいい?」
イサムは隣の丸テーブルを拭きに来た店の女の子をぼんやり眺めてミツに答えた。
スリムなデニムはやはりイサムにポスターの女を連想させた。
でもこの店の女の子は黒いストレートの髪の毛を持っているし、どこか媚びるような顔をしている。
イサムは意味の成さない虚無感に駆られた。
「イサムが決めて」
自分の爪を熱心に見ながらミツが無遠慮に言う。
イサムは立ち上がってジュークボックスに向かった。
立ち上がった拍子に木の椅子が少し大きな音をたて、テーブルを拭いていた女の子はぱっとイサムを見た。
すかさずミツが女の子を睨んだ。
そんなやりとりを何とも思わない自分をイサムは変だなと思う。
ポスターのことを考えているからだ。
まるで強迫観念のようにイサムの頭にこびり付いている。
ジュークボックスの前でイサムは悩んだ。
ミツの音楽の好みを知らない。
アイドルの曲なんかをかければ無難なのだろうが、いまひとつ芸がなく思えて仕方なかった。
曲目を調べる。
イサムはあくびをして店にかかっている振り子時計を見た。
ワカゾノは帰っているだろうか。
ワカゾノに寛容になっている自分がいる。
イサムはジャケットのポケットに手を入れて一瞬、考え込んだ。
きっと、なにもかもポスターに夢中だからだ。
イサムは100円玉を入れてボタンを押した。
イサムが丸テーブルに戻ると、ミツがぱっと嬉しそうな顔をした。
大きな音を出さないように椅子を引いて腰掛ける。
ミツの目は活動的に光っている。
この女の原動力は一体どこにあるんだ。
イサムはビールを飲む手をとめる。
中年の男の大きな笑い声が響く。
ジュークボックスから乾いたギターの音が流れる。
マリリンマンソンのファンのカップルも、一瞬顔を見合わせてスピーカーを見た。
二人揃って同じ仕草だ。
大したものだとイサムは感心した。
「あ、この曲」
「知ってる?」
「知ってる。大好きなんだ、この曲。wonderwall。夕方によく聴いたな。なんか淋しくてさ、そう思わない?」
煙草に火を点けてイサムはうん、と言った。