2
ひんやりとした空気が部屋から流れてくる。
しんと静まり返った部屋に
おかしいな、とイサムは思う。
いつもだったらこのぐらいの時間には
ワカゾノがカーペットの上にだらしなく転がって
テレビを観てるころなのに。
イサムは鼻からふんと息を吐いてジャケットを脱いだ。
もうそろそろジャケットだけでは寒い季節になってきた。
イサムは能天気に鼻歌を歌いながら洗面台の前に立つ。
寝不足でたるんだ自分の顔が鏡に映る。
途端に気が滅入ってしまった。
鏡の脇の棚からハサミを取り出して、刃をそっと
頬に当ててみる。
ひんやりと心地いい刺激が顔全体に伝わる。
イサムは一気に前髪を切った。
真っ直ぐに揃った前髪。
その昔、こんな髪型をしたギタリストがいた気がする。
自宅のプールで水死体となった男だ。
洗面台の床に、ダーティーブロンドの髪が
ぱらぱらと落ちてゆく。
鼻歌を歌いながら、トイレットペーパーで床を拭く。
さっきから歌っているこの歌の名前を、
イサムは思い出せずにいる。
果たして誰の曲だったか。
冷たい水で顔を洗い、イサムは廃人のように洗面所を出た。
一気に睡魔が襲ってきた。
今日も仕事は昼からだ。
しばらく休むことにしよう。
イサムは変わらない毎日のことを考える。
客がやってくれば店員の方が緊張してしまうほど
流行らないレコード屋に勤め、
夜の11時ごろから、同じく流行らないバンドの
練習に精を出す。
家に帰ってくればワカゾノの世話。
俺は一体、何をやっているんだ。
イサムは6畳とちょっとの部屋を見渡す。
散らばったCDと、脱いだままの服。
ギターの弦も、ハンバーガーの包み紙も、
煙草の吸い殻も転がったまま。
頭が痛い。
俺はこれからどうすればいいのか。
ふとイサムはワカゾノのことを考える。
この男は何故このアパートに住みついてるんだ。
何故、自分が見ず知らずの男を養うような
ことになってしまったのか。
イサムはスウェットとパーカーに着替える。
最近はどの服を着てもワカゾノの香水の
匂いが染み付いている。
部屋着まで勝手に着ているのか、
気に入らない。
イサムがワカゾノと出会ったのは1年と数ヶ月前だった。
小さなライブハウスでギグを打ったあと、
メンバー達と酒を飲んでいるところに
ワカゾノがやって来たのだ。
当時ワカゾノはまだ16で、その不安定な年齢が
イサムの心に何かを突き刺した。
兄弟のいないイサムだが、弟がいればこんな気に
なるのだろうかと、ふと思った。
ワカゾノは自分たちのバンドのファンだ、と言った。
「本当はあんた等みたいにバンドやりたくて、
ギター弾いてたんだ。
でも、それじゃギグを聴きに来れないから
この前売ってきたんだ」
ファンなど数えるのもおこがましい程度しかいないバンドだ。
イサムはこのワカゾノの健気な言葉に心打たれ、
それこそ弟のように可愛がってやった。
もはや塗料も剥がれるほど使い込んだギターをやった。
ギグにはチケットを無料にして呼んでやった。
メンバー達との打ち上げにも招待して、
酒も煙草も贅沢すぎるほどあげた。
今思えば、まんまと騙されたのだ。
イサムの頭の中は後悔の念でいっぱいになる。
ワカゾノにとって他人は利用するほかに使い道はなく、
自分の利益のためなら他人にどんな迷惑がかかろうとも
思い通りにやってのける。
イサムが完璧に自分のわがままも聞き入れ
支配下に入ったころ、ワカゾノはこのアパートに
引っ越して来た。
この男がいれば、当分は楽をして暮らしていける。
イサムがせっせと働いている間、町に出て
女の子と遊んだり、音楽を聴きに行ったり、
服を買い込んだりと好き勝手にできる。
イサムは時折、ワカゾノの生活ぶりと豹変ぶりに
腹を立てるが、そんな時はまたちょっと
可愛気のある言葉をぽんと言ってやればいい。
イサムが情に弱いことを知ってワカゾノは巧みに
駆け引きをする。
こんな男を引き止めるのは楽勝だ。
しかし、どうしてこんな貧乏なバンドマンに
頼って生きているのかはワカゾノにも説明がつかない。
もっとリッチな出資者がいるに越したことはないのだが
この小さなアパートから出て行くつもりは
ワカゾノにはこれっぽっちもなかった。
「うーん」
イサムはうなり声をあげてうなだれる。
何も考えたくない。
レコードばかり見て疲れてしまった。
レコードとレコードの間にはさまる埃をとってばかり。
バンドは怠けた練習を重ねるばかり。
もうベッドに入ろう。
眩しい朝陽はカーテンによって遮られている。