17
ワカゾノには心なんてないんじゃないか。
感情を持たない人形みたい。
イサムはレコード屋のレジの前で頬杖をつき音楽を聴いていた。
商店街は相も変わらず時間が止まったように呑気だった。
夕食の時間が近いから肉屋は大変に繁盛している。
イサムはポスターを見てからの自分の生活を頭に巡らせる。
現実を素直に見る目を失った。
タッチとの仲も消え入りそうだし、ミツへの警戒心が消えた。
バンドさえどこかに行ってしまいそうだ。
全部、ポスターを見てからだ。
イサムはそう信じて疑わない。
全てあのポスターのお陰で狂っている。
イサムはポスターの女の顔を思い浮かべる。
濁った目でこちらを睨む女。
イサムはあれほどミステリアスな魅力を感じていた女に、いつしか嫌悪を抱いていることに気づいた。
もう何も求めない。
現実逃避の道具にもしない。
何も教えてくれなくてもいい。
答えなどいらない。
ただ、今までの毎日を返してくれ。
イサムは両腕で頭を抱え込む。
返してくれ、俺の現実を。
誰も来ないレコード屋で一人、イサムはうなだれる。
夜の10時半をまわったころ、イサムの電話が鳴った。
イサムは実に複雑な気持ちになった。
ディスプレイを見るのが怖い。
今までの日常を取り返したいのに、いざそんな局面に達するとどうしていいか解らない。
いい考えが浮かばない。
自分の力ではどうにもならない気がする。
イサムはタッチからの電話だったときの対応を考えた。
タッチとはとにかく話すことが必要だ。
後味が悪すぎる。
ワカゾノだったらどうだ。
放っておこうか、それともこれまで通り自分が妥協してずるずると居候させるのか。
日常なんか抹消してしまいたい衝動に駆られるときもある。
でも自分にはそんな度胸ないはずだ。
イサムはパイプ椅子の上に膝を抱えて座る。
電話はいつの間にか止んだ。
イサムはiPodから流れてくる音楽に会わせて2曲ほど歌を歌ってから携帯電話を見た。
電話をかけてきたのはミツだった。
その事実は更にイサムを悩ませた。
なんだって電話なんてかけてよこすのか。
ただでさえタッチは自分とミツの関係に疑問を持っているのに。
イサムは半ば憤怒を抱えて携帯電話をレジカウンターに放り投げた。
これ以上混乱させないでくれ。
夢の中にいるみたい。
落ち着かない日々。
誰か、現実を返してくれないか。
膝を抱えたままイサムはぼんやりと考える。
ミツのワンピースの裾が柔らかく揺れていた夜を思い出す。
タッチと過ごした怠惰だが、期待すべきことがあった日々を思い出す。
イサムは時計が11時をさしたころミツに電話をした。
電話することに躊躇していたイサムにとってミツが電話に応えるまでのコール音は、かつてないほど居心地が悪かった。
「デートしない?」
ミツの少しかすれた声はイサムの涸れ切った心に染み込んだ。
ミツは元気そうな声を出してはいたが、その声にはいつもの活気が感じられなかった。
作ったような陽気な声がイサムの胸に突き刺さる。
もしミツの誘いに乗ったら、彼女はまた仮面をかぶるだろうか。
それとも仮面のない素のミツに惹かれる自分に出会うだろうか。
イサムがあれこれと考えている間、ミツは適当な話をしているようだった。
寒いから毛布を出したとか、今日の学校は退屈だったとかいう話が断片的にイサムの耳に入ってきていた。
集中していないイサムに、ミツは突然静かな声で告げた。
「好きになってくれなんて言ってないじゃない」
イサムはうまい返答を考えられずに黙りこくってしまった。
いつものミツになら何て返していたか。
イサムは真っ白の頭で思考する。
大体、ミツに電話するなんてこと自体しなかったはずだ。
イサムは髪の毛を触って、「いいよ」と言った。
なにも思わない。
タッチのガールフレンドとデートをする。
なんとも思わない。
ワカゾノになった気分だ。
イサムは閉店作業を進める。
好きになってくれなんて、言ってないじゃない。
こう言ったミツの顔にはお面なんてへばりついてなかった。
イサムはそう思い、ふんと溜息をついた。