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ツヅキバシの母親の手術の関係で、ここ3日ほどバンドの練習はないとトミーに伝えられたイサムはタッチと話すことのできない苛立ちを隠せなかった。
イサムはシャワーを浴び、昼まで寝ようと思ったが脳は活発に働いている。
何曲か音楽を聴き、古い映画を途中から途中まで観る。
なにをやっても落ち着かない。
足を投げ出して座り込んだイサムはうなだれて考え込む。
なにかが確実に変わり始めている。
自分が変わっているのか、周りが変わっているおか、それとも何も変わっていないのか、イサムには見当もつかない。
これから一体どうなってしまうんだろう?
イサムは宙を仰ぐ。
ふとベッドの下がやたらと乱れていることに気がついた。
イサムが溜めるに溜めたレコードの山は行き場を失い、やがてベッドの下に落ち着いていた。
殊レコードに関しては几帳面なイサムはレコードを綺麗に積み重ね、その上から大判のストールをかけて収納していた。
ところが最近はすっかりレコードよりもCDをかけてばかりいたため気にかけることも少なくなっていた。
にも関わらずストールはくしゃくしゃになってベッドの脚の脇に転がっている。
レコードの山は崩れ、中身が出て来ているものもある。
なにより枚数が明らかに減っている。
イサムは不思議に思って部屋を見回す。
トミーと話し込んでいる間に空き巣でも入ったのだろうか。
だとするならばそれはかなり物好きな空き巣だな、とイサムは思う。
見たところ無くなっているのはレコードだけで、金になりそうなワカゾノの服や靴はそっくりそのまま残っている。
イサムはレコードを一枚ずつ確かめる。
あれだけ可愛がっていたレコードたちも、いざ何が無くなっているかを確認しようとしても咄嗟に思い出せない。
でも減っているのは確かな事実なのだ。
イサムは焦る気持ちを抑えてバラバラのレコードジャケットに埋もれて床に仰向けに倒れ込んだ。
何が自分に起こっているのか。
目を腕で隠して深く息を吸う。
イサムがそうしてからアパートの扉が開くまでの時間はそう長くなかった。
のろのろと腕を下ろすと、ワカゾノが立っていた。
しばらくぶりに見たワカゾノの顎にはうっすら髭が生えている。
どんな生活をしていたのか、イサムは少しだけ興味があった。
ワカゾノは床に寝ているイサムに首を傾げ、それからだらしなく会釈した。
「久しぶりに見る気がするよ」
イサムはむっくりと起き上がってレコードを重ね始める。
イサムの声が聞こえなかったのか、ワカゾノは洗面所から「なんだって?」と大きな声を出した。
隣の部屋まで筒抜けになるような大きな声だった。
イサムはぶつぶつと何かを言ったが、それはワカゾノにもイサム自身にも解らなかった。
シャワーを浴びて部屋に戻ってきたワカゾノは眠そうな顔でダイニングテーブルについた。
テーブルに乗っているイサムの煙草に手を伸ばし、でもすぐに引っ込めた。
ワカゾノの短い前髪の下の目はイサムにはいつもより無感動なものに思えた。
「お前レコード知らない?」
イサムは髪をばさばさと触りながらワカゾノに尋ねる。
家でもレコードの整理、仕事に行ってもレコードの整理。
イサムは溜息をつく。
「売ったけど」
ワカゾノの静かな声はイサムの動きをぴたりと止めた。
イサムは振り返ってダイニングテーブルに優雅に座るワカゾノをまじまじと見つめる。
濁った目つきでイサムを見下ろすワカゾノは平気な顔でカーディガンの袖をかじっている。
イサムはゆっくり立ち上がってダイニングテーブルに向かう。
嘘だと言ってくれ。
答えを教えておくれ。
イサムはもう一度言えとワカゾノの詰め寄った。
「売った」
悪びれる様子をこれっぽっちも見せないワカゾノにイサムは何の感情も抱かなかった。
何も思わなかった。
イサムは荒々しいことは好きじゃない。
でもワカゾノにはもうお手上げだ。
イサムはワカゾノが腰掛けていた椅子を蹴飛ばしてワカゾノを立たせる。
拳をねじ込んでやろうとした。
ところがイサムは思い直してやめた。
イサムがどれだけ剣幕を放ってところでワカゾノは小馬鹿にしたように笑うだけだったからだ。
そして身体中から絞り出すように一言だけ言った。
「ワカゾノ、マジで出て行ってくれ」
イサムはその夜のことをあまり覚えていない。
ワカゾノがアパートを出て行ったことはかろうじて覚えている。
でもその他になにがあったのか、まるで思い出せないでいた。
思い出せないのではない、イサムは考える。
思い出したくないから忘れることにしただけ。
イサムはなにも考えなかった。
ワカゾノもなにも考えていないように見えた。