15
テレビをつけたり本を読んだりして気を紛らわそうとしたが、イサムの胸にはすっきりしないわだかまりが住み着いている。
こんな変な感覚をイサムは味わったことがなかった。
ポスターを目にしてからというもの自分を取り巻く世界が少しずつ狂ってきている、とイサムは信じて疑わなかった。
あのポスターは救ってくれるわけじゃない。
答えもくれないし、モノクロをカラーにしてもくれない。
カラーどころか暗黒だ。
あのポスターが良くないことをもたらしているんだ、とイサムは恐ろしくなる。
ポスターが元凶かもしれない。
イサムは膝を抱えて俯いた。
一人取り残されたような気持ちになる。
考え込んだまま動かないイサムは携帯電話の着信にびくんと身を震わせる。
タッチか、ワカゾノか、それともミツか。
イサムは及び腰になって電話を床から拾う。
ディスプレイを見たイサムは安心したような落胆したような、なんとも言えない表情を浮かべて電話に出る。
トミーからの電話だったのだ。
ベーシストのツヅキバシと一番仲のいいトミーは、一人時間を持て余しているようだった。
トミーはドラムを叩く以外に好きなことは何も無いと言って、イサム等のバンドに入ってきた。
大袈裟だと他のメンバーは笑ったが、言葉の通り三度の飯よりドラムが好きだった。
中学生のときドラムをはじめて、それ以来、飯と睡眠の時間以外は全てドラムに愛情と熱意を注いできた。
授業中は足を鍛えてバスドラムの技術を磨き、40度の熱を出したときもスティックは決して離さず手首を強化した。
イサムのバンドの中で最も高い技術を誇るプレイヤーだ。
どんなハードは曲も平気でやってのけるため、不細工だが人気がある。
小学生かと見紛うドングリのようなヘアスタイルと冴えない眼鏡のせいで、もっと不細工に見える。
ところが性格はずば抜けてよかった。
イサムは一番仲がいいツヅキバシを羨ましく思ったことが何度もある。
ワカゾノは多少陰気ではあるが性格のいいトミーに最初は目をつけていたが、実家暮らしであると知ってターゲットをイサムに変えた。
イサムはそれを最近になってトミーに聞かされた。
トミーは「暇なら家に来ないか」とイサムを誘った。
イサムは二つ返事をしていそいそと支度して家を出た。
トミーの家は古い造りの木造で、隙間風がイサムの身体をじわじわと冷やしていった。
畳の上に灰皿だけが虚しく乗ったシンプルな部屋に入る。
トミーは不細工な顔でイサムを迎え入れる。
トミーのその部屋は一面ポスターだらけで実際の間取りよりも遥かに狭く見せていた。
ポスター。
イサムのポスターに対する感情は少しずつネガティヴなものに変化していっていた。
あのポスターを見てからなんだ。
あれさえなければ自分はきっと今までと変わらぬ退屈だが荒波の立たない生活を送っていられただろうに、とイサムは考える。
イサムはそこでふとトミーがかつて新聞社で働いていたことを思い出した。
そのせいでバンドの練習時間が今とはまったく違っていたのだ。
新聞屋たるもの、太陽が昇るか昇らないかという時刻にはもう頭をフル回転させていなけらばならない。
トミーの容姿からイサムは「苦学生」と呼んで馬鹿にしていた。
「トミー、新聞屋で働いてたよな?」
「働いてたよ。新聞ばっかり触って指、真っ黒になるんだぜ」
トミーはにこにこしながら煎茶を出してくれた。
畳の匂いがイサムの鼻に心地よく、思わず寝転がる。
所々荒れた畳はイサムの靴下を汚した。
イサムはガチャガチャとCDを触るトミーの後ろ姿に、ポスターのありのままを話した。
不可解な住所のことも、それが新聞社から運ばれて来たらしいことや、そのポスターを目にしてから珍妙なことに見舞われていること、全てを話した。
イサムはしばしばトミーにこうして打ち明け話をしていた。
トミーはどんな相手でもリラックスさせることができる。
トミーの顔を見て、トミーの声を聞くと皆なんだか拍子抜けしてしまうのだ。
加えてトミーは聞き上手だった。
明確のアドバイスや答えを出してくれるわけではないのだが、何かとカミングアウトされることの多い男だった。
だらしなく煙草を吸うイサムを少しびっくりした目で見て、トミーはまずCDをかけた。
イサムの知らない曲だったが、歌の入らない静かな音楽はトミーへの安心感を増した。
畳の上に正座して不細工な顔でイサムを見てトミーは答える。
「変わった話だ」
イサムは朝方までトミーの部屋で話したり寝たりして過ごし、とぼとぼと帰って行った。
とてつもなく大きなわだかまりはイサムの胸につかえたままだ。