13
イサムはワカゾノのその一言に凍り付いた。
イサムの髪の毛からポタリポタリと水滴が滴り落ち、カーペットに染みをつくる。
妙な動悸を感じる。
タオルを頭からかぶっているワカゾノの顔はイサムには見ることができない。
イサムはぐるぐると回るような頭の中で必死に考えた。
あのポスターの女はミツなのか。
そう言われれば似ている気もするし、全然違う女にも見える。
もしミツだったら、とイサムは考える。
もし仮にあのポスターの女がミツだとしたら自分は取り憑かれたようにミツに夢中になっていることになる。
これは、決して起こってはいけないことだ、とイサムは思う。
絶対に起こってはいけない。
タッチの顔が浮かぶ。
そしてポスターの女の顔が浮かび、続いてミツの顔が浮かぶ。
青ざめるイサムにワカゾノがタオルを放り、こう言った。
「嘘だよ」
イサムはレコード屋のシャッターを開ける。
隣の雑貨屋からはお香の匂いがぷんぷん漂ってくる。
雨はすっかりあがった。
ワカゾノにからかわれたイサムはあの後すっかり気が抜けてしまった。
しかし、ミツのことであんなに動揺するなんてと自分を情けなく思った。
冷えきった店内に暖房をいれる。
一昨日買い取ったレコードの中身を確かめ、ジャケットを消毒する。
いつものレコード屋。
いつもの始まり。
それでもやはりイサムの頭にはポスターが思い描かれていた。
ワカゾノに変なことを言われて腹立たしい気もしたが、それ以前にイサムを襲ったのはやはりミツへの脅威だった。
なにもあんなに驚くことなかったな、とイサムは気恥ずかしくなる。
昨日ワカゾノはあれから意地悪く笑ってすぐにアパートを出て行った。
イサムが仕事に行く時間になっても帰って来なかった。
ようやく暖かくなってきたレコード屋でイサムはぼんやり座っていた。
ポスターのことを考える。
あの住所の意味は結局わからず終いだ。
ミツのことを思い、タッチのことを考える。
この商店街はゆったりと時間が過ぎてゆく。
忙しい人は一人もいない。
怒る人も悲しむ人もあまりいない。
同じく幸せな人もそう多くはない。
平淡な商店街。
向いの古着屋の前では店員同士が静かに談笑している。
イサムは水たまりを器用によける女の子を見送って、一升瓶を持った歳とった男を見送った。
大きな溜息をつく。
変な感じだ。
イサムがiPodをスピーカーに繋いでいるそのときだった。
店のドアが開いた。
イサムが勢いよく振り返るとタッチが立っていた。
「よう、やってるかい?」
タッチはにこやかに笑って狭い店内に入ってきた。
イサムは喜んでタッチを歓迎した。
突然のことに、このところのタッチに対する罪悪感は顔を出さなかった。
イサムがBGMを選んでいたところだと言うと、タッチはイサムのiPodをくるくるといじって曲を探した。
タッチが来るのは珍しいことだった。
タッチは最近、総菜をパックに詰め込む夜勤のバイトをしていてこの時間は眠りこけているのだ。
昼夜逆転は身体によくないと知りつつも時給のよさと単純作業がタッチには魅力的だった。
言葉の要らない職場。
外国人留学生なんかも多く働いていた。
タッチは毎晩毎晩、脂っこい臭いにまみれて働いた。
立ちっぱなしの仕事は足腰にこたえた。
身を削るように働いているが、タッチにはそれがバンドのためなのか何なのか解らない。
明確な目的などない。
でもそれはいくらまともな仕事に就こうとも変わらないことだ、とタッチは思っている。
その仕事のためにタッチは頭を丸刈りにした。
アピアランスチェックが厳しいのだ。
そこまでして仕事にバイアスをかける理由もタッチには解らない。
「夜勤て疲れんだろ?」
消毒を続けながらイサムがタッチに問うと、タッチは曖昧な返事をした。
まだiPodを触っている。
イサムが奥の物置からパイプ椅子を持ってきてタッチに勧めた。
クモの巣がついている。
イサムはレコードの埃をとるクリーナーでさっと拭った。
「最近さ」
タッチが重い口調でそう言ったのはイサムが買い取った全てのレコードの消毒を終わらせたときだった。
あれだけiPodを触っていたのに店内には何の音楽も流れない。
タッチは曲を探そうとしていたのではない。
ただ落ち着かなかっただけだ、とイサムは感じ取る。
イサムは消毒液を棚に置いてレジの前の椅子に腰掛けた。
タッチが何か大変なことを言い出しそうだからだ。
イサムは身構える。
タッチはイサムの顔を見ようとしない。
暖房の働く機械音だけが店内に響いている。
イサムは黙って横に座るタッチを見つめる。
たくましい肩が今日はやけに自身無気にみえる。
「最近、ミツとちっともうまくいかないんだ」
下を向いたままタッチが言い憎そうに呟いた。
イサムは微動だにすることができず横目でタッチを見る。
昨日、ワカゾノに「ミツに似ている」と言われたときと同じように固まってしまった。
イサムは「でも」と言いかけたが涸れた声は音になる前に消えた。
「ミツとうまくいかない。どうしてだろう」
タッチの注意深い言葉の選び方はずきずきとイサムの胸に刺さった。
どうしてだろう。
イサムは頭の中で訊いてみる。
このところ俺の周りでは妙なことばかり起こっている。
さて、なぜだろう。
こっちが訊きたいぐらいなんだ、とイサムはタッチに抗議の目を向ける。
タッチは俯いたまま何も言わない。
答えておくれ、イサムはポスターを想起する。
「でもさ、喧嘩なんてしょっちゅうしてるんだろ?」
イサムが調子外れな声でそう言うとタッチがようやく顔を挙げた。
失望がタッチの目に浮かんでいる。
イサムは平静を保とうとする。
だって自分は何もやましいことなんてしてないんだから、物理的には。
タッチは目の色とは打って変わって明るい声で言った。
「そうだよな、いつものことだよな」
イサムはほっとした。
ミツのやつが余計なことを言ってないならば大丈夫だ。
イサムはタッチが大切だ。
ミツやワカゾノを失うことがあっても、タッチを失うのは想像しただけで気が狂いそうになる。
ここまで一緒にやってきた仲間を失うのは、イサム自身を位置づける物差しがなくなる気がして不安なのだ。
だからタッチの笑顔を見てイサムは心底安心した。
その後イサムとタッチはしばらくバンドの話なんかをしていた。
「急に押し掛けて悪かったよ」
タッチはそう言うともう一度イサムのiPodを操作して、店を出て行った。
イサムはタッチを見送ることができなかった。
店に流れたのがwonderwallだったからだ。