亡霊シンデレラ
一
鉄格子が嵌められた小窓から、朝日が差し込んだ。小窓が天井付近に設置されているお陰で、部屋は全体的に明るくなったように感じられる。レイミーアの目元に光が当たり、彼女は漸く眠りから覚めた。目蓋を開けると寝ぼけ眼をこすり、大きく伸びをする。まだ完全には覚醒し切っておらず、どこか頭に霞がかったような感覚があった。低血圧な所為か、少しばかり気怠くさえもある。ぼうっとして、そのまま再び眠りこけそうになるのを既のところで踏ん張り、頭をはっと上げた。そこにきてやっと、完全に起き上がった。
毛布を取ると冷たい空気が素足を撫でた。鳥肌が立って毛布の中に戻りたくなったが、これ以上誘惑に負けてしまったら、本当に寝てしまうと考えてしまう。毛布を諦めてベッドから下りると、つま先は冷えた地面を踏んだ。なんて寒さだろうか、とレイミーアは己を抱くような格好で、自身の腕を暖める。はあ、と吐いた自分の白い息に、どれほど気温が低いのかと肩を落とした。
レイミーアの格好は、冬という季節にしては非常に薄いものだった。靴も履かせて貰えなかったので、彼女は仕方なく包帯を靴下代わりにして、足首に巻いていた。毛布もまた、それを毛布と呼ぶには小さくて薄く、更には満足に身体を暖めることは難しかった。だが、それでもないよりは幾分ましだった。
木製の骨組みにシーツを被せただけのベッドの上に立つと、小窓から外の様子を見ようとして鉄格子をしっかりと握った。鉄格子は氷のような冷たさでもってレイミーアを迎える。余りのことに驚き、一瞬だけよろめいたが、もう一度掴んだころには既に慣れてしまっていたようで、冷たさは消えていた。
彼女の私室は地下に設けられていたから、小窓の半分は地面が占めていた。顔を押し込むようにして、視界の悪い小窓から外を覗き込む。どうやら雪はまだ降っていないようだ。無論、雨も降っていない。もし降っていればこの部屋はびしょ濡れになっている。空は晴れていて、雲があるようには見受けられなかった。とてもいい天気だ。
「朝はこうでなくっちゃ」レイミーアは上機嫌にそう呟いた。
それからレイミーアは机の上に置かれた古時計を見た。時刻は午前四時を数分程少し過ぎていた。普段は四時半に起きていたが、今日はいつもより早く起きたことに、レイミーアは得をした気分になった。
「これならゆっくりと支度が出来るわ」
時間に余裕があると分かると、鏡台の前に座り込み、小さな櫛を手に持って髪をとかし始めた。鏡にはまだあどけない──齢十五になる──少女の姿が映っている。レイミーアは櫛を上から下へと流れるように動かし続けた。やがてそれも終わると、レイミーアは着替えに取り掛かる。寒さに凍えながらパジャマとして着ていたぼろ服を脱ぎ、箪笥の中へと丁寧に仕舞うと、その隣に置いてあった服を手に持った。それはある種の作業服のようなものだった。レイミーアはこの家のメイドをしている。この服は、自身がその役割に準じていることを表す服装でもあると言えるだろう。
「これから忙しくなりそう」
今日一日のことを思案して、レイミーアはため息を吐いた。仕事は沢山あるのだ。屋敷の掃除をして、それから洗濯をして料理して、主人たちの相手をして、──買い物は明日でも良い──再び掃除をして、料理をして、洗濯物を取り込んで……。
その作業量はとてつもなく多い。一人でするにはかなり大変だったが、レイミーアはこれを毎日こなしていた。
だがこれ以上に厄介だったのは、屋敷の主人たちの存在だ。彼女らの存在はレイミーアを大いに悩ませ、苦しめている。まずこの屋敷の主であるシェルナザート。彼女は母の妹で、レイミーアにとっては叔母にあたる。母のいない現在では育ての親でもある。しかし、その厄介さは性格にある。彼女は短気で暴力的であり、特にレイミーアのことを毛嫌いしている節があるのだ。教育と称した懲罰は、いつになっても慣れることはない。レイミーアの背中は鞭による痣で埋め尽くされている。
そして、叔母の二人の娘たち。それぞれ姉の名をメフィーリア、妹の名をクリーシェといった。彼女たち姉妹は双子で、レイミーアよりも一つほど年上だった。そのためか、姉妹によるレイミーアの扱いは酷いものだった。まるで、道具のように弄ぶのだ。メイドであることも相まって、何をするにもレイミーアを使う──まさに奴隷のようなもの。
常日頃から叔母に怒られているという環境がそうさせたのか、レイミーアを人として扱うことはなかった。また、叔母に怒られている姿が見たいという理由から、理不尽な悪戯をすることが多かった。そうして、レイミーアは叔母に教育され、それを見てげらげらと笑われる。そんな毎日だった。彼女はしかし、耐えていればいつかは報われると思って、必至に生き延びることだけを考えた。
レイミーアは竹箒と雑巾を持つと、
「さて、やりますか」
自らを鼓舞するように気合を入れる。
それから時間が流れ、時計の針か午後の一時を示した頃には、シェルナザートたちは昼食を終えていた。彼女らの食器を洗っている最中、レイミーアのお腹はぐう、と音を鳴らす。
(お腹が空いたわ)
立場上、叔母たちと食事を共にすることはなく、常に気配りに徹していた。水のお代わりを求められれば、直ぐに空いたグラスに注ぎ込む。食べ物をこぼしてしまったと言われれば、直ぐにそれを拾う。彼女らの機嫌が悪くならないように、ご機嫌取りをしなくてはならない。
今日もシェルナザートの眉は不自然に釣り上がり、「お前がいると食べ物が腐っているように感じて堪らない」と喚き、姉妹はにやにやと、「フォークを落としたから拾って」と言う。
その通りにフォークを拾おうと屈み込むと、
「あ、落としちゃった」と、わざとらしく卵をを放り投げ落とした。服は汚れた上、高価な食材だったので、これにはレイミーアも困った。
このようなこと──叔母の不機嫌と姉妹の悪戯──は日常茶飯事と言っても過言ではなく、そのためにレイミーアは以前ほど辛いと感じることはなくなっていた。ただしかし、やめてほしいと何度か心の中で思ったことはあったが。
洗い終わった皿を拭いていると、背後に気配を感じたレイミーアは、何だろうと気になって振り返った。そこには姉妹のひとりであるメフィーリアが立っていた。彼女は普段のように一見すると無邪気のような、中身はどす黒い悪意に満ち満ちた邪悪なにやけ顔でもってレイミーアを見つめる。
「どうなさいました?」レイミーアは尋ねた。「何かありましたか?」
「いや、そうじゃないのよ。頼みにきた訳じゃないの。レイミーア。私はね、忙しそうだなって思って手伝いに来たのよ」
「お気持ちは嬉しいですが……、私なら大丈夫ですから、お嬢様はお休みください」
メフィーリアは目を丸くすると、
「あら。貴女こそ休むべきだわ。働きすぎだもの──それに、大丈夫よ。仕事と言えるほどのことを手伝う訳じゃないわ。ただお皿を仕舞うだけよ」
メフィーリアの企むような笑みに、レイミーアは何だか嫌な予感を覚えたが、その原因が何なのかまでは分からなかった。それにたとえ分かったとしても、メフィーリアの悪意を食い止めることは、降りゆく雨を、掌ですべてを受け止めようとするのに等しく難しいだろう。
メフィーリアは台所の片隅に置いておいた一枚の皿を手に持つと、「あっ」と手を滑らせ落としてしまった。皿は粉々に割れてしまい、修復することはかなわないだろうと思われた。
「大丈夫ですか! お嬢様──」
メフィーリアはその場にしゃがみ込むと、「ああ……ああ……」と狼狽えた様子で呻いていたが、よく見るとどうやら笑っていて、そこでレイミーアはメフィーリアがわざと落としたことに気がついた。
「ごめんなさいね。私、どうもそそっかしくて。貴女の仕事が増えちゃった」
「いえ」レイミーアは目を瞑って俯いた。「……大丈夫です。あとは私がやっておきますから」
「そう。ありがとう」メフィーリアはすたすたと部屋から出て行った。
誰にも聞こえないよう、小さく溜息を吐く。
メフィーリアからの悪戯は日に日に過度に酷くなっていく。先日も、塵を焼却炉に入れたすぐその後にその場に撒き散らし、その掃除途中に上から塵を被せられた。側にいたクリーシェが「灰かぶり」と名づけ、二人の姉妹は楽しそうに大笑いする。レイミーアは悲しくなった。
そんな日々が続くのだ。とうに希望の光は枯れてしまった。もう二度とこの状況から脱け出たいとは思わない。ただ、生きていければ良い……、願うのはそればかりだった。
慌ただしく家事をこなす中、それから昼はとうの昔に過ぎ、外は暗くなり始めていた。レイミーアの忙しさは更に酷くなっていく。窓を濡れ雑巾で拭いてから乾拭きしていくのだが、今は寒さに窓ガラスが結露してしまう。そのため、毎日欠かさず拭く必要があった。しかし屋敷には窓がいくつもあって、レイミーアだけでは全てを綺麗にするのは大変だ。
窓拭きが終われば、今度は竹箒で廊下を掃いていく。そこが綺麗になれば、次は玄関周りを、庭を、と続いていく。外には乾いた風に運ばれて枯葉たちが散っている。それをひとつに纏めて積んでおいた。この作業は結構な重労働で、汗が止まらなくなる。額に流れる汗を拭うと、尚も竹箒で掃き続けた。
レイミーアは掃除が嫌いではなかった。やればやるほど綺麗になっていくのだ。やり甲斐がある。まるで努力が報われるような、そんな気があったのかもしれない。或いは、作業に集中することで、悩みから少しでも解放される──そんな気分になれるからだろうか。レイミーアは無心になって手を動かし続けていた。
「レイミーア、ちょっと来て」
屋敷の中からシェルナザートの声が聞こえてくる。何事だろうか、レイミーアは一瞬だけ身体を強ばらせた後に、「はい、ただいま」と返事した。勝手口より部屋に入ると、廊下で叔母は待ち受けていた。
「なんで御座いましょうか」
「これを見なさい」
シェヘラザードはそう言うなり人差し指を窓の縁につうっと滑らせて、埃のついた指先を向けてきた。
「どう思う?」シェルナザートは眉を吊り上げながら、そう言った。
「やり直します」レイミーアは頭を下げる。
上から姉妹の嘲笑う声が聞こえて、彼女は心の中でお父さん、お母さん、と呟いた。
二
数年前のこと。
レイミーアは父のイムノータルと母のエスカリーチェと共に、平和な毎日を過ごしていた。イムノータルは厳格な性格だったが、娘には優しく、寝る前には外で起きた様々なことを話してくれる。レイミーアはその時間が好きだった。エスカリーチェはおっとりとしていたが、家事全般を完璧にこなし、効率よく機敏に動いていた。何度かレイミーアも加わったが、彼女にはかなわない。レイミーアはいつも、母を尊敬していた。
素晴らしい両親だったと、それは十五の歳になった今でもそう思っていた。彼女の人生のにおいて、彼らほど出来た人には未だに出会っていない。レイミーアにとって彼らは誇りであり、娘として生まれたことは自慢だった。
ただ、レイミーアの幸せは長くは続かなかった。
それは乾燥した風が強く吹き荒ぶ秋の日の晩に、なんの前触れもなく起きた。
ベッドにレイミーアは寝込んでいた。冷たい風にやられたのか、今までに経験したことのない高熱だった。側には両親が座っており、彼女が眠るまで手を握ってくれていた。だから、レイミーアはその時安心して眠りにつけた。
強い風が吹いて、窓ががたがたと音を鳴らす。イムノータルは窓から外を覗いて見ると、木の葉が舞っているのを目にした。木の枝は大きく揺れてしなり、擦れた葉達が騒めいている。道の端に設けられた街灯はちかちかと明滅して、建ち並ぶ家々を照らす。同時に、シルエットが点滅する。誰も、外を出歩いている様子はない。
「酷い風だ」イムノータルが言った。
エスカリーチェは彼の方を見て頷いた。それから、深く眠り込んだレイミーアを見て、一度手を握った後、離した。彼女の起きる様子はないと見て、ベッドから離れる。
「眠ったわ」エスカリーチェはレイミーアの額から濡れ布巾を取ってから、代わりにそっと手を置いた。「まだ熱い……早く治ると良いんだけど」
エスカリーチェは手慣れた動作で布巾を濡らしてから絞り、再度レイミーアの額に優しく置いたあと、頭を撫でる。
「そうだな」イムノータルは深くため息を吐く。「しかし外がこんなじゃあ、医者も来てくれそうにない」
外では雨が降り始めていた。
「大雨だ。朝には収まってくれればいいんだが」
「心配だわ」エスカリーチェはそう言って娘の方を見た。
「そうだな。今日は隣の部屋で寝よう」
二人は部屋の明かりを消すと、ゆっくりと、静かに扉を閉める音を耳にして、熱に浮かされて眠れずにいたレイミーアは、薄く目を開けた。顔を横にして、薄明かりの差し込む外へと目を移す。窓が震えるようにして音を立てている。風は見えないはずなのに、木々を揺らしたり音を鳴らしたり、物に当たることでその存在が見えるようだった。こんなにも煩く騒がしいのだから、レイミーアには眠れるはずがない。
真っ暗な天井を見上げ、自然と眠くなるのを待ちながら、レイミーアはぼうっとしていた。頭は重く、少しばかり耳鳴りがする。毛布に包まれてはいるが、それでも寒い。咳はないが、喉が痛い。あまり声も出なかった。
酷い症状ではあったが、数分も経たずして、レイミーアはすんなりと眠りに落ちた。身体を蝕む風邪に疲労していたのだろう。それは気絶に近かった。
眠っている間は心地が良い。
全身を覆い尽くす気怠さや節々の痛みを忘れられるからだ。その代わり、楽しいはずの夢の世界は、たちまち汚れた悪夢の世界へとグロテスクに変貌する。
青く澄んだ空の下、レイミーアは浜辺に座り込んでいた。ただ遠くの方──水平線の向こうを見つめていた。照りつける太陽が眩しく、レイミーアは目を細める。すると雲が速く流れて行き、辺り一面が暗くなった。空は暗く淀み、星の光一つも見えない。しかし、そこには黒い太陽が不気味にも高く昇っていた。場違いな存在感に、遅れて出てきた月は圧倒される。微かな光を放ちながらも、やがて、太陽の後ろに隠れて見えなくなった。
あとには太陽が残った。だが、世界は暗いままだ。昏い光は熱となって、レイミーアを焦がしていく。
熱い。
酷く──熱い。
海はいつの間にか赤く変色していた。波が揺れるたび、どろりと重たい動きをしてみせる。寄せては返し、寄せては返し、海はレイミーアを煽っていく。
強烈な不快感にレイミーアは叫び出しそうになった。だが、声は出ない。気が狂いそうになった。手が震え、足は感覚を失った。目を閉じて下を向く。顎先から汗が溜り、雫となって地面に垂れた。耐え切れずに再び空を見上げた。
目の前には大きな月が赤く変色し、揺らめいていた。それはそれは、血のように鮮やかだった。
「──っ」
身体に電流が走るように、勢いよく飛び起きた。汗だらけになり、衣服はびしょ濡れになっている。熱であるから冷えてはいけない──そう思うレイミーアだったが、不思議なことに部屋が暖かいことに気がついた。心なしか、廊下に面する出入り口より向こうから、その熱は来ているように思われた。
扉の下から光が漏れている。ベッドから降りると、まだ本調子ではないためか、ふらりと足元が覚束なかった。壁に寄りかかり、乱れた前髪を手で払う。扉のノブに手を掛けると恐る恐る捻った。開けられた扉の隙間から、強い光が入り込む。手前に開けると、後ろへとよろめいて倒れそうになった。
目をこすり、壁に手をかけながら歩を進める。一歩、一歩と足を踏み出すごとに、床が軋んで音を出した。静かな夜に荒い呼吸が木霊する。廊下を突き当たりまで進むと、次第に壁や周辺が橙色の光に染まっていった。奇妙なことに、壁に投射されたその光は揺らめいていた。
遠くから、ぱちぱちと弾けるような音。
暖炉で火を焚くのと同じ、あの音だ。
窓からは微かに雨脚が強くなるのがわかった。
次いで、何か燃える臭いが鼻をついた。
レイミーアの背中を冷たい汗が伝う。光源は階下から来ているようだった。室内の異変に気がついたレイミーアは、両親を呼ぼうと部屋に入ったが、あろうことか二人とも居なかった。しかし、部屋には灯りが点いている。
父と母は何処に居るのだろうか? 熱で頭は上手く動かないが、光の元へ行かない方が良いことは本能的に察していた。だが、もしも両親がそこへ居るとしたら。何か只事ではない思いもよらない事態に巻き込まれているのではないか。両親はこのことに気がついておらず、隣の部屋で眠っていたりすることはあるだろうか。……いや、そんなはずは無い。まだ二人が眠りにつくような時刻では無いからだ。
ならば、何故今の今まで起こされなかったのだろう。娘を起こすこともせずに、放置することはあり得ない。レイミーアの不安は、近づくたびに強まる光の中、影を濃くしていく。
階段を一段ずつ降りていく。こんなときには段差が非常に高く感じられて大変だった。その上転びそうになって酷く怖い。歯をくいしばりながら、レイミーアは必死になって階下を目指した。踊り場に足を踏みしめると、いかに安定が大事かを思い知り、安堵してその場にへたり込んだ。それから立ち上がると、精一杯声を上げた。
「お父さん、お母さん」
囁くような声だった。
思うように声が出ず、歯痒い思いだ。
光に吸い寄せられる蛾のように、レイミーアは部屋を出て熱を追いかけた。その先に両親がいるような気がしたのだ。断言こそ出来ないが、妙な確信があった。それは同時に、恐ろしい想像でもあった。震える足に鞭を打ち、レイミーアは夢中になって駆け出した。身体は重力を忘れたかのように軽くなる。扉を一つくぐった先に、果たして両親は共に居た。
炎が部屋中を燃やし尽くす中、二人は地面に倒れていた。火とはまた違う、異なる赤──鮮やかな紅い色が床を染めていく。紅いそれは、両親の身体から泉のように湧き出る。涙のように止まらない。部屋中でぱちぱちと音が鳴る。やがて壁は黒く焼け焦げ、煙を上げて独特の臭いを撒き散らした。
瞬きをした。短く、何度も。何度も。
その度に目の前が霞んでいく。
レイミーアは膝から崩れ落ちた。
(どうしてこんなことに?)
涙が溢れていく。
両耳を手で押さえる。
手の中から流れる血が轟音となって響き渡る。
(何があったの?)
光が妖しく揺らめいた。
窓硝子の割れた音。
強い熱風が吹いた。
(熱い……苦しい)
後ろを向いて、視線を上げた。夜というのに明るかった。壁に、自分自身のシルエットが大きく映り込んだ。それはまるで、不幸をもたらす悪魔のようだとレイミーアは思った。煙が辺りに立ち込める。火が次々と薪を探して移りゆく。すべてを、見境なく燃やしていく。
(そうか──ここは地獄なのね)
レイミーアは冷たい気付きに笑いたくなった。大きな瞳には、ひたすらに紅色だけが残っている。両親はもう、死んでいるのだろう。助けを呼んだところで、もう優しく微笑んではくれないのだ。抱きしめられることも、頭を撫でられることも。もう二度とないだろう。楽しかった会話すら、遠い過去のようだ。
(ならば、いっそのこと私もこのまま……)
目を瞑ったその瞬間、玄関口より扉の破られた音がした。入ってきたのは見知らぬ男達だった。全身をずぶ濡れに、彼らは口元を布で覆っている。臨時の救出隊だった。皆口々にレイミーアに何やら話しかけていたが、最早何と言っているのかはわからなかった。意識が遠のいていく。目の前はちかちかと点滅していく。
「煙を吸いすぎたんだ」
遠いところから声がした。
レイミーアは抱き抱えられる。
(ああ、そうか。私は煙を吸いすぎたのだ)
やがて世界は暗転し、記憶はそこで途絶えた。
意識が戻ったのはそれから数日後、昼の頃だった。
目が覚めたのは病院のベッドの上で、傍らには看護師が立っていた。緩々と起き上がると、靄のかかった頭の中に流れる鮮明な映像を、どうにか振り払おうとした。嫌な夢を見たのだと、自分を納得させようとして、目が醒めるに従って急に──冷たい現実感が伴った。
不思議と涙は出なかった。代わりに、胸に穴が空いたように、途轍もなく大きな虚無感が身体を支配する。
──眩暈がした。
途端に気怠さが蘇ったが、どうやら熱は治ったようで、身体中の痛みや不快感は消えて無くなっていた。やはりあれは夢だったのかと、レイミーアはふと看護師の方へと目を向けた。だが、だとすれば居ても良い筈の両親の姿が見当たらなかった。
看護師と目があった。ふくよかで優しそうな女性だった。対照的に、その表情は暗く哀しげだ。
声をかけようとして、言葉が出ずに、唾を飲み込んだ。喉が渇いている。レイミーアは言った。
「水を、ください」声は震えていた。
後になって聞いた話だ。
家は幸い燃え尽きることはなかったという。両親の倒れていたあの一部の部屋を除いて、無事だった。しかし、出火原因は不明なままだった。火元は恐らく火事現場であろうと言われていたが、一体何が部屋中を燃やしたのだかはわからなかったらしい。一応、蝋燭が倒れてしまったのだろうと結論を出したようだが、レイミーアは釈然としなかった。
また、レイミーアは看護師に両親が血を流して倒れていたことを告げたが、彼女は黙って首を横に振った。血溜まりなどなかった、と。救出隊もそれらしいことは言わなかったし、血を吹き出したという二人は黒焦げになり、灰となって朽ちてしまったという。だから、流血したというレイミーアの証言は調べることは出来ないし、万が一遺体がそのまま形を残していたとしても、原因は解明できなかったであろう──という説明だった。
全ては燃やし尽くされたのだ。残ったのは舞い散る灰だけで、レイミーアの感情さえも塵となって、どこかに散ったらしい。もう、何をする気力も無くなっていた。生きる理由すらも、彼女から失われていた。レイミーアの目に映る世界は、煙色だった。色の焼け落ちた──酷く殺風景な世界。
レイミーアはそこに、取り残されてしまった。
生き残ってしまった。
(あのまま目覚めなければ良かったのに)
今でもそう考えることがあった。
もう起き上がる気すら失せ、背後にゆっくりと力なく倒れた。もう何もしたくない気分だった。起きていることすらも、しんどく思えてならない。憂鬱とまではいかない。ただ、何もなかった。全てに対する興味を失くしてしまった。心の中は、虚無だった。
声を失くしたレイミーアの様子に、今は安静にさせておくべきと考えたのだろう、看護師は部屋を出て行こうとした──が、一つ思い出したように振り返って言った。
「そういえばあの家なんだけどね。イムノータルさんとエスカリーチェさんに代わって、シェルナザートさんが住むことになったの。シェルナザートさんというのは、エスカリーチェさんの妹よ。一度くらいは会っているでしょう?」
レイミーアは確かに会っていた。だが、片手で数えられる程度だ。あまり人の良い性格をしていないために、自然と会うことが少なくなったのだ。レイミーアは看護師に視線をやった。しかし、口を利くだけの気力はない。
「それでね」看護師は尚も続ける。「あの、酷な話かもしれないけれど、──いえ、貴女のために今こそ言うけれど、貴女はあの火事で死んだことになったみたい」
「え──」
レイミーアは小さく驚いた。
「どういう、こと、ですか」
看護師は頬に手を当てながら、「これもシェルナザートさんからの要望なのよ。もしかしたら、この火災は恨みからくるものかもしれないって。だとしたら、放火魔は貴女が生きていることを知ったら、また放火してこないとも限らないでしょう? ──ってね、彼女がそう言ったのよ。でもまあ、確かに万が一の時を考えると、その方がいいのかもって。だから、一応意識が戻らないままって言うことにしてあるわ。流石に死なせることは出来ないけれどね……」
看護師はそう言って、哀しげに微笑んだ。
それはいつか見た、母そっくりの憐憫の目に似ていた。
その日より、レイミーアは死人として過ごすこととなった。
屋敷の新しい主人は、レイミーアを邪魔者のように扱った。姉妹は最初こそ普通に接してくれていたが、邪険にするシェルナザートを見習ったのか、それともそんな環境に馴染んでしまったのか、やがてレイミーアを見下すようになった。それから成り行きで奴隷のようにこき使われて、今に至る。
ゆっくりと、時間をかけて、レイミーアは奴隷に成り果てたのだ。
三
レイミーアは箒を手に、廊下を掃除していた。忙しない毎日を送る中で、彼女は過去を振り返る暇を失くした。あるのはただ、目の前に転がる作業の山を消化していくばかりで、ほぼ無心に近い状態にあった。かつて病人として扱われていたが、既に治った今となっては、必要な時以外は死人が街を歩かないようにと、屋敷に軟禁されている。買い物の際は深く帽子を被り、顔を見せないようにしてようやく自由になる。だが遅くなってはいけないから、知り合いを作る間も無く家へと急いで帰ることになるわけで──その度に鳥籠の中に閉じ込められたかのような鬱屈感と、狭い思いに何度も苦しんだ。
しかし、考えなければそれは苦痛ではない。考えるから悩み、苦しくなるのだ。作業は嫌に多く大変だったが、そのお陰で悩みに苦しむことはないために、一種の逃避としては役立った。日によって命令は変わるが、作業自体は殆ど毎日同じだ。だから考えるよりも先に身体が動く。効率良く、丁寧でありながら速さを保つのだ。でなければ、一々小言を入れられてしまう。また、猫のように気儘な姉妹からの命令に対処する時間が無くなってしまう。
今日この日もまた、繁忙されるまま時間を潰してしまった。
(今日は仮面舞踏会だと言うのに)
レイミーアは項垂れた。
年に一度、冬になると開催されるこの舞踏会には、他にはない特筆すべき点がある。それは仮面を付けることで、誰が誰なのかわからない。誰かですらない、という状況を演出することだ。そこには身分も名前も何もない。招待客が音楽に酔い痴れ、踊りを、食事を、一時の出会いを楽しむ場として、特別な世界に浸れる空気を作り上げたのだ。仮面舞踏会に参加することは、一種のステータスでもあった。
ある程度の位でないと参加はできないが──シェルナザート家にはどうやら招待が届いたらしい。姉妹は参加するために衣装部屋に一日中篭っては楽しそうに笑っている。レイミーアも参加したかったが、それは諦めるしかないだろう。シェルナザートが許してはくれない。
彼女は生涯において仮面舞踏会に参加したことがなかった。十五歳以上でなければ招待されないのだ。今年で丁度十五になる彼女は、しかし、外では死人となっている。死体は招かれない。レイミーアは短く嘆息した。
レイミーアが衣装部屋の前を通り過ぎようとすると、中から声が聞こえてきた。扉が閉められているからか少しくぐもっており、注意して耳を傾けなければわからなかった。耳を澄ましてみると、漸く会話の内容が理解できた。
「明日の仮面舞踏会だけど、クリーシェはどんな服を着ていくの?」
メフィーリアの声だ。浮ついているのか、心なしか弾んでいるように思えた。確か、今年で十六になる彼女らは、しかし初めて招待されたはずだ。
「シックな色調がいいわ。そう……、できれば黒に近い色がいい」対照的にクリーシェは落ち着き払っている。
「そう。なら、私は白にしようかしら。その方がお互い目立つでしょう?」
クリーシェは何も言わなかった。
「レイミーアも行ければ良いのだけれど、お母様が許さないでしょうね……」メフィーリアはそう言ってくすくすと笑う。
「レイミーアはお母様に踊らされるのだから、家が舞踏会みたいなものよ。行けなくても構わないでしょう」
クリーシェの言葉に、メフィーリアは更に笑った。
レイミーアは無性に悲しくなった。
何度か家を飛び出そうとしたことがある。だが、監視されているのだろうか、その度に叔母や姉妹からの邪魔が入った。皆が寝静まった頃合いを見計らって部屋を出る、なんて真似は考えてはみたものの、実行には移せなかった。そんなことをしては皆に迷惑をかけてしまうと思って。
だから、自由な二人が羨ましい。
遊びたいときに遊び、行きたいところへ行く。
これの何と羨ましいことか。
レイミーアは自分が酷く矮小で、卑しく、滑稽なものに感じられ、涙が出そうになるのを堪えた。箒の柄を強く握りしめて、再度自分の仕事に集中した。手を緩めてしまえば、また、悲しさに辛くなってしまうだろう、と思ったのだ。
何も考えないよう、家事を再開させた。
それからどれだけの時間が流れたのだろうか。気がつけば夕刻になっていた。最早、レイミーアは無意識で作業をこなしている。時間感覚が衰えつつあることに気がついた。
掃除道具を仕舞ってから夕食の準備に取り掛かると、レイミーアは頭の中でレシピを考え、必要な具材を揃えた。鍋に食材を入れ、火をつける。冷たい空気に慣れてしまった彼女には、久しく忘れていた温かみをそこで感じた。料理の間も、やはりレイミーアは無心になっていた。
調理を終えて皿に盛り付け、テーブルに並べる。フォークとナイフを脇に揃え、グラスを置いた。用意するのは三人分のみで、レイミーアは彼女らが食べ終えてから自分の分──余ったもの──を食べ始める。しかし、皿洗いをしなくてはならないし、その前にシェルナザートから呼び出されることが殆どであったため、それ程時間をかけることはできない。だから、自ずと食事は簡素なものになっていく。彼女が痩せていくのはその所為でもあるだろう。
三人を呼ぼうとして、レイミーアは声をかけた。しかし、反応はない。距離的に聞こえないためであろう。そう考えて、まずは姉妹を呼ぶことにした。レイミーアは衣装部屋へと向かう。階段を上るとすぐ目の前に衣装部屋がある。レイミーアが確認すると、扉は開け放たれていた。灯りは付いたまま。辺りは静かで、中を覗くと誰もいないのがわかった。
もう部屋を出たのだろうか。それとも、部屋の奥にいるのか。試しに中へ入ると、扉が勝手に閉まり、レイミーアは心臓が止まるくらいにびっくりした。胸に手を当てて、一度大きく深呼吸する。仕切り直してから、改めて部屋を見回す。
その部屋は天井が高く、ハンガーに掛けられた衣服が、二段に亘って横にずらりと並んでいる。まるで店の中にいるようだった。彼女が幼い頃はここまで服を揃えてはいなかったから、この光景は圧巻だった。種類も豊富だから見ていて飽きない。手に取ってみれば、サイズはどれも姉妹に合わせてあるのだろうことがわかり、一つしか歳の違わないレイミーアにも着れそうなサイズだった。
一つドレスを手に取り胸元に持ってくる。
(これを着て仮面舞踏会に出てみたいな)
しかし、レイミーアにはそれが夢であることはわかっている。叶わない夢であることもまた。別段それでも良かったのだ。彼女はそれを本気にしてはいなかったし、単なる現実逃避──妄想であることを、重々承知していた。だが、それでも衣装合わせは楽しい時間だった。
沢山の衣装に思わず見惚れてしまったレイミーアは、いけないと思い返して扉を見た。その傍には姿見が置いてある。見窄らしい、不幸そうな表情の少女がそこには映っていた。一瞬だが誰だろうかとレイミーアにはわからなかった。それが自分であると気づくのには、やや時間がかかった。やつれており、目の下には隈ができている。髪の毛は何本か灰色に変色していた。着ていた古布からはほつれた糸がだらし無く伸びている。
鏡に映っていたのは、疲れ切った自分自身だった。
鏡に背を向ける。
煌びやかなドレスやワンピースを見ていると、それらが輝いているように見える。
目頭が熱くなった。
(仕方のないことだわ)
そう言い聞かせるしかなかった。袖で目元を拭うと、部屋を出ようと扉のノブを探した。手を掛けようとしたその時──おもむろに扉は開けられた。レイミーアは驚く。勝手に開いたのだ。一体何があったのか、一瞬の間だけわからなかった。
暫くして、レイミーアは扉の前にいる人物と目があった。メフィーリアだ。その背後にはクリーシェが。
彼女たちは笑っていた。
嘲るような表情で、笑っていた。
「何をしているの?」クリーシェは無表情で質問する。
「いや、これは──」
レイミーアはどう言おうか迷った。考えあぐねていると、メフィーリアが口を挟んだ。
「私たちを探してたのでしょう?」
「そうです」レイミーアら頷いた。「こちらに居るかと思いまして」
「私たちはもう先に行って待っていたのだけれど」クリーシェが言う。
「ずっとここに居たの?」メフィーリアは詰問するようにレイミーアに近づいた。
「いえ、そう言うわけでは──」
「ずっとここに居たのでしょう?」
メフィーリアは至極楽しそうに笑いながら問い質した。
「どういうこと?」クリーシェは知らないフリをして、横目でメフィーリアに聞いた。
「この子、私たちを呼び出しに来て、そのまま衣装合わせを楽しんでいたのよ」
クリーシェは目を丸くさせてメフィーリアから視線を外すと、馬鹿にする目つきでレイミーアを見た。
「それは本当なの?」
「ええと、それは──」
「私見てたのよ?」メフィーリアは、レイミーアが全てを言い終える前に遮った。「ほら、この部屋の奥を見て。小指くらいの小さな穴が空いているでしょう。穴の先にはね、わかっているとは思うけど、私たちの寝室があるの。そこでね、私たちずっと見てたの」メフィーリアはくすくすと笑う。
「どういう、こと──ですか」
レイミーアの声は震えていた。
メフィーリアはクリーシェをちらと見てから、話を続ける。
「貴女の呼び出しは聞こえたのよ? でも、来てみれば貴女は居ない。ああ、どこかで入れ違いになったのね、と私は衣装部屋に戻ったのよ。そしたら──」メフィーリアはそこで一旦言葉を止めた。「中から何やら物音がするじゃない。誰が居るのかは、よく考えてみればすぐにわかることでしょう? 私とクリーシェは部屋の外側に居る。お母様はこの部屋に入ることはない……、だってここにあるのは私たちの衣服だけですものね。用があるはずはないわ。それで、ああ、そこにいるのはレイミーアねって、そう思ったのよ。でも、確証はないでしょう。だから試しに、そこの穴から覗いて見れば……」
レイミーアは悪寒に鳥肌が立った。ずっと、見られていたというのか。
「傑作だったわ! ああ、本当に吹き出してしまいそうだった。堪えるのに必死だったのよ。……それに、鏡を見て泣きそうになるなんて驚いたわよ」メフィーリアは必死に笑いを堪える素振りをした。
「貴女泣いたの、その歳で?」クリーシェは侮蔑的な視線でレイミーアを見た。「恥ずかしいわ」
レイミーアは顔が熱くなったあと、冷たくなるのを感じた。
(もう嫌だ)
糸が切れたような気がした。
いつの間にか涙はとめどなく溢れていた。静かに、ただ静かに涙を流していた。本当は叫びたい気持ちだったが、レイミーアは声を押し殺し、自分を殺した。拳を握りしめて耐え忍んだ。唇を噛んで、その痛みで悲しみを誤魔化した。
「何よその目は」メフィーリアが真顔になった。
そう言われてから、漸くレイミーアは自身が姉妹を睨んでいることに気がついた。
「部屋から出なさいよ、汚らわしい!」
メフィーリアに掴まれ、部屋から出される。壁に背中から倒れた。後頭部が当たり、鈍い痛みが走った。
「貴女も可哀想よね。両親を殺されて、その上、奴隷扱いだなんて」
レイミーアの目の色が変わった。
「それって、どういうこと……!」
「奴隷呼ばわりのこと? それとも、殺されたって話のことかしら。貴女まさか知らなかったの? もしかして、お母様から何も聞かされなかった?」
「だからそれは──」
なんのことだ、と続けようとした。だが、急に口が渇いて声が出なかった。
メフィーリアはふっ、と鼻で笑う。
「あの火事はね、お母様がやったのよ」
「え──?」
頭が激しく揺さぶられるようだった。
次第に頭から血がみるみるうちに下がっていく感覚。
足に力が入らない。
立っているのがやっとだった。
「そんなまさか、あれは、あの火事は」
あの時の情景がフラッシュバックする。
煌々と照りつける炎。
壁に揺らめくシルエット。
地面に倒れ伏した両親。
流れ出る鮮血。
急に視界が遠くなっていく。意識が、定まらなくなってきた。視界が歪み、倒れそうになる。耳鳴りがし、気持ちが悪くなった。
メフィーリアの声が遠ざかる。
「知ってた? 本当は叔母様──エスカリーチェだけを殺そうとしてたらしいの。でも、愚かな叔父様が助けようとして割って入ってきたのね。それで、彼が刺されたの。その後に、叔母様が。そう言えば貴女、血を見たらしいわね。これが真実よ。やっとわかって、良かったわね」
また一つ、レイミーアの中で何か糸が切れた。
「ああああぁぁぁぁあ!」
あの時の悲しみが、忘れかけた苦しみが、乗り越えたと思った虚無感が、一斉に襲いかかった。レイミーアは思わず悲鳴をあげていた。
「なんで! なんで、私が……! お父さんが……お母さんが! こんなに苦しまなくちゃいけないのよ……!」
衝動的にメフィーリアに掴みかかっていた。メフィーリアは苦しそうにもがく。クリーシェが割って入り、レイミーアはそれを振りほどいた。と、クリーシェの手がレイミーアを押した。
体勢を崩し、重心が後ろに傾く。足を一歩後ろに置いたが、そこに地面はなかった。
レイミーアは振り向いて下を見る。
階段だ。
そのまま倒れてしまえば転落する。
しかし、どうにもならない。
倒れる。
手摺に掴もうと手を伸ばす。
届かない。
姉妹と目があった。
驚いている。
全てがスローモーションになった。
ゆっくりと、落ちていく。
天と地がひっくり返った。
頭から落ちている。
瞬きをしたその次には、
痛み。
そして、静寂。
やがて暗闇が訪れた。
すべてが、レイミーアから消えていった。
それは一瞬のことだった。
四
何もない、真っ暗な世界。右を向いても左を向いてもただ虚空が広がるばかりだ。
そこで、レイミーアは目が覚めた。否、厳密には意識だけが表出した、と形容すべきだろう。彼女には身体がなかったからだ。意識のみが存在していた。一体どのようにして世界を認識しているのか、彼女自身にもわからない。突如として自分という概念が生まれ、思考が流れ始めた。頭に触れようとして、振るべき手がないことに気がついた。
(ここは何処だろう?)
空気が澄んでいるようにも感じられるし、淀んでいるようにも思われる。掴み所がない。触れる壁もないから、輪郭も描けない。全貌が掴めない。そもそも存在していないのではないか──そんな疑念を抱いたが、自分がここに居る以上はやはり世界は存在するのだろう。そこがどんな場所であれ、用意された舞台であるから、こうして意識が戻ったのだ。
目を瞑る。
瞼の閉じた感覚があった。
次いで、頬に風の当たる感触。冷たい。だが、漸く人間らしい感覚が戻りつつあることに、レイミーアは安堵した。目を開けると、見慣れた景色が瞳に映った。
ここは路地だろうか。煉瓦造の建物が並ぶなか、レイミーアは仰向けに倒れていた。ゆっくりと身体を起こし、立ち上がる。何も痛みはなかった。何も異常はない。辺りを見回すも、周りには誰もいない。空を見上げると、今はもう夜だった。そのためか、やけに静かだった。
ここは、屋敷の庭のようだ。
花に囲まれている中に、レイミーアは倒れていた。花弁が剥き出しの脛をくすぐる。腕や脚に付いた雪を手で払うと、屋敷に目を向けた。窓の中は暗かった。灯りが消されているのだろうか。ならば、今は遅い時間なのかもしれない。
(自室に戻らなくちゃ)
そう思って扉へと駆け寄ろうとして、雪に足がもつれそうになった。裸足だったから、つんざくような痛みが伝わった。寝惚けていたのだろう、上手く身体が動かない。しかしそれも、時間の問題と思われた。また眠ればすぐに良くなるはずだ。ノブに手を掛けようとして、奇妙なことに触れることができなかった。ノブ自体はそこに存在していて輪郭がはっきりとしている。だが、靄のように透けてしまう。どうしても触れることができなかった。
(そうじゃない)
触れないのはノブの方ではない。何度か試してみてレイミーアは気がついた。透けているのは、彼女の方だったのだ。物に触ることができない。ノブのみならず、扉や壁までもが空気のように掴めない。
かといって、部屋の中へと入れるわけではなかった。まるで領域内に入ることを拒否されているような──レイミーアはそんな建物からの拒絶感を感じた。それは思考による理解ではなく、感覚的な納得に近い。ああ、人工物には触れないのかとレイミーアは直感した。
ならば何故、レイミーアはここにこうして立っていられるのだろうか。庭は人工物ではないのか。しゃがんで地面の様子を見てみると、理由は簡単に理解できた。雪や土が敷き詰められていたのだ。どうやら自然物には触れるらしい。だから接地できるのだろう。レイミーアは一人頷いた。
だからといって何かが進展したわけではなかった。一体自分の身に何が起きたのか、彼女は知らない。もう一度目が覚めた場所へと戻る。輪状に花が咲いているその中に、レイミーアは座った。
眠る前のことを思い出す。そういえば私は夕食を作った後だった、とその時のことが頭に浮かぶ。頭痛がして、レイミーアは顔を顰めると、こめかみに手を当てた。記憶が流れてくる。まるで別人のもののようだ。だが、確かな既視感がある。
(これは、私のものだ)
直後に姉妹とのやり取りを思い出した。
衝動的に掴みかかってしまい、それを振りほどかれた反動で階段から転落したこと。そして意識を失ったのだ、ということ。レイミーアはそれら全てを思い出した。そうだ、こういうことがあったと納得する。
では何故、レイミーアは外の庭に寝ていたのだろうか? どうして屋敷内には寝ていなかったのだろうか。
レイミーアは理解の及ばぬ事態に困惑した。まるで意味がわからなかった。ひとつだけ可能性があるにはあったが、理性がそれを全力で否定する。あり得ない、そんなはずはない、と。だが考えれば考えるほどに、その可能性が高くなる。現実的でないが、妄想とも言い切れない。或いは、
(まさか、これは夢?)
レイミーアは頬をつねる。痛みがない。やはり、夢なのだろうか。風が吹いた。やけに冷たく感じられる。気温が低いのだろう。とても寒い。感覚は残っているようだ。ならば、夢ではないのか。
レイミーアは頭の片隅に示された可能性を払拭すべく、あてもなく庭を歩いた。あわよくば、ここを出られないかと考えてのことだった。數十分ほどそうしてみて、不可能であると気がついた。塀や壁が邪魔で出られなかった。透けて出て行くことは出来なかった。恐らく雪や土が壁に付いていたのかもしれない。隙間を見つけても、そもそも穴に身体が通らない。指の一本も、空気に阻まれているかのように入らなかった。
何周か回って抜け穴を探し、見つけては通れないかと試してみたものの、悉く駄目だった。レイミーアは潔く諦める。できないならば、何度やっても結果は変わらないだろうとわかったためだ。こればかりは、努力でどうにかなる話ではないらしい。閉じ込められたような閉塞感に、レイミーアは頭を抱えたくなった。
為すすべもなく、夜空を見上げた。
思い返してみると、最近は空をみることは少なくなっていた。掃除や洗濯、皿洗いといった類のものは、基本的に下を向く作業だ。寝る前の読書でさえも、視線を下に向けている。こうして空を見るのはいつぶりだっただろうか──レイミーアは思い出せなかった。
良く見れば星が点在している。大小様々な光点が視界全体に広がっている。なんと綺麗なものだろうか。感動して息を吐くと、それは白かった。冬だからだろう。気温が低いのだ。そう思っていると、空からは白いものが降りかかる。
雪だ。
小さな欠片が頬に落ちて溶けた。冷たい。散々と降る雪は、次第にその数を増やしていく。白い雨が降り続けているようだ、とレイミーアには思えた。雪が肌に触れる。輪郭が白く紡がれる。私は存在している──レイミーアは何故だかそんな気がして泣きそうになった。
(私は、生きている)
死んでいても尚、そう思うことができた。
どれ程の間夜空を見続けていたのかはわからない。時間というものから、レイミーアは長らく離れていた。レイミーアは花畑に横たわると、風を感じながら瞼を閉じた。これからのことは考えなかった。悩んだところでどうしようもないだろうと、割り切っていた。ただこの時を過ごすことにしよう。彼女は思いっきり深呼吸した。
時間の流れが遅くなったように感じた。いや、そもそも時間とは何だろう? 空間の変化か、物体の運動か──人間の思考の中にのみ存在する概念か。
(ならば今の私と似ているのかも)
あるようでないもの。ないようであるもの。
──生きているようで死んでいた私。
──死んだようで、生きている私。
とても良く似ている。レイミーアは笑った。
不思議な感覚だった。生きていた頃には知り得なかっただろう。こんなことを考える暇もなかった。考えるほどの余裕もなかった。忙しく、そして疲れていた。
「私は解放されたんだ」
そう考えてみると、案外悪いことではないのかもしれない。
「私は死んでしまった」
でも、
「私は生きている」
涙が滲んだ。
雪が二重になって見えた。星の煌めきが幾重にも増える。
レイミーアは泣きたくなった。だから、涙をこらえることはしなかった。流れのままに、涙を流し続けた。雫が頬を伝い、やがて地面に垂れる。
(こうやって泣いたのは何年ぶりだろう)
レイミーアは意識せずに様々なことを我慢していたらしい。自分の感情に身を任せることに心地良さを感じ、久々に感動した。そしてそんな自分に驚いた。自分を殺し過ぎたのだ、と漸く思い至った。
呼吸が荒くなる。
涙が、止まらなくなった。
「もう、ゆっくりと休みなさい」
母の声がした。
「そうだね」レイミーアは答える。
答えてから、レイミーアは我に帰った。目を開けて声のした方を見た。足音はしなかった。しかし、そこには女性が立っている。暗い紫のロープ姿だ。夜だというのにフードで顔を隠し、表情は影になってわからない。両手には何ももっていない。足は裸足で何も履いていない。只者ではないだろう。レイミーアは思わず後退りした。
「貴女は──」
その後が続かない。
女は答える。
「魔女……と言えば良いのかしらね。わからないけれど、そういう風に思ってくれたら嬉しいわ」
品のある落ち着いた声だった。
「私が見えるの?」
言い終えてから何と間抜けな質問だろう、とレイミーアは思った。
「ええ、見えるわ。しっかりとね。安心して。私には貴女が見える」
「貴女も死んでいるの?」
「そう。貴女にとってはかなり前のことかもしれないわ。でも、私には昨日のように感じる」
魔女は頬に手を当てた。袖から覗く腕に、火傷の痕が見えた。
「貴女はどうして死んだの」レイミーアは声を震わせた。
「死にたくて死んだ訳じゃないわ」諭すような、優しい声だった。
「それは──どういうこと」
束の間、魔女は思案するように顔を傾けた。
「私には残したものがあったの。それも、とても大事な、唯一無二の大切なもの」魔女は胸に手を当てる。「置いていくだなんて、罪深いことでしょう? だから、私はここに残されたの。ここからすべてを見ていた」
「ずっと……?」レイミーアは聞いた。
「そう。ずっと」魔女は頷く。「私はずっとここにいた」
雪は静かに降っている。
まるで時間が止まってしまったようだった。
「貴女の望みを聞かせて?」
「望み?」レイミーアは聞き返した。
「何かしたいことはない? 例えばそう──仮面舞踏会」
レイミーアは驚いた。
「もう終わっているんじゃあ──」
「いいえ」魔女はゆっくりと頭を振る。「夜はまだ始まったばかり」
「……でも、招待状がないわ」
持っていなければ参加できない決まりだ。
「それなら一つここに、ほら」
魔女は掌を合わせ、開いた。するといつの間にか封のされた手紙を持っていた。
「これで行けるでしょう?」
レイミーアは目を丸くした。
「で、でも、私は死んで──」
魔女は唇の前に人差し指を立てた。
「目を瞑って」魔女は微かに微笑んだようだった。
言われた通りに目を瞑る。
魔女は手元に氷の杖を作ると、それを振るった。
一陣の風がレイミーアを巻いた。
それから彼女を置いて上空へと舞い上がる。
「目を開けて」
レイミーアは目を開けた。
「そんな──」
白い感嘆の息が出た。
雪と星とが彼女の周りに落ちていた。それは肌に沈み、溶け込んでいく。いつの間にか、レイミーアはドレスに身を包んでいた。
淡い青色を基調とした雪のようだった。煌びやかで美麗であったが、それでいて厳かで落ち着いている。サイズもレイミーアに合っており、イブニンググローブやティアラ、ガラスで作られた靴と格好が全て変わっていた。その場でくるりと回ると、ドレスが波のようにふわりと靡く。
「凄い……」
「綺麗よ、レイミーア。それに、馬車が必要ね」
魔女は雪を掬い取るとふうっ、と吹いた。雪は舞い散り拡がった。すると忽ち馬車が浮かび上がる。氷のように冷たく美しく、それでいて触れば溶けてしまいそうで、酷く儚げだ。雪から生まれた白馬が嘶く。レイミーアに近づくと足を折り曲げ、頭を垂れた。
「凄いわ……!」レイミーアは目を輝かせた。
「それから従者も必要ね」
魔女は庭を通りがかった野鼠を指差した。途端に野鼠は魔女の手元へ近づいてくる。
「賢い子ね」
魔女が頭を撫でると野鼠は雪に包まれ、その姿を大きく変えた。体躯が大きくなり、身長が伸びる。やがて、人の形になっていく。そして、野鼠は凛とした従者へと変貌した。彼もまた、レイミーアに向き直ると、片膝をつき頭を下げた。
「さて、これで全て整ったわ」
レイミーアは泣きそうになりながら、「どうしてここまでしてくれるの?」
「だって」魔女は口許を綻ばせた。「楽しみにしていたでしょう?」
レイミーアは馬車を見た。
「レイミーア。一つだけ守って欲しいことがあるの。この魔法は、午前零時を過ぎたら溶けてしまうわ。だから、雪解けの始まる前に、ここへ帰ってくること。或いは──」
言いかけて、魔女は何でもないわ、と頭を振った。
レイミーアは馬車に乗り込むと、従者がそれを運転した。馬車は空高く飛び上がる。雪が道を作り、その上に轍を残した。窓から顔を出して庭を見ると、もう魔女の姿はどこにもなかった。
レイミーアは窓から顔を戻すと、一人呟いた。
「ありがとう、お母さん」
雪は降り続けていた。
「でも、ごめんね」レイミーアは俯いて、嗚咽を漏らした。「私、どうしても許せない。メフィーリアが……クリーシェが。そして、シェルナザートが。お母さんを殺して、お父さんも殺した。私を騙して──なんて酷い仕打ちかしら……許せるはずがないわ。どうして私たちが苦しんで、あの人たちは笑っていられるの? 二人も仮面舞踏会に来ているはずだわ。なら──踊らせましょう。私の手のひらの上で、死のワルツを」
レイミーアの瞳に、青白い馬車が炎のように揺らめいた。
もう、涙は流れていなかった。
五
揺れる馬車の中、レイミーアは空を眺めていた。真っ暗な夜空に、黄色に輝く満月が浮かんでいる。恐ろしく美しいそれは、妖しい眼差しを人々に向けている。
仮面舞踏会は宮廷で開かれる。
国王が主催しているのだ。王子の妻となる者を探すための、出会いの場として開かれるのでは──と噂されていたが、その真偽は定かではない。徐々に近づくにつれて音楽が聞こえてくる。
門は閉ざされていた。その前には二人の門兵が並んでいる。駆けてくる馬車に気がついた彼らは、レイミーアの元へとやってきた。
「招待状は?」男が端的に聞いた。
「これを」
従者が招待状を渡した。
一人がそれを受け取り、中を検める。その間、レイミーアはもう一人の男と目があった。どこかから花火の打ちあがる音が聞こえた。
「どうぞ、中へお入りください」男は仮面を渡すと、深く頭を下げた。
従者により馬車の扉が開かれる。手を引かれながらステップを降りると、門の中から優雅な音楽が、一層大きくなって聞こえた。従者がレイミーアより一つ前に出た。振り返り、彼は微笑む。レイミーアは仮面を付けると、従者にエスコートされながら、中へと入った。
そこは、未だかつてレイミーアが見たことのないくらいに大きな空間が広がっていた。天井は吹き抜けになっており、荘厳なシャンデリアが中央より吊り下がっている。天窓はステンドグラスになっていて、天使の姿があしらわれていた。目の前では、それぞれ華やかなドレスで着飾った麗人たちが、音楽に合わせて踊り、回っている。可憐な華が咲いているみたい、とレイミーアは思った。音楽隊は二階にいるようで、音は遠くまでよく響いた。
レイミーアは中へと進んだ。ガラスの靴が響き、そのためか自然と視線が集まっていく。彼女の進む先を邪魔せぬよう道が開かれた。レイミーアはホールの中央に立つ。姉妹はどこに居るだろうか。
「私と踊りませんか」
ふと、背後から声をかけられた。少しばかり驚いて目を開いた。振り返ると、燕尾服を着た男が膝立ちに、手を差し出している。レイミーアがその手を取ると、男は立ち上がった。彼女よりも幾分か背が高い。
「私、踊るの初めてで……」
レイミーアは手で口元を覆った。
「ならば、私がお教えしましょう」仮面の下で男は微笑んだ。よく通る声だった。「私が一人目ですね?」
レイミーアは頷く。
「それは光栄です」
レイミーアは彼に導かれるままに身を任せていた。手を引かれ、回り、音楽と一体化する。場の雰囲気がレイミーアに同調し、彼女を中心に周りは波紋のように広がっていき、舞い踊る。
楽しい時間だった。瞬く間に時が過ぎていく。それは錯覚だろうか。しかし、レイミーアにとってはどちらでも良いことだった。
「お名前は?」男が聞いた。
「あら。それは秘密よ」レイミーアはくすくすと笑った。「なんのために仮面を被っているのかしら?」
「私は、チェンバースと言います」男は続けた。「聞いたことはありますか?」
レイミーアは答える。
「ええ勿論──この国の王子様ね」
男は頷く。
「それが私です」
「それは気がつかなかったわ……」
「そのための仮面ですから」そう言ってはにかんだ。
レイミーアはこの男に好感を抱いた。
「一目惚れしました。私と、結婚してはくれませんか?」
レイミーアは目を丸くした。「本当に?」
「ええ」
その眼差しは本気だった。
レイミーアは困ったように笑う。
「嬉しいけれど、それはできないの」
「何故?」王子が尋ねる。
「私はもう、死んでいるのよ」
踊りながら、レイミーアはメフィーリアの姿を見つけた。見知らぬ誰かと踊っていた。クリーシェもまた、遠くで踊っている。王子からそっと離れると、腕を掴まれた。
「せめてお名前だけでも」王子は懇願する。
ややあって、レイミーアは答えた。
「私は──シンデレラ」
そう告げると、メフィーリアの元へ向かった。
彼女は部屋の端に立ち、テーブルの上に並べられた料理を口に運んでいた。彼女の前に立ち、レイミーアは仮面を外して見せる。
「久しぶりね」
メフィーリアは驚きの表情を浮かべ、二階へと逃げていく。バルコニーへと向かう彼女の後をなぞるようにして、レイミーアは追いかけた。バルコニーからは花火が見える。けたたましい音を立てながら、艶やかな華が空に広がった。舞い散る雪と合わせて幻想的だった。
メフィーリアはそこで観念したように立ち止まった。振り返ると、レイミーアを怯え混じりに睨んだ。
「貴女──生きていたのね」それが最初の言葉だった。声を震わして、「手足が変に折れ曲がって……。死んだのかと思ったわ」
「私が生きていて嬉しい?」
メフィーリアは押し黙ったまま、再び外の方へと向き直った。手摺に手を置き、俯く。
「私に何の用? 言っておくけれど、貴女を突き落としたのはわざとじゃないわ」
「そうね。それはわかってる」
「復讐するつもりでしょう?」
「勿論」レイミーアは微笑んだ。
反対に、メフィーリアの表情は凍りつく。
「ねえ、今何時だかわかる?」
「どうしてそんなことを──零時になる十五分前よ」
「少しお話しましょう」
レイミーアは掃き出し窓を閉める。
「する話なんて何もないわ」メフィーリアは表情を痙攣らせた。
「いいえ、あるはずよ。貴女たちのしたことは許されない」
「今更謝れって言うの?」
メフィーリアは馬鹿にするように鼻で笑った。
「そうよ」レイミーアは真面目な顔つきで言う。「できない?」
「私は何も悪くない。無関係だわ。貴女が勝手に落ちていった。それだけでしょう」
「そう……、それが貴女の答えなのね? 謝れば許してあげようと思ったのに」レイミーアは悲しげにメフィーリアを見つめる。「残念だわ」
レイミーアは一歩、メフィーリアに近づいた。呼応するようにメフィーリアは後退りする。
「どうして逃げるの?」更に一歩近づいた。
「やめて……」メフィーリアは泣きそうに顔を歪める。
「死ぬのが怖い?」
「やめてよ……」メフィーリアは後ろへ足を運ぶも、腰に手摺が当たって立ち止まった。
「私は死んだわ。とても──痛かった」
「やめて!」メフィーリアはかぶりを振る。
「貴女を殺すために生き返った」
「お願い、やめて……」
「私がそう言っていれば、貴女は辞めてくれたのかしら?」
メフィーリアは手摺から半身乗り出す形に仰け反った。レイミーアはメフィーリアの肩に手を回し、抱きしめるようにして、耳元で囁く。
「私につけた渾名を覚えてる?」
「お、覚えてない……!」
メフィーリアのか細い声が打ち上げ花火にかき消された。彼女は懇願するようにレイミーアの方へと顔を向け、泣きそうな顔を浮かべる。レイミーアは頭を横に振った。メフィーリアの一筋の涙が、目から頬へと伝う。
「忘れてしまったのね。悲しいわ。貴女が名づけてくれたのに。シンデレラ──それが私の名前」
レイミーアはメフィーリアから一度離れる。その隙に彼女はその場から逃げ出そうと試みた。メフィーリアは手摺の上に乗って、身動きが取れなくなった。レイミーアは両の手を前に突き出す。そして──そのまま前にとん、と軽く押し出した。
花火がどん、と音を立てながら空に輝かしい花を開かせた。階下では、何かの崩れる音ともに火が上がる。外からは叫び声とも悲鳴ともつかない声がしたが、それも花火によってかき消された。下を覗くと、メフィーリアが燃えて黒く焦げていた。それを見て、レイミーアは仮面を付ける。
背後からバルコニーの窓が開かれる音がした。
「ここにいらしたのですね」
振り返ると、そこにはチェンバース王子が立っていた。
〇
「一体ここで何を……?」
チェンバースは聞いた。
「もうすぐ、午前零時を回るのかしら」
「それは……」王子は懐中時計を確認する。「ええ、そうです。あと数分で──」
ホールから大きな音がした。巨大な塊が砕け散るような、そんな音だ。王子は思わず振り向いた。
「見に行ったら?」レイミーアは小首を傾げる。
王子はバルコニーを出て、ホールの様子を見た。シャンデリアが落下したようだ。一人の少女──クリーシェが潰れていた。シャンデリアは簡単に落ちてこないはずだった。紐が切れたのだろうか。王子は上を向いた。滑稽にぶら下がった紐の隣で、何か影が揺らめいた。
(誰かいる!)
王子はすぐに人を呼び、追いかけさせた。
二人の兵士が三階へと上がってくるのを、従者は見つめていた。背後に道はない。逃げ場はどこにも存在しない。追い詰められたのだ。せめて、顔を見られぬようにと、従者は来るであろう二人に背を向けた。
「それでは、レイミーア様。私はここで──」
駆けつけた二人の兵士は、しかし、何も見つけられなかった。鼠が一匹いるばかりで、人の気配はない。手摺より下を見て、王子に向けて首を振った。
「誰もいません!」
王子はふとバルコニーの方を見た。
シンデレラと名乗った女性が、薄ぼんやりと透け、消えかけていた。慌ててバルコニーに戻ると、彼女は仮面を外していた。整った顔立ちには凛とした表情が浮かび、意志の強さが感じられた。
「それが、貴女の素顔なのですね」
シンデレラは一度目を背けた。
「醜いでしょう?」
揺ら揺らと煙が立ち上る。灰に包まれるようにして、少女は振り返った。その姿は、言い表せないほどに美しかった。
「そんなことはありません!」王子は叫んだ。「貴女は美しい!」
シンデレラは笑った。「優しいのね、貴方は……。もっと早くに出会いたかった」
「今からでも遅くない! さあ、こちらに戻って!」
でないと、消えてしまいそうだった。王子は必死になって説得する。
「悲しいけれど、もう、時間だわ」
王子は下唇を噛んだ。
「せめて、お名前を……」悲痛な声で聞いた。
「私は、レイミーア」
少女は悲しげに笑う。
「レイミーア」王子が繰り返した。「近いうちに、必ず会いに行く」
「それなら」レイミーアはガラスの靴を脱ぐと、「これで私を探して」
王子はレイミーアから靴を受け取った。氷のように冷たかった。職人でさえ作るのは難しいだろう。細かく丁寧な装飾がなされていた。
「あの──」王子が顔を上げる頃には、もう少女の姿はどこにもなかった。
零時を告げる鐘が鳴った。騒がしいホールを背に、王子は一人、静かな時間に浸っていた。最後にこんな言葉を聞いた気がした。
「さようなら」
それが勘違いなのかどうかはわからない。しかし、また会いたいと王子は思った。
六
仮面舞踏会より数日後。
チェンバース王子は、灰かぶりの姫を見つけだせずにいた。手掛かりとなるのは渡されたガラスの靴だけ。招待客リストからそれらしき人物を探してはみたものの、今のところ全て的外れだった。この捜索には王子も自ら出向いて行ったが、彼女と似た顔立ちの女性は見当たらない。
(どこに居るのだろう)
ふと、彼女の言葉を思い出した。
「私は死んでいる」
確かにそう言っていた。しかし、それはどういう意味だろうか。王子は頭を悩ませた。まさか、言葉通りの意味ではないだろうな、と。
「そういえば」王子は顔を上げて呟いた。「バルコニーに居た彼女は、目を離した隙に、消えてしまっていた。階下に飛び降りようとしたとして、真下では炎上している。かといって、屋上へ登ることもできまい」
そこまで考えてから、王子は再度俯く。死んでいるから消失したのかもしれない。あり得ない仮説だ、と王子は頭を掻いた。それに、もし彼女が既に死んでしまっていれば、会えないではないか──
王子は思い出す。
あの礼儀正しく優雅な佇まい。上品な笑顔。初めてとは思えない堂々とした踊り。全てが完璧で、王子の理想に近かった。一目惚れだった。
「もう一度会えないものだろうか」
レイミーアという名前を探したが、同名の人物は一人だけで、その人物は数年前に死んでしまっていた。まさか、死者が蘇る訳もあるまい。偽名だろう、とそう思って、王子は他の客から探していた。
王子は短く溜息を吐いた。切り替えて、招待客リストに目を通す。次はクリーシェとメフィーリアの宅である。ここは一つの家から二人の娘が呼ばれたようだ。選出から招待までは王子は関わっていないので、どんな人物かは知らない。
(いや待て。どこかで聞いた名だ)
仮面舞踏会にて起きた二つの事故。それによって亡くなった者たちと同じ名前ではないか。報告書を探して読み上げた。その二人と名前が一致した。王子は肩を落とす。王子はこの事故を自分の所為であると考えており、深く傷ついていたのだ。自責の念に苛まれていた。
また、この二人が彼女でないことは知っている。しかし、巻き込んでしまったことに対する謝罪をするべきだろう。一度部下が頭を下げに行ったというが、本来は自分が行くべきだったのだ。王子はそう考えていた。頭の中で謝らなければ、と思いながらついぞできぬまま。それが靄のように片隅に残り続けていた。
これはいい機会だ、と王子はリストを置いた。
二人の娘が住んでいた屋敷は、宮廷と比べてしまえば些か劣るが、それでもなかなかに立派なものだった。現在はここに母親のシェルナザートが、一人で暮らしているという。
(それもこれも、全て私の責任だ)
王子は喉がからからになった。
受けた報告によれば、妙なことばかりがわかった。シャンデリアを支えていた紐が、刃物のようなもので切られたらしい形跡があったこと。打ち上げ筒の上に転落したメフィーリアは、腰ほどの高さまである手摺を、どうやら乗り越えて転落したらしいこと。いずれも一概には事故とは断言できない話だった。
そのため、一応は事故として責任を負いながらも、殺人の線から犯人の行方を追ってもいる。それが現状だった。同時に、バルコニーに立っていたシンデレラのことを思い出す。
王子は屋敷の扉をノックする。
暫くして、窶れた顔の女性が顔を出した。随分と疲れているような、そんな表情だ。彼女は王子に目を合わせると、幾分驚いた様子だったが、しかし、そんな感動もすぐに薄らいだらしい。小さな声で、なんでしょうと聞いた。
「貴女はシェルナザートさんですね」
彼女ははあ、と間の抜けた返事をする。魂が抜けているようだ、と王子は思った。
(無理もないだろう)
王子は心が痛んだ。
「先日の事故の件で謝罪を──」
「本当に事故なんですか?」
食い気味にシェルナザートが言った。怯えるような目で、声を震わす。
「それはどういう……」王子は困惑した。
「中へどうぞ」シェルナザートは周りを見て言った。「あまり聞かれたくない話ですから」
部屋に案内され、王子は窓から庭を見た。雪が積もる中、花が輪のように並んで咲いている。外は和やかだが、部屋の中は居た堪れない。
シェルナザートはそわそわと落ち着かない様子だった。宥めようと、王子は微笑む。
「貴女は事故だとはお考えではないのですか?」
迷っているふうだったが、それから頷いて、
「あの娘がやったんじゃないかと」
「娘?」王子は繰り返す。
「レイミーアです。彼女が、私の愛おしい娘たちを、殺したのです」
シェルナザートは両手で顔を覆い隠し、泣いた。対して、王子は我が耳を疑った。王子は黙り込む。沈黙が続いた。
(彼女はレイミーアを知っている……)
「何故そう思いに?」王子は漸くそれだけを口にした。
レイミーアは数年前に亡くなっているはずだから、何かおかしい。王子は訝しげにシェルナザートを見つめる。
「"あれ"は私たちに恨みを持っていますから──ここに過ごさせてやったと言うのに」
「姿は見当たりませんが、彼女は今どこに?」
「知りません」シェルナザートははっとした表情で言った。「何故そんなことを?」
「いえ、何でもありません」
彼女はどうやら答えるつもりはないらしい、と王子は考えた。
「やっぱりあの娘の所為なのですね?」
「さあ、申し訳ありませんがそこまでは」王子は首を振った。「また何かわかり次第、部下の方がこちらまで報告にくるかと思います」
王子は立ち上がった。庭の花に、また目が向かった。花にばかり目が行ったが、よく見れば、縦に細長く盛り上がっている。何かが横たわっているような──そんな感じだ。更に、小さな枝で作った十字架が、そこに置かれている。風が吹いた。十字架は倒れ、ふたつに分かたれる。
王子は胸騒ぎを覚えた。何かそこにあるのではないか、と直感した。
「あの、彼処には何が?」王子は指を差した。
「ああ」シェルナザートはやや緊張した顔つきで、「ペットが死んだんです」
「ペット? ……それにしては随分と大きいですね」王子は玄関先へ向かう。「話は終わりです。それでは」
「あの──」
シェルナザートの話を遮るようにして、扉を抜けた。それから自室に戻った王子は、気怠くなるのを感じた。頭を抱えたくなった。数分ほど悩んだ後、王子は部下を呼びつけた。
「シェルナザート家の庭を掘り返してくれ」王子はガラスの靴を渡し、続ける。「そして、この靴が合うようなら、シェルナザートを捕えるのだ」
不思議そうな表情をしながらも、命を受けた部下たちは部屋から出て行った。王子は椅子に深く腰掛け、机に肘をつき、溜息を吐いた。
「私は死者と踊ったのか」
しかし、その体験は彼にとって最高の時間だった。もう彼女には会えないだろう。亡霊だったのだから。
「まるで、夢を見ていたかのようだ──」
ガラスの靴に触れようとして、この場にないことを思い出し、また溜息を吐いた。
後は、部下の報告を待つのみだった。
それから後のこと。
庭からはレイミーアが掘り返され、ガラスの靴は見事に嵌った。王子の命令通り、シェルナザートは逮捕された。こうして、シンデレラは復讐を完遂したのだった。やがてシェルナザートは事の詳細を全て供述した。彼女はレイミーアの両親──エスカリーチェとイムノータルの二人を殺害した罪で、死罪となった。
「私はただ、イムノータルと一緒に居たかっただけだったのに……」
そう言ってシェルナザートは泣き崩れた。
レイミーアの復讐の後には何も残らなかった。ただ、冷たい雪が降り続けるばかり。冬になるたび、王子は彼女のことを思い出す。
すべては終わったのだ。
だが、ガラスの靴は手元に残り続けていた。
魔法が解けることはなかった。
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