第6話
「おはようございます、お嬢様」
イサベレが細く開けたカーテンから、暖かい陽が差しこんできた。
「おはよう、イサベレ。もう食事かしら?今日はどんなメニュー?」
「イェシカお嬢様。まずは、お召し替えをなさいますよう」
「ええ、分かってるわ。ジョークよ」
「さようでございますか」
ベッドから降りて、お母様の肖像にも挨拶をする。
そのままもう一度ベッドに腰掛け、イサベレがドレスを選ぶのを眺めた。
「朝食後、旦那様がお話があるとのことです。本邸に行かなくてはいけませんので、いつもよりシンプルなものにいたしましょう」
「あら、お父様が?何があったのかしら……」
首を捻るが、心当たりはない。
離れに来てから2か月、ビルギッタとオーセが来てから5か月。
お父様の心配は杞憂に終わり、ビルギッタがやって来ることはない。
うん、至って快適に過ごしているわ。
唯一の難点は、庭に行けないことくらいかしら。花を見るのは好きだったけれど……こちらに花壇を作るのは現実的ではないし。
「お嬢様、こちらのドレスはいかがでしょうか」
「いいと思うわ。それでお願い」
イサベレが私の心を読んだのか……花とツタが控えめに刺繍されたドレスを着せられる。見た目は華やかさに欠ける――ともすればかなり地味なドレスだが、お父様が選んだだけあって、もちろん質は相当なものだ。
これは、『万が一鉢合わせしても、ビルギッタなら価値が分からないだろう』という、私たちの共通の認識が現れた選択なのだ。
――――
日替わりでこっそりとやってくる数人のメイドが作ってくれる朝食は、本邸の方と比べても全く劣らない。
お父様もイサベレも何も言わないけれど……うちのメイドはみんな優秀ね。
「今日も美味しかったわ」
そう微笑みかけると、彼女らも、
「はい、ありがとうございます。イェシカお嬢様」
と笑ってくれる。
……よかった、今日も平和だわ。
――――
「お嬢様、まさかお1人で?」
「ええ。嫌われて追いやられた娘が供を連れていたらおかしいわ」
「そうはおっしゃいましても……」
「大丈夫。本邸まで行けば、使用人たちが見ていてくれるわ」
ついて来ようとしたイサベレに手を振り、すぐに本邸へ向かう。
初夏の爽やかな風が髪を揺らし、木漏れ日の中を歩くのは心地よかった。
久しぶりの本邸では、ビルギッタとオーセが幅を利かせているらしい。
どうやら、2人は私が追い出されたと思ってくれているようで、
「あら。どうなさったの、離れからこちらは、遠くなくって?」
「お父様に用があって参りましたの」
「あらそう? クィンテン様は、もうあなたを娘と思っていないようですのよ……」
廊下で会ったオーセは、こんな調子である。最初は大人しそうに見えた彼女も、今はふんだんに装飾を施したドレス、派手な宝飾品に扇子……といった出で立ちだった。
「早いな。……ふん、お前にしてはいい心がけではないか」
オーセが去っていってすぐ、後ろから冷たく声がかかった。
きっと、さっきの一部始終も見ていたはずのお父様だ。
「おはようございます、お父様。お話があると伺って参りました」
丁寧に礼をすれば、お父様は無言で頷く。そのまま、黙って私たちはお父様の執務室まで歩いた。
――――
いつかのように奥の部屋に通され、ふかふかのソファに腰を下ろす。
今日は執事のステフェンもいて、彼は手際よく紅茶とお菓子を並べていく。
ステフェンは、お父様の王子時代からの従者でもあった。
「朝早くからすまないね。久しぶりだが、離れは大丈夫かい?」
厳しい表情から、一転して頰を緩めるお父様。
私は、安心してほしくてにっこり笑う。
「ええ。イサベレもいますし、メイドたちも優秀ですわ。部屋もわたくし好みですし……何より、お母様の肖像画があるなんて!」
「よかった。アウロラの肖像は、あまり大っぴらに飾れなくてな……あそこなら、毎朝すぐに見れるだろう」
「はい。本当にありがとうございます、お父様」
目を細め、お父様が頷くたびに、撫で付けられた金色の髪がちらちらと光る。
お母様の、深い夜色の髪との対比は、とても美しかったわ――と心の中でつぶやいた。
「それで、今日呼んだわけはね……ステフェン、見せてあげてくれ」
「かしこまりました」
ステフェンが、お父様の机の上から1枚の封筒を取り上げ、私に差し出す。
純白の、妙に上質な紙に嫌な予感がして……私は封蝋を確認した。
「何ですって……」
『嫌な予感ほどよく当たる』とは、本当によく言ったものね。
封蝋に押された紋章は、この国の王妃、そしてお母様を日陰に追いやった憎き相手――パニーラ・ユーン=リドマンのものだった。
促されて、そのまま中身も読む。
『1か月後、王宮で行われる茶会に、娘2人を連れてくるように』。
要約すると、そんな内容だった。
「ど――どうしてわたくしたちが?」
震える唇で問いかけると、険しい顔のお父様が口を開く。
「オーセが、平民時代に王太子殿下と思しき少年に助けられたそうでね。会って礼を言いたいと頼まれたが、まず確認の手紙を出した。そうしたら、この手紙が届いたよ」
「まあ……そのオーセの話は本当なのですか、お父様」
「私に確かめる術はない。しかし、王妃殿下が、『事実』と認めた上でこの手紙を送ってきたんだ。平民だった少女が王太子殿下に助けられ、令嬢として社交界へ――よくできた物語のようだろう」
そう言うと、お父様は紅茶を一気に飲み干した。ステフェンが注いだ2杯目にも、すぐに口をつける。
「……それが、あちらの狙いですの?ビルギッタを王太子妃に据えるための、最初のきっかけ?」
「そうだろうね。しかし、現実はそんな美談で何とかなるものではないだろうに……そもそも、殿下には婚約者がいらっしゃる」
小馬鹿にするように、お父様が微笑する。
釣られて、ようやく私もくすりと笑った。
「マーユ・オリヴィエ=シェルマン様ですわね。宰相の姪にあたる方でしたか?」
「その通りだ。父が宰相の同母弟で、分家の当主だ」
宰相は、マーユ様が王妃になっても、ビルギッタが王妃になっても得をするわけね。
隣国の王家の血を引く娘を王太子妃に据え、その2人の子供に王位継承権があると主張し攻め込む――
歴史を見れば、ままある話。
「本来なら、わたくしを妃にしたら話が早かったものの、当時、お母様はご存命……お母様がずっと元気でいらっしゃる可能性を考え、王妃殿下が激しく拒んだのでしょう」
「だから、元王子の女遊びの多さを聞きつけ、その娘を探す……そうして、やって来たのがオーセとビルギッタだったというわけだね」
確かに、ビルギッタは金髪に翡翠色の目をしていて、母親のオーセが同じ色の瞳だ。
髪はお父様に似たのだ……と言えなくもないわね。
「まあ、穴だらけの作戦なんだけどね。私は、それに乗じたいだけさ」
3杯目の紅茶を飲み干し、爽やかにお父様が笑う。
「アウロラの心が壊れきる直前まで追い詰めてくれたんだ。お返しはしなくちゃね」
……怖いわね、と思って、ちらりとステフェンを伺うと、彼と目が合う。
(奥様のこととなると、旦那様はいささか暴走気味になってしまわれる。少し考えな……おっと、情熱的なところは、お若い頃からです)
口の動きで嘆くステフェンに、私は心からの共感を込めて頷いた。