第4話
離れは、文字通り本邸からかなり『離れ』ていた。
そう、小さい頃は、たまに興味津々で探険していたわね。
そんなときも、ついて来てくれたのはイサベレだったわ……と、綺麗な姿勢で前を歩く私の侍女を見つめた。
玄関を出て、屋敷の裏にぐるりと回って……これが意外と遠いのよね。そして、使用人棟を過ぎると、高い生垣で囲まれた建物が見えてくる。
あまり大きくない、古びた建物だ。
「見た目はあまり変わらないわね」
「ビルギッタ様やオーセ様の目を気にしてのことだそうです。旦那様は、申し訳ない、とおっしゃっていました」
「まさか、ここまで来ないでしょう……かなり遠いわよ」
「ビルギッタ様ならやりかねない、とのお言葉です」
私は沈黙した。あり得そうだ。
「さあ、お嬢様、中へどうぞ」
私の沈黙をどう取ったかはわからないけれど、イサベレはまた玄関まで先導を始めた。私も黙ってついていく。
「中に入るのは初めてだわ」
「入ったことがおありですと……わたくしの寿命が、10年は縮みます」
「珍しいわね、あなたがジョークを言うなんて。面白かったわ」
「いえ。小さい頃のお嬢様は、大変おてんばでいらっしゃいましたので。毎日心臓を縮み上がらせておりました」
そうかしら、と考えるが、大したことはしていないはずよ。
――――
軋んだ扉を開けて、中に入る。
「あら……?」
古ぼけた外装とは打って変わって、玄関はぴかぴか――ではなかった。
清潔感はあるけれど、それではごまかせない、明らかに年季が入っている……と言えばいいのかしら?
お父様が言っていた『改修した』というのは、本当に最低限のものだけだったのかしら……でも、しっかり掃除はされているみたいね。
「イェシカお嬢様。こちらへどうぞ」
あまりにも私がきょろきょろしていたせいか、イサベレが歩き出してしまう。
「ええ……わかったわ」
複雑な気持ちを抱えながらついて行くと、入った部屋は、小さな居間のようなところだった。
「旦那様が、お嬢様のためにと……大変気をつけて改修させた部屋でございます」
手で部屋を示して、イサベレは私の視界の端に下がる。
「素敵な部屋ね……」
清潔で、内装は新しく趣味のよいものばかり。私好みの控えめな装飾が施されたシャンデリアが一際美しい。
屋敷の部屋とあまり変わらない……と言ってしまえばそれまでだけど、外や廊下があんな風だった分、余計にぐっときてしまう。
恐らく、この部屋も玄関や廊下とそう変わらない状態だったはずなのに……
「旦那様は、できるだけお嬢様のお好みに添うように、と試行錯誤しておいででした」
ひとりごとのように、ともすれば無感動な調子で言うイサベレが何だか面白くて、私は彼女を見つめて笑った。
「だから――こんなにわたくしの好みの部屋に?お父様は、そんなことまでご存知だったのかしら」
「僭越ながら、わたくしからも少しご助言をいたしました」
「ふふっ。そうなの、イサベレ……」
そばにあったテーブルをそっと撫でると、イサベレがまた歩き出した。
「隣が、お嬢様の寝室でございます」
――――
寝室も、上品に整えられた、居心地のよさそうな空間だった。
「あ…………」
そして、目に飛び込んできたのは、1枚の肖像画。
ベッドに横たわって上半身を上げたときに、ちょうど正面にくる位置にかけられているそれは、
「…………お母様の!」
私の母――アウロラ・フォーゲルストレームの肖像画だった。
淑女らしさを忘れてその前に駆け寄った私に、イサベレは何も言わないでいてくれる。
夜空色の美しい髪に、澄み渡った空のような淡い色の瞳!
お気に入りの白いドレスを纏ったお母様が、微笑んでいた。
「美しいわ……ねえ、イサベレ……」
「……さようでございますね」
目が熱くなり、お母様の微笑が霞んだことに気づいて……照れ隠しのつもりで彼女の方に振り向いた。
ところが、彼女も、切なげに顔を歪めていた。
「……申し訳ございません。お嬢様」
「いいのよ――だって、あなたは……お母様の侍女じゃないの」
イサベレは、私の侍女になる前は、お母様付きの侍女だった。
4つ歳下の主人の遊び相手として育ち、メイドから侍女になり、その主人のたっての願いで、彼女の娘……つまり私の侍女になった。
「お言葉ですが……今のわたくしは、お嬢様の侍女でございます」
私の言葉が気に触ったのかしら……彼女は、凛々しい表情に一転し、大胆にも目元を強引に拭った。
「明日、腫れてしまうわ」
「冷やしてから寝ますので、ご心配には及びません」
あっという間に侍女の顔に戻ったイサベレは、お母様の肖像に視線を戻す。
それにならって、私も、お母様を見た。
「……こんなに素敵なお母様を、よくも、まあ……」
せっかく、世にも美しいお母様を見ていたのに!忌々しい名前が頭の片隅でちらついてしまった。
この微笑を浮かべられるようになるまで、お母様はどれほど苦しんだのか。
「あの方……パニーラは、わたくしの髪をご覧になったら、どう思うかしらね?」
そう言いながら、近くにあった鏡台を覗き込む。
夜空色の髪と金色の目をした娘が、楽しそうに笑っていた。