第16話
「ね、申し上げましたでしょう、クィンテン様は、意外と泣き虫なお方なのですよ」
離れへ戻る道すがら、幼少期からお父様の従者をしているステフェンによる、ちょっとした告げ口めいたもの。
3兄弟の末っ子で、小さなころは「泣き虫王子」と城の一同から見守られていたのだというその心温まるような小話に、わたくしはつい表情を綻ばせ――て、いませんわ。
「確かに、わたくしの前では、お父様はあまり泣いたりはなさいませんけれど、やれ幼いころは転んだだけで泣いていただの、お母様との初対面の日、お母様が美しすぎて号泣しただの、お母様からもステフェンからも事あるごとに聞かされているんですもの、ふうん……としか思えなかったのだけれど、何か異論があって?」
――――
さて、そんなお父様も、王子としてお育ちになり、今も名目上とはいえ侯爵をお務めになっているだけあって、なるほど、しかるべき相手の前ではやはり堂々たる振る舞いをなさるのね、と、初めてそれを目の当たりにした私はつい、しみじみと、応接間で展開されていくマーユとお父様の会話を見ながら……尊敬の念を新たにせずにはいられなかった。
「それでは、フォーゲルストレーム侯爵閣下は、王妃殿下の失脚をお望みであり、わたくしを味方に引き入れようと思っていらっしゃるのね?」
波打つ黒髪に赤いリボンを飾ったマーユが問えば、
「オリヴェル=シェルマン準公爵令嬢こそ、王妃殿下に対して疑念をお持ちのご様子。それを考えるのならば、後腐れなくリドマン家と縁を切る、ちょうどよい機会ではありませんか?」
と涼しい顔でお父様が応じる。
「そうね……今は政から遠ざけられているとはいえ、元は王子様。外戚になって権力を取り戻すべく、わたくしを排除して王妃殿下に媚を売ろうとしておられるのかも……ねえ、イェシカ?」
2人のやりとりを他人事で眺めていた私は、急に話を振られて動転する。
狼狽える私にマーユはくすくすと笑って、その丸みを帯びた頬に手を当てた。
「ごめんなさいね、友達のお父様にとる態度じゃなかったわ。うふふ、あの子だけなら、甘やかされて溺愛されているのは妹の方と言われて納得していたけれど、イェシカを見ていれば、お父様に疎まれているだなんて、全くのでたらめだってすぐバレちゃうわね。道理で、パーティーや夜会には連れていらっしゃらないわけだわ。まあ、もちろん、他の貴族からあなたを守るためというのもあるでしょうけれど……」
最後はお父様の方を楽しげに見て、やがて、彼女は、「是非、詳しくお話を聞かせていただける?」と言った。それにお父様は金色の目を細めて、ありがとう、と答える。そして徐に立ち上がると、私に目配せし、
「一瞬だけ失礼するよ」
と扉を開けて出て行ってしまった。あら……?
「……ところで、妹君は、今日はお出かけかしら?」
すました顔で紅茶に口をつけるマーユ。会うのはあの日ぶりで、そうね、まだ私たち、顔を合わせるのも2回目だったのね。
けれど、なんだか彼女の姿を見ていると、他人とは思えないような、もともとの知り合いのような、そんな感覚に包まれるから不思議だった。
「ええ。オーセ――彼女の母と一緒に、買い物に行っているの」
「そう。ほら、この前――先月だったかしら?――エドヴァルド様と一緒にお伺いした時、久々にしっかり顔を見られたけれど、本当に、綺麗なお嬢さんだったわね。わたし、これでも色々なご令嬢と会っているし、オーバネット・ミーアでも、たくさんの方にご挨拶する機会があったわけね。だけど、彼女は相当綺麗な女の子だし、相当躾がなっていないお子様よ」
最初は相槌を打っていた私も、ぎゅっと眉間にしわを寄せる彼女が面白くて、ふ、と笑い声が漏れてしまう。それに気づいてか気づいていないのか、マーユはぱちりと灰色の、まんまるな目を瞬かせ、
「でも、だからこそ、王妃殿下からしたら操りやすいお人形だし、エドヴァルド様にとっても、突如として現れた運命の天使、なのよね」
と、一転、冷ややかな微笑みを浮かべた。
「運命の……」
「そ、運命よ。あなたも察しているかもしれないけれど、エドヴァルド様は、夢見がちな王子様なの。両親の壮大な恋愛結婚に憧れる、可憐なお人なのよ」
お似合いでいいんじゃない?
彼女の、放り投げるような、そんな言葉に、私は苦笑することしかできなかった。
――――
フォーゲルストレーム家代々の当主によって、麗しく、それでいて落ち着きをもって纏められた応接室に、マーユの細いため息が落ちる。
「……そう、そうだったのね。アウロラ様は」
一度席を外したお父様は、お母様の肖像画を入れたペンダントと、私のおじい様に当たる前侯爵の日記を持って戻ってきた。
そして、私たちは、初めて家族以外――マーユに対し、お母様とパニーラ・ユーン=リドマンの因縁を打ち明けたのよ。
「そう……本当に……なんてことなの」
彼女は、王宮で会った際も、自身の経験から「自分より秀でた人間を、王妃がどうするか」と、あの女がお母様に嫉妬し、陥れた可能性について推測してみせた。しかも、わたくしに会うずっと前から、その結論に手をかけていたのだ。それを知ったときの衝撃は、今もなかなか忘れられない。
なんてこと、と再び短く言って、悲しそうに俯いてしまったマーユの肩に、そっと、手を置く。お母様のことを信じ、こうやって惜しんでくれるお友達がいてくれることを、私はなんと感謝すればいいのかわからなかった。