第12話
「可愛らしい子だったでしょう?」
蜜柑色の瞳を細め、母上は僕に笑いかけた。
「はい。くるくる表情が変わる、珍しい令嬢でしたね。市井の話を聞けたのも有意義でした」
「そうね、エド。実際の経験は、知識にも勝るものよ」
僕のことを『エド』と愛称で呼ぶのは、ごく限られた親しい人だけ。婚約者であるマーユ・オリヴェル=シェルマンですら、『エドヴァルド様』と僕を呼ぶ。
「わたくしが席を外している間、ビルギッタ嬢とはどんな話をしたの?」
一瞬浮かんだ、内気で、いつも困ったような微笑を浮かべる婚約者の姿が……ビルギッタ嬢の姿に描き換えられる。
女神が降りたかと見紛うほどの金髪。
好奇心と優しさが煌めいた翡翠の瞳。
服越しでも分かるほど柔らかな肢体。
胸が何かで満たされたようで、それでいて何かを渇望するようで――言葉が出ないままの僕を、母上は楽しそうに見つめている。
「……特別な話は、何も。でも、彼女が笑っていて……」
父上と母上の、それはそれは有名な恋物語を聞いて育った。
自分も、いつか『運命の人』と出会い、そして結ばれたいと思ってきた。
婚約者のマーユ嬢は、確かに誠実で、丁寧に僕を支えてくれる。
彼女は好ましい。しかし、運命の人ではない。そんな奇妙な確信があった。
「ただ市井の話が珍しかっただけかもしれませんが……平民だった時の話を楽しげに聞かせてくれたのが、印象的で」
両親のような運命の恋は、ごく稀なんだと割り切っていても……王太子である以上、この結婚は義務だと分かっていても……どこかで、夢見ていた。
「そして、『いっぱい聞いてくださって、嬉しかったです』と言ってくれたんです。僕の目をまっすぐ見ながら、はにかんで。幸せそうに」
マーユ嬢ですら、見せてくれたことのない――優しく、甘く蕩けた笑顔で、僕を見てくれる誰か。
そして、それを見た僕も、同じ表情を向けるだろう誰か。
幼い頃から抱いていた、密かな夢。
「……あんな風に笑ってくれたのは、彼女だけです」
焦がれるような思いをそっと言葉にすれば、母上はそれまでの微笑をふと薄めた。
楽しげだったその表情に、窘めるような色が混ざる。
「エド……あなたの婚約者はマーユよ。ビルギッタ嬢は確かに素敵なご令嬢だけど、彼女と比べるような言い方はよくないわ」
「……はい、……僕の浅慮でした」
――僕の婚約者は、マーユ嬢。
それは当たり前のことなのに、断言されると心がざわついた。
こんなこと、今までなかったのに。
「あなたはいずれ、陛下の後を継いで国王となるのでしょう?それを支える伴侶として、マーユ以上にふさわしい令嬢はいないわ。家柄、資質、性格……どれをとっても、王妃としてふさわしいわ」
柔らかい笑みを浮かべ、母上は言う。
そう、マーユ嬢ほど、王妃にふさわしい令嬢はいない。
国を治める『国王』の伴侶としての『王妃』――否、分かっている。
僕が王太子である以上、この結婚は義務だ。
王家の地位を、ランネージスの地位を盤石にするための、政略結婚。
そして、マーユ嬢は、その結婚にふさわしい相手。
未来の国王たる『王太子』の妃として選ばれた令嬢なのだ。
「悪いことは言わないわ、エド。身分違いの恋など、お互いを苦しめるだけよ。……いくら思い合っていても、あなたとビルギッタ嬢が結ばれることはないのよ」
――――え?
「いえ、……僕はっ、恋、など…………」
婚約者がいるのに、恋などと。
王太子としてあり得ない、と否定しようとしたのに、口から出たのは途切れ途切れの言葉だった。
『恋』
その意味が体の中を駆け巡る中、ビルギッタ嬢の笑顔が脳裏に浮かぶ。
蕩けるような、そして、もっと蕩けさせてしまいたい……ともう1人の僕が囁くような。
ああ――これが。
「……残念だけど、彼女のことは忘れてもらうほかないわね。このまま、あなたはマーユと結婚するのよ。マーユだって、伴侶として申し分ないじゃない――あの子はいい王妃になるわ」
動揺、幸福、焦燥、不安……
波のように気持ちが押し寄せる中、母上は何も気づいていないように笑う。
「ビルギッタ嬢が好きなのでしょう?彼女を守るためにも、……分かるわね、エド」
たった今自覚した恋を、殺すこと。
王族たる以上、大したことではない。
これくらいの気持ち、簡単に手折れなくてはいけない……分かっているのだ!
「…………はい」
渦巻く思いを飲み込むため、目をきつく閉じ、声を絞り出す。
ひりつく喉から出たそれは、ひどく低くて掠れていた。
「いい子ね、エド。分かってくれて、母上は嬉しいわ」
閉じたままの目の裏に、彼女の姿が煌めく。
いつか、絶対――――
その先に続く言葉が何かは、自分でも分からないけれど。
やっと見つけた『運命の相手』に、僕はそっと何かを誓った。




