大正錦魚ろまん
夕方だというのじっとりと肌にまとわりつくような暑さに、蝉の大合唱。
精悍な顔つきの男は手にした筆を置いた。いくら書生とは言え、こうも暑くてはさすがに勉強にも熱が入らない。
近頃はどうにも堪える。特に今日は一等暑い日だ。
額に浮かぶ汗を手ぬぐいで拭うと、自分に与えられた六畳ほどの部屋を抜け出した。
下宿先の先生の奥様に一言告げると、夕涼みと称して下宿先を後にした。散歩がてら生ぬるい風を感じながら町を闊歩する。
故郷の片田舎から出てきて二年ほど。こんな都会に出てきたときは何もかもが進んで真新しく新鮮に映ったものだが、今では随分と慣れてきた。
町中に近づけば、何やら賑やかしい。どんどんと人が多くなって気が付いた。どうやら今日は縁日だったらしい。道端に並んだ露店が客寄せをしている。
友人でも誘えばよかったかと後悔しかけたが、せっかく来たからと店をひやかしていく。
食い物のひとつでも買ってみようかと店の前で立ち止まった。
「まあ、凄く綺麗でかわいらしいのね!」
懐の財布を探っていると、ころころと鈴を転がすような高い声が耳に入る。
なんとなく振り返れば、はっと目を引く真っ赤な洋装の少女の姿が飛び込んできた。
どうやら斜向かいの飴細工の露店に声を掛けたらしい。
「おじさま、それひとつ下さらない?」
つやつやとした濡羽色のおかっぱ頭に、うふふと笑う口元にはどれすと同じ色の紅が引いてある。
(なんと綺麗な女だろうか)
年の頃は自分とそれほど変わらなそうだ。十五、六くらいだろうか。幼げな顔立ちながら、それでいてどこか大人びた眼差しに目が釘付けになる。
それにしても洋装というものはだいぶ見慣れはしたが、なんてハイカラな格好をしているのか。
まるで錦魚のようだ。まあるい鉢の中に飼われているあの尾びれを彷彿とさせる。
あんなに派手な格好だというのに、通りすぎる人は特に彼女に見向きもしない。
やはり都会の人間というものは、こんな女性はいくらでも見慣れてしまっているとでもいうのか。
どう見てもどこぞの良家のお嬢さんといった風体だ。それなのに、周りに付き人のような者は見当たらない。
こんな夕暮れに一人でうろついていいものなのだろうか。
様々な疑問がふつふつと湧きあがってくる。
じっと見つめすぎた視線に気付いたのか、振り返った少女とぱちりと目が合ってしまった。
「あっ」
ふふふ、と小さく口元が弧を描き微笑みを返してくれた。
いっそ声でもかけてみようか。しかし、そんなことを考えるうちに彼女は視線をすぐ逸らすと飴細工を受け取って立ち去ってしまうところだった
(どこへ行くんだろう)
ひらひらと薄っすら透ける裾を翻し、彼女は人の波を抜けていく。
やはり、あんなに真っ赤な装いはよく目立つ。自分は一度気になるとどこまでも知りたくなる性分だ。
どこまで行くのだろうと気付かれないよう、そっと間を空けて後をつけていく。
ふと気づけば、いつの間にか賑わいは遠ざかり辺りに人はいなくなっていた。
だというのに彼女はまだ止まらない。こっそり家を抜け出して露店を見に来たものと思っていたが見当が外れたらしい。
(この先は…!)
彼女が目指しているのはどうやら森の奥らしい。じき日も暮れる。少女一人が入っていくには不気味すぎる場所だ。
いい加減一人なのだし声を掛けようとしたが、今そうしたらなぜか彼女は消えてしまう気がして出来なかった。
鬱蒼とした木々に覆われた森。ここらの住人はあまり森には入らないという。
道だって悪いに決まっている。お嬢さんのような綺麗な装いで来るような場所ではない。あのひらひらは枝に引っかかるし靴だって泥で汚れてしまう。
だというのに、なぜだか分かりにくくはなっているが獣道のような人一人が通れそうな道ができていた。
気付かれぬよう慎重に進むが、予想外にするすると足取り軽く進んでいく彼女は気を抜けば見失ってしまいそうである。
躍起になって、突然ふっと彼女の姿が消えた。
「なっ」
もはやこうなれば隠れるどころではなく、急いで後を追う。木々の枝の先を抜ければ、そこはひっそりとした池のほとりだった。
こんな所に池があったとは知らなかった。普通に生活していたのなら絶対に気づくことのないような場所だ。
ここでようやっと気が付いた。良家のお嬢さんがこんなところにわざわざ出向くなど、理由は想像に難くない。
誰か男でも待っているのだろう。ほんの出来心で追いかけてきた自分が馬鹿だった。
身分差の恋とやらだろう。きっとそういう類の逢瀬だ。
一目見てあの少女を可憐だと思う男は多いに決まっている。勝手に決めつけ気を悪くしていると、ぱしゃりと水の飛沫が上がる音がした。
顔をあげれば、幾ばくか先に先程の少女がいる。
あのひらひらとしたどれすから真白い足を覗かせ水の中に浸している。
無粋な真似をするわけにも、と立ち去ろうとした時ベタにも足元の枝を踏んで大きな音を立ててしまった。
(しまった!)
顔をあげた彼女は自分の姿を見て僅かに目を瞠ると、なんの躊躇いもなく池の中に身を投げ込んだ。
赤いどれすが水の中に広がり、本当に金魚のよう…などと呑気なことを考える暇はない。
まさか、青くなって自分は呆然と立ち尽くす。ふつふつと湧きたっていた泡が消えても一向に彼女は浮かんでは来ない。
自分のせいでこんなことになったのだ。赤い少女を追って着物も脱がず池に飛び込んだ。
思っていたよりも池は深い。水はきれいだが底の方まで透き通っているほどではない。
あの赤を探すが、もう底の方まで沈んでしまったのか見当たらない。
水を吸ってまとわりつく衣服が鬱陶しい。体が思うように動かず自分まで沈んでしまいそうだ。
一度上にあがって、それから…
(!!っ)
目の前に突然水草の壁が現れ、顔をぞろりと撫ぜた。
驚きに、ごぼっと大量に息が口から零れてしまう。同時に同じだけの水が流れ込んできて呼吸が一気に苦しくなる。
思考が上手くできない。上にいかなければと闇雲に手を動かすが、反対に身体はどんどん水底へと引き寄せられていく気がする。
ああ、罰が当たったのかと。他人の逢瀬をこっそり観察しようなどと思ったことが間違いだったのかと。
そんな考えが過る。段々と指先まで凍り付いたように動かなくなっていく。
なんてことだ。片田舎から勉学に励むために出てきたというのに…先生の奥様にもすぐに戻ると伝えたのに…
ほの暗くなっていく閉じかけた視界の中に赤が一面に広がった気がした。
「…だ…いる?ねえ……さ…な!」
冷たい何かが頬を叩いている。ぱちぱちと段々それが強くなっていくので意識が浮上した。
「起きなさいな!!ねえ、生きているでしょう?脈はあるのよ!」
若い少女の声。ころころと鈴の転がるような、聞き覚えがある。どこで聞いたのだったか。
「う…」
「あっ!意識が戻ったのね。ねえ、貴方、私が分かる?」
目を開けて飛び込んできたのは夕陽に照らされた鮮やかな赤と、艶やかな濡れた黒髪。
彼女の顔を見て、自分は飛び上がる様に身を起こした。
「まあ、貴方!!急に起き上るのは良くないわ。身体は大丈夫かしら?」
「き、きみは…」
ぐらりとするどうにか手で支えて大きく深く息を吸う。さっき池に飛び込んだはずの彼女は今、確かに自分の目の前にいた。
「この池に飛び込むなんて何を考えているの!!」
こちらが声を掛けるより早く、彼女は鬼気迫る勢いで捲し立てた。
きっと自分は酷くまぬけな顔を晒してしまったのだろう。彼女は毒気を抜かれた顔になってため息を吐く。
「きみこそ、俺の顔をみた途端池に飛び込んだじゃないか。俺のせいできみが自殺を図ったのではないかと…」
「あら、心配してくれたのね。そこは素直にありがとうと言っておくわ。でも、私自殺なんてしないわ。するはずがない」
一度言葉を切った彼女の目が、妖しく光った気がした。
「だって、そんなの、人間のすることですもの」
「え…何を…」
彼女の視線は彼女自身の足へと向けられている。つられて、自分も目で辿り、息を飲んだ。
足が、ない。洋装の裾に見えていたものが、ぬるりとしたまるで魚のひれのようなものに変わっている。
おまけに彼女の顔や手には人にはないはずの鱗が浮かんでいる。
「貴方、さっきの露店で私を見ていた人ね。私のことが‘視’えているみたいだったから早くここから返さなくちゃと思ったのよ」
本当に、錦魚の妖怪だとでもいうのか。
男の意図をくみ取ったように彼女は笑う。
「あ…なん…」
「私が怖い?けれど貴方が勝手についてきたのだから仕方がないわよね」
ぞく、と身の毛のよだつような妖気が辺りに満ちていく。
ぽたりと彼女の髪から雫が落ちて、地面に染みを作った。
「気付かなかったの?だあれも私のことを見てなんかいなかったの。視えてなかったからなのよ」
冷静に考えたらそうだ。あんな目立つ格好、誰も見向きしないんなんておかしい話だったのだ。
けれど、そうしたら彼女は飴を買った時どうしたのか。
「だって、飴屋の親父と話していたよな」
「逢魔ヶ時は私達も一時なら姿を見せられるのよ。それがどんな姿であってもね。あのおじさまにはきっと幼い子供に見えていたことでしょうね」
すっと彼女の顔が近くなる。目元にある赤い鱗がまるで目を化粧のように彩っているようだ。
「分かったなら、もう帰りなさいな。そうでないと、貴方を食べてしまうわよ」
つ、と白い指が自分のあご先をなぞる。蠱惑的な色を湛えた赤い瞳がすっと細くなり男の目を捉える。
「なぜ、人の里に降りていた?」
「嫌ね。言っておくけど私、すき好んで人を襲って食べたりなんてしてないわよ?私、祭が好きなの。それだけよ」
くすりと彼女の口元は弧を描く。
「さあ、分かったのなら早く帰りなさい。完全に陽が落ちたら、貴方帰れなくなってしまうわ」
「それは、なぜ?」
「ここは人の側の世じゃあないもの。夜になったら妖達が動き回る。まずいのにみつかったら喰われてお終いよ」
恐ろしいことを笑いながら言ってのけるものだ。確かにもう日がほとんど落ちかけている。悠長にしている暇はなさそうだ。
ああ、おかげで暑さなど吹き飛んでしまった心地がする。
「いいこと、そこに大木が二つあるでしょう。その間を抜けて、真っ直ぐ進むのよ」
確かに樹齢の古そうな木がそびえ立っている。その間は草が生い茂っているが、人一人くらいならば通り抜けられそうな隙間がある。
「その、すまない。勝手に後をつけてきてしまって。きみのことは怖いとは思わなかった」
「あら、そう?」
「なあ、きみにまた会いに来てもいいか?近頃は暑くて、この水場は涼むのに丁度良さそうだ」
男の言葉に驚いた表情をした彼女は、目を丸く見開いた。
「貴方、私の話を聞いていたのかしら!ここは人の側ではないのよ」
「ではどうしたらまたきみに会うことができる?」
名残惜しそうに呟いた男に、錦魚は眉を下げた。
「そんな顔をしてくれるなんて。そこまで言うなら構わないわ。ただし、夕から夜の間中は絶対に来てはならないから。これだけは守って頂戴」
「それは、どうして?」
「夜は妖の時間よ。特に昼間は眠っている狂暴なやつらに出くわせば人間なんて喰われてお終いだからよ。さあ、おしゃべりはここまで。早く帰りなさい」
ひらと、彼女のひれが揺れる。指し示すのは、あの木の間。
そっと背を押されるままに男は走り出す。
これが、錦魚の少女と男の奇妙な出会いの始まりだった―
「ああ、なんて美味しそうな人間なのかしら。すぐに食べてしまうなんて……勿体ない」
愉しそうに、真っ赤な錦魚の少女は笑った。