姉姫様は、駆けていく
ランタンがかしゃんと音をたてた。
日暮れから少し、辺りはすでに暗い。深々とした冷えが足元から這い上がってくる。
夜半には雪が降り出すだろうか?
重く陰り垂れ込めた濃灰色の雲からは、今にも雪が降り出しそうだ。
一人一人に支給されたランタンの光が心強く、それでいて夜の森の気配の前では心許なかった。
狼が出ないと良い。
吐いた息は白く濁って大気に溶けた。
*
城の長姫が行方知れずと伝わってきたのは朝番と遅番が交代し、昼の慌しさが一息ついた頃だった。寝過ごしだろうと放っておかれた長姫の不在が判明したのが昼前、術師は「長姫は森にいる」と卦を出した。
今は冬の極み、森は精霊の力の及ぶところである。
姫の探索に選ばれたものは各々魔よけの装身具を持参するように求められた。術師は簡単な加護与の儀もこなす。隊列を組んだ男達の胸に輝くのは大半が長短様々なロザリオだ。術師が一人一人の装身具に加護の力を与えていく。ロザリオを両手に捧げ持ち一息、包み込むように握りこむ。恭しく戻されたそれは何処か厳かな気配を帯びていた。目の前に立った老年の術師は祖母の形見の首飾りを一瞥し、隣へと移った。
一人ずつ支給されたランタンに次々と火が入れられていく。森は広大であるため、決められた範囲を単独で捜索する。
ランタンは、持ち上げる時かしゃんと音を立てた。
*
城は姉妹姫2人の婚礼を控えていた。
姉は森に嫁ぎ、妹は森を挟んで接した他領から婿を取る。
ねぇ、母様。お婿様早く来ないかしら。とっても素敵な方なのよ。金の髪に青い瞳の。笑顔がとても素敵なの。
まぁ、娘。そんなに慌てなくても大丈夫。春になったら貴女の婚礼は満開の花々に祝福されるでしょう。でもその前に、あなたの姉姫が結婚しなくてはね。
…姉さま早く結婚なされば良いのだわ。そうしたら私が結婚できるもの。私、雪のティアラだってちっとも気にしないのよ。
そういうわけには行かないの。これは古い約束事なのだから。もう少しだわ。我慢できるでしょう?
……はい。母様。
妹姫は花のよう。砂糖菓子のように甘いもので出来ている。
城の人間は皆、幸せに満ちて婚礼までの日を指折り数えて待ち焦がれる姫の姿を見ていた。
かしゃんとランタンが音を立てた。降り出した雪の中どうやら物想いに囚われていたらしい。
ここは森でも道がある。立ち止まり、灯を掲げて周りを見回した。
弱弱しい光りが照らし出す。
投げ出された腕、分厚く暗い色の外套、雪に冷やされた蒼白な女の顔。
急ぎ駆け寄り息を確認すれば、微かに反応があった。安堵のため息が漏れる。
しかし触れた手は氷のように冷たい。
手早くランタンを腰のベルトに固定し、女の体を慎重に抱え上げる。
元来た道、城へと歩き出した。
*
暖炉の前に置かれた大桶の前に集う女達とこの城で権限を持つ3人の男の顔は、暖炉に入れられた焔に照らされて右や左が赤らんで見えた。
大桶の周りでは何人もの女たちが入れ代わり立ち代わる。一人の年若い女が輪から外れたとき、ちらりと大桶の縁に置かれた細い女の腕が見えた。雪に冷え切った女の腕はすぐに、世話する女達のスカートに隠された。
3人の男達の顔は一様に険しい。
お許し下さい、お父様。少し散歩をしようと城を出て、道に迷ってしまったのです。
…そんな、何処に行くというのです?私はこの城の長姫。もちろん忘れてなどいませんわ。
細い声が鼓膜を揺らす。暖炉の焔が大きく踊った。
脳裏に甦る、赫に撒かれる女の姿。
*
夜は深く、闇は静かだった。
明日は姉姫の婚礼の日。人々は避けるように早々に床に就き、常よりも少ない寝ず番だけが起きている。
そっと部屋に忍び入る。婚礼衣装を身に纏い、毛布に包まって、姉姫は掃き出し窓から外を見ていた。
座る姫の、すぐ後ろに立つ。
姫は侵入者に気付いたようだったが、身じろぎすらしなかった。
ずっと考えていた。多分、自分も彼女も。
逃げませんか、姫様。
何処へ?
何処かへ。
皆、怒るわ。
怒らせれば良い。
貴方は?
?
困らない?
俺は天涯孤独の身の上なので。困る人はいないんです。
漸く振り返った姉姫に、真心込めて微笑みかけた。
全てに眠りの幕が落ち、月の吐息も氷る夜。
全てのものが、夜の底。
*
寝静まった夜は2人に味方して、木陰から覗いているのは泉下に下った女達。蒼白な腕に掲げられた青白い灯りが照らし出す、生きる若い2人のための道。
2人は森を駆けていく。
微笑みを眼と眼で交わし、手に手を取って駆けていく。
*
ある森傍の城で、一人の姫が行方をくらませた。
古の契約に従い、森の花嫁として捧げられる前日に。
城主は妹姫を代わりに捧げる他なく、家門の跡取りを失ったその土地は森向こうの領地へと併呑された。
Fin.